揺籃歌*
宮殿から一際遠い離宮。
アステルはその扉の前で大きく深呼吸すると、力ずよく握りしめた拳を開いて絢爛豪華な扉を開けた。
「あら、いらっしゃい」
「はじめまして……義母上様」
黄金の椅子にゆるりと座り、侍女に爪を手入れさせていた女性、ラーカムの母は
アステルに視線を向けると美しい口元を引き上げて立ち上がる。
「ごめんなさいね、仕度に時間がかかってしまって……さあ、どうぞあちらへ」
「はい、失礼します」
口元をヴェールで隠した侍女に案内されるまま、アステルは大きな大理石の食卓に座る。
長い大理石の食卓の端と端、一組しかない席の向こう側にラーカムの母が腰を下ろした。
褐色の肌に映える美しい赤い髪と、青い瞳。
年齢こそ重ねてはいるが、その美しい見目は間違いなくラーカムに引き継がれていた。
「貴女をもてなすためにとっておきの葡萄酒を用意させたの、どうぞ召し上がってちょうだい」
銀のグラスに注がれた葡萄酒がアステルの前に置かれる。
アステルがグラスを傾けると、顔を顰めてゴホゴホと咳きこんだ。
「……貴女、宮殿で毒見をしていないものに口を付けてはならないと教わらなかったのかしら?」
ラーカムの母は少し呆れたようにそう呟くと、侍女に耳打ちをする。
「すみません……まだ葡萄酒はの見慣れなくて……」
侍女の持ってきた水差しの水を飲み干して、アステルは口元をナプキンで押さえた。
「私がその葡萄酒に毒を入れるとは思わなかったの?」
「はい……だって、ラーカムさんの即位が決まった今、義母上様が私に毒を盛る必要がありませんから」
まっすぐに向けられたアステルの微笑みに、ラーカムの母は一瞬目を丸くして呆気に取られた。
「ふふ、ただの田舎の娘かと思っていたけど案外肝が据わっているのね……時期皇后として見どころがあるわね貴女」
面白そうに目を細めて、ラーカムの母は葡萄酒を煽る。
「それで、ラーカムさんが何度か手紙を送っていると思うのですが」
「ええ……そうね」
皇位継承が決まり、ラーカムは母親を宮殿に呼び寄せようと幾度となく手紙を送っていたが
しかし、そのどれにもラーカムの母は返事をよこさなかった。
「まだラーカムさんが皇位を継承する事に納得していない人も沢山います、義母上様もラーカムさんの近くに居た方が身の安全が図れると思うんです、だから……」
「そう……まだ母だと思ってくれているのね」
伏せられた瞼の長い睫毛が頬に影を落とす。
「当然です、ラーカムさんは義母上様の事を大切に思っています、だから!」
「新婚なのに姑と同居をしたいだなんて、貴女本当に変わっているわね」
「そ、それはッ」
クスクスといたずらっぽく笑う笑顔がラーカムにそっくりだと、アステルは改めて思った。
「そうね、だけど私が愛するのは皇帝ラーカム=レジェンドラだから……あの子を、息子として愛した事は一度もないわ……これまでも、きっとこの先も」
その笑顔の奥のどこか憐憫を含んだ瞳の色に、アステルは何も言えなくなってしまった。
「貴女……アステルと言ったわね、歌を歌ってあげるわ」
「歌?」
「ええ……あの子が、私によくねだった歌、子守歌に聴かせてあげた歌」
月明かりに、金糸雀のような歌声が響く。
優しいメロディーと子供を慈しむ、愛の歌。
「私が貴女にあげられる、ただ一つのもの……貴女が歌ってあげてちょうだい
そして、私があげられなかったものを、貴女があの子にあげてちょうだい」
「はい……わかりました」
ありがとう、と小さく呟いた唇はまた静かに愛を紡ぐのだった。
─了─