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    カナト

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    POIPOI 44

    カナト

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    ユシュカコノヤロゥ その日は少し嫌なことがあった日だった。
     私は薄暗くて狭くて、誰も来ない場所で、からだを小さくして膝を抱えていた。
    『……ここは?』
     と、そんな場所であるはずなのに、不意に少女の声が聞こえて、私は思わず伏せていた顔を上げた。
     声のした方を見ると、黒髪の少女が不思議そうに辺りを見回している。年齢は私よりも少し上だろうか。
     少女はその場をうろうろとうろついて、物陰にいた私を見つけた。
    『あの、ここはどこか分かりますか?』
     覗き込まれた瞳は血のように紅く、意志の強そうな顔立ちをしている。
    「きみこそ、どうしてこんなところに……」
     そう呟いて、彼女には場所など関係ないかと思い直した。
     彼女のからだはうっすらと透けていて、向こう側が見えていたのだから。
    「ここは、ネクロデア城の地下宝物庫だ」
    『えっ』
     彼女の望む答えを返すと、彼女は瞳を見開き声を上げた。
     実態がないにしても、一国の宝物庫に侵入しているという事態は褒められたものではないだろう。
    『あの、お名前お伺いしてもいいでしょうか? 私は、カナトです』
     きちんと自分から名乗るという、礼儀正しい彼女……カナトを私はすぐに気に入った。
     我が国は礼節を重んじる。国民も皆礼儀正しいものばかりで、秩序を重んじる真面目な人物が多い。
    「私はナジーン。この国の王子だ」
     そう告げれば、カナトは不躾にも私をジロジロと見てきた。先程まで礼儀正しいと思っていたのに、これは失礼ではないだろうか。
    『あの』
     そう思っていると、カナトは恐る恐るといったふうに私に声をかける。
    『ユシュカを知っていますか?』
    「ユシュカ?」
     問われて小首を傾げる。そんな人物に心当たりはない。
     そう告げると、カナトは更に驚いたような表情をした。
     カナトが更になにか言おうと口を開いたところで、私を呼ぶ声が聞こえた。
     さすがにここにいるのはマズいと、折り曲げていたからだをのばして、服についたホコリをはたく。
     カナトはそれをじっと見つめていただけだった。
     この場所は宝物庫だというのに、中の宝石類には興味はないようだ。
     地下室からこっそりと抜け出して、何食わぬ顔で部屋に戻ると、カナトもふわふわとついてきていた。
    「どうして私についてくるんだ」
    『どうしてって、何故か離れられないんですよ』
     困ったようにカナトが笑い、私から十メートルほど離れたところで動かなくなった。
     代わりに私が離れようと動くと、カナトは私に引っ張られてズルズルと引き摺られているようだ。
     霊が引き摺られているというのもシュールな光景だが、どうして彼女が私に憑いているのかが謎である。私たちは初対面のはずだ。
     引き摺られたカナトは、ふわふわと私の近くに戻って来て、困ったような顔をしていた。
     私だって困りたいが、この状況を打破するすべはない。
     とりあえず彼女は害があるように見えないので、対処法はおいおい考えることにして、私は机に向かって勉強をすることにした。
    『魔界史』
     本のタイトルを読んで、カナトは興味深げにページを覗き込む。自分からページをくることはしないようだ。出来ないのかもしれない。
     私は砂漠の小国家群がまだ大きなひとつの海浜都市であった時代のページをめくる。描かれているのは、赤毛の魔族だ。
    『ヴァルザード……』
     呟かれた言葉は、赤毛の魔族の名前だった。栄えある大魔王に名前を連ねる英傑だ。
     ネクロデアは砂漠の小国家群との交易が盛んだ。故に、砂漠の歴史は非常に重要なものである。
     カナトはそれから静かに私のそばで本を見ていた。そばに誰か常にいるのは普通は落ち着かないだろうが、何故か彼女のそばは落ち着く。
     砂漠の歴史についての記述を一通り見たところで、ノックの音が聞こえた。
     返事をすると侍従が入ってきて、晩餐の時間を告げる。もうそんな時間になっていたのか。今日は不思議と集中できた。
     カナトは相変わらず私にふわふわ憑いているが、その姿は誰にも見えないようで、皆一様にいつもと変わらない。
     城の中を物珍しげにキョロキョロして、浮けるのをいいことに、高所の装飾などを興味深げに見ていた。
     窘めたところでどうせ死人なので、何もできはしないだろう。声も私以外には聞こえていないようだし、誰かになにか告げることはできない。
     晩餐の席でカナトは興味深げに料理を眺め、材料や調理方法を知りたがっていた。自分が食べたいわけではないのが不思議だ。
     さすがに彼女に返事をするわけにもいかず、後で料理人に聞くことを小声で約束してそこから無視した。
     いつもと変わらない、少し嫌なことがあっただけの日は、あっという間におかしな日に変貌して、気がつけばもう就寝する時間だ。
     目が覚めるとカナトはいなくなっているのだろうか。それは少し寂しいと思いながら、重い瞼をゆっくりと閉じた。

     翌朝、目が覚めると少女の寝顔が近くにあった。
     何が起こっているのか記憶を掘り起こし、カナトという少女にいきなり憑かれたことを思い出した。
     カナトは私を抱きしめて、幸せそうな顔をして眠っている。霊って眠るのか、なんてツッコミを入れてもいいのだろうか。
     起こすのも忍びないほど、カナトは気持ちよさそうな顔をしていて、まるで妹が出来たようにも思えた。
     結果として、私はそのまま珍しく寝坊することになったのだ。

     それから、私の日々は単調なものから、不思議な色彩を放つものになっていった。
     それもこれも、カナトのせいである。
     カナトは妙に知識に疎くて、その割には変なところに詳しかった。
     訓練で私が魔物たちを相手取っても平然としており、それどころか補助してくれる始末だ。
     ふよふよと時々私から離れては、十メートル程でびたんと引っ張られる様も面白かった。
     カナトは、色んなことをよく知りたがった。
     ネクロデアの人々の暮らしだとか、暗鉄神ネクロジームを祀った仮面のことだとか、自生する植物のことだとか。
     カナトが知りたがらなければ、私は自分から知ろうとしなかったことだろう。
     けれど、知れば知るほど、私はこの国が好きになっていくのを感じた。私の国について、私は教えられることだけを知るのではなく、それ以外のことも知ろうとしなければいけなかったのだ。
     カナトは私の狭い世界を広くしてくれた。
     小さな嫌なことだって、カナトが怒ってくれたらどうでも良くなったし、カナトが笑っていると私も嬉しくなった。
     それは、言うなれば淡い初恋だったのだろう。
     そんな日々が数十年続いた頃、行儀見習いでユシュカという同年代の宝石商のせがれがやってきた。
     燃えるような赤毛の少年、ユシュカは初対面で私に暴言を吐いて逃げ出した。
     私は闘志をメラメラと燃やし、母上に必ずとっ捕まえて礼節とは何かを教えると意気込んだ。
     逃げ回るユシュカとそれを追う私といった構図は、それからよく見られるようになった。
     カナトは笑いながら居場所を教えてくれたりくれなかったり、私たちの様子を見て楽しんでいた。少し恨めしいと思ったのは秘密だ。
     ユシュカの行動はどんどん過激になっていき、私は普段登らない木に登ったり、飛び越えない川を飛び越えたりしなければいけなかった。
    『ナジーンさん、ユシュカはね、高いところが好きだよ。尖塔に登ってみて』
     ユシュカを完全に見失った私に、カナトは城の近くにある尖塔の上を指さした。
    『ユシュカもナジーンさんもちゃんと話し合うべきだよ。ナジーンさんはユシュカをしもべになんてしようと思ってないって伝えなきゃ。それでね、友達になったらいいと思うんだ』
    「ともだち」
     私は立場上友達と呼べる人はいなかった。歳を取らない存在不明の霊がひとり憑いているだけ。
     私は意を決して尖塔に登って、ユシュカと話をした。
     ユシュカも私も不器用で、反発して逃げ出したユシュカを相手取るには少々骨を折った。
     けれど、その度にカナトが冷静さを取り戻させてくれて、話をするヒントをくれた。
     結果、私とユシュカは友達になった。
     それから私はユシュカに巻き込まれて、たくさんヤンチャの被害にあった。何故か私も一緒になって叱られることもしばしばあり、不貞腐れた日にはカナトがベッドで寝物語を語ってくれた。
     カナトが語るのは、アストルティアのことが多く、まるでそれはおとぎ話ようにも聞こえた。
     特に気になったのが、海が青くて交易船が行き交っているという話で、いつか見てみたいと思った。
     その時にもきっと、そばにカナトが憑いているのだろう。それが当たり前だと思っていた。
    『約束しましょう。いつか、一緒にアストルティアを見て回るんです』
     一面の星空を映した鏡面湖、とてつもない巨木だという世界樹、触ると冷たくて水になってしまうのだという雪。
     カナトが差し出した小指に、自分の小指を絡ませて、指切りという約束をした。
     その時の私は、これから起こる悲劇を何も知らなかったのだ。

     *

    「まだ目を覚まさないのか」
    「ええ、もう一ヶ月になりますか」
     玉座の間で、ユシュカは非常に憔悴していた。
     その隣で資料をめくるユシュカの副官、ナジーンもまた、目の下に立派なクマを作っている。
     その原因は、一ヶ月前に起こったとある事故から始まった。
     いつもの如くナジーンに叱られたユシュカは、お決まりの玉座の間から飛び降りるという暴挙をやらかしていた。
     広場の兵士、シャカルたちには見慣れた光景で、国民たちも見慣れた光景だった。
    「うわわわ!?」
    「え?」
     が、その時運悪くユシュカの落下地点に、カナトが転移してきたのだ。
     アビスジュエルを使える人物は限られていて、アビスゲートの登録もほとんどされていない。
     その数少ない人物がやってくる可能性は、限りなく低かったがゼロではなかった。
     結果、運悪くカナトは落下してきたユシュカの下敷きとなったのだ。
     更に打ちどころが悪かったのか、そのままようとして目覚めない。それが一ヶ月前の話だ。
     最初はすぐに目覚めるだろうとのことで、倒れたカナトをカナトの部屋になっている客室に運び入れたのだが、数時間たっても彼女が目を覚ますことはなかった。
     そこから様子がおかしいと、ナジーンとユシュカはドクター・ムーを呼び寄せた。
    「……大魔王の魂が、ここにない」
     ドクター・ムーが告げた言葉に全員が震撼した。
    「肉体はまだ生きておる。だが、ここに魂がない。このまま離れていれば、肉体も機能を停止してしまうじゃろう」
     そこからカナトの魂を大捜索するという事案に発展した。
     もちろんこれはファラザードだけの問題にとどまらず、魔界各国はもちろん、アストルティアのアンルシアたちにも助力を求めている。
     アンルシアは烈火の如く怒り、ユシュカに雷撃を纏った拳をお見舞したが、ヴァレリアやアスバルもまたユシュカを氷漬けや魔法の的などにしたい気持ちがあったので何も言わなかった。
     カナトの魂が行きそうなところを皆で手分けして探したが、その魂の痕跡は欠片も見つかっていない。
     彼女の産まれた家。幼少期を過した村。魂を閉じ込めていたという、冥王の心臓。ブレイブストーンを使って、大魔王マデサゴーラが創り出した偽のレンダーシアや、長い贖罪の歴史に終止符を打ったナドラガンドも探したが、そのどこにもカナトはいなかった。
     未だに捜索は継続しているが、行動範囲が広く、手がかりは無いに等しい状態で、正直言って見つかる気がしない。
    「一体どこにいるんだ、アイツは……」
    「これに懲りたらもう城から飛び降りたりしないでくださいよ」
     チクリと小言を言えば、ユシュカは素直に押し黙った。さすがに今回ばかりは酷く責任を感じているらしい。
     ナジーンはため息をついて、書類に目を通す。
     出来うる限り、文献などを取り寄せて目を通しているが、未だめぼしい記述は見つかっていない。
     こういうことが専門のネシャロットも、早々にお手上げ状態らしく、手の打ちようがないとはこのことだった。
     ナジーンはもうひとつだけため息をついて、通常業務へと切り替える。
     カナトのことは優先事項のひとつだが、通常業務を滞らせる訳にはいかないので、ここ一ヶ月ろくに休めていなかった。
     執政官たちと話をし、新たな政策の原案を作り、裏通りの者たちとの折り合いをつける。
    「ナジーン殿、少し仮眠をとってはいかがですか?」
    「あなたが倒れられては立ち行きません」
     元々が多忙なのだ、そこに更に仕事が加算されて周りはナジーンに心配の声を上げている。
    「あぁ、これが終わったら少し休む」
     ナジーンもその声に応えはするのだが、なかなか休んでいる姿を見ているものは少ない。
     ナジーンは暇を見つけてはカナトが眠る客室へと足を運んでいた。
     それを知っているのは、カナトの身の回りの世話を任されている侍女のウテンだけである。
    「ナジーンさま……」
    「不安なんだ。自室では眠れない」
     いつ息を引き取ってもおかしくない状況なのだ。むしろ一ヶ月ももったことの方が驚きだろう。
     ナジーンは休む時、カナトの部屋の長椅子を使っていた。ただでさえ大きなからだをしているのに、長椅子に収まりきらない分だけ疲れは取れないだろう。
     かと言って起きないとはいえ女性と添い寝させるのも宜しくはない。
     ナジーンはふらふらとした足取りで眠るカナトのそばに行って、その手を握った。
     動かしてやらないと筋肉はすぐに動かなくなる。ウテンたちが定期的に解していているがそれでも限度がある。
     カナトの手は硬くなっているものの、まだ熱を持っていた。
     まるで仮死状態だとナジーンは思う。そういえば、昔なにかそんな話を聞いたような気がするが、ぼんやりと朧気で思い出すことは出来なかった。
     手を握って眠るカナトを見ていると、急激に眠気が襲ってきてナジーンはそのまま力尽きた。

     *

    (ここは……)
     その場所は懐かしい場所だった。
     悲憤の灰こそやんだものの、未だに死霊が溢れる場所となってしまった、ナジーンの故郷ネクロデア。
     そのネクロデアが、在りし日の姿で目の前に広がっている。
     場所はナジーンの母である王妃、ルーテアの所有する湖畔の別荘のようで、湖のそばで子供の頃のナジーンとユシュカが遊んでいる。
    「この花がアノリス、これがマカリ草です。生薬として胃薬になるんですよ」
    「へぇ、詳しいんだな」
     湖畔に咲いた花を見つけて、まだ両眼のあるナジーンがユシュカに草花の解説をしていた。
     そういえば昔何故かやたら草花に詳しくなって、そのおかげでネクロデアが滅びた後も薬の知識に助けられた記憶がある。
    (だが、何故私は草花に詳しくなったんだ……?)
     ユシュカが草花に興味を持つとは思えない。ナジーンも将来国を継ぐものとして政治や鉱物資源などの勉強は積極的にしたが、草花の知識を得ようと思う理由が分からなかった。
     ナジーンは自らの行動に小首を傾げ、その後もあれやこれやと豆知識を披露する自分を見つめる。
     果てはユシュカに食あたりになったらこの草を探して飲むといいなどと、謎の知識を授けているのだから不思議なものだ。
     ナジーンはその後も自分たちの幼少期を見るという奇妙な体験をした。
     そして、どうも幼少期の記憶が所々抜け落ちているのだということを実感した。
     三百四十年生きていれば抜け落ちているところは多いだろうが、それにしてもごっそり抜けていた記憶を見ている気がするのだ。まるで、何かを忘れているような。
     そこまで思った時、幼少期のナジーンが宙に向かって何かを話し、楽しげに笑った。
     自分の幸せそうな笑顔を見て、ナジーンは衝撃を受ける。あの頃のナジーンは、とても幸せだった。大事ななにかがいた、気がする。
    (うっ……!)
     そこまで思って、突然の頭痛が訪れ、ナジーンは頭を抱えた。
    (待て、そこに……ナニ、ガ……ィ……)
     問は言葉にはならず、ナジーンの意識は強制的に引き上げられる。
     パチリと左眼を開ければ、微かに胸を上下させているカナトがいた。彼女はまだ、生きている。
     ナジーンはよろりとよろめきながら立ち上がり、握り締めていた手を放して布団の中へと戻した。
     何かを、ナジーンは忘れている。とても大事な何かを。
     しかし手がかりを掴むことが出来ず、ナジーンはまた数日を悶々として過ごした。
     あれ以来過去の夢を見ることはなく、真実には近寄れず、カナトの状態も常にギリギリだ。
    (あの時、カナト殿の手を握って眠ってしまった。同じことをすれば、また夢が見られるかもしれない)
     ふとそう思い立ったナジーンは、また同じようにカナトの手を握って寝てみることにした。
     結果としてそれは正解だったようで、今度はあの地獄のような絶望の日が映し出されている。
     目を抉られて絶叫する自分は、酷く惨めだ。
     周りに倒れている、血だらけの両親に、息絶えたネクロデアの民たち。
     楽しげに笑うゾブリス将軍の、耳障りな声が脳内にわんわんと響いて、あの頃から立ち直ったはずのナジーンもその場で膝をついた。
    『……ん……! ナジ……ん! ナジーンさん! しっかりして!』
     そんなナジーンの脳内に、懐かしくて愛おしい声が響く。
     右眼をおさえて呻くナジーンのそばに、半透明のカナトがいた。
     今にも泣きそうな顔をして、ナジーンよりも痛そうな顔をして、カナトが必死にナジーンに声をかけてその身を抱き締めている。
    (そうだ、私には昔……)
     膝をついていたナジーンがはっとして顔を上げた。
     ナジーンには昔、謎の霊が憑いていた。
     破天荒でなんにでも興味を持って、あれやこれやとナジーンを引っ張り回して、ユシュカよりも一緒に遊んでいた、大好きな霊が。
    『どうしてとめられないの。どうして……私は知っていたのに……』
     苦しげに呻いて、カナトはナジーンを抱き締めてその背を撫ぜる。紅い瞳からはとめどなく涙が溢れて、救えぬ苦しみに喘いでいた。
     痛みに耐えるナジーンに、ゾブリス将軍がトドメを刺そうと魔眼を煌めかせる。
     カナトはそれに立ちはだかるように腕を広げ、ゾブリス将軍を睨めつけていた。
     霊が庇ったところで、攻撃は通り抜けて終わりだ。それでも、庇わずにはいられなかったのだろう。その心意気だけでも、十分に嬉しかったが当時の自分には余裕がない。
    『ナジーンさん、しっかりして! 生きて!』
     カナトがナジーンを叱咤して叫ぶが、ナジーンにはもう生きる意味など何もなかった。
     国も両親も失い、何もかもをなくしたナジーン。むしろもういっそこのまま死んでしまえば、カナトとずっと一緒にいられるのではないかとすら思える。
    『ナジーンさん……! 私は……!』
     魔眼が輝き、このまま終わりなのだと思った時、ゾブリス将軍の左手が切り落とされた。
     次の瞬間には、ユシュカが大きく魔剣アストロンを振りかぶって、ゾブリス将軍の胸を貫いていた。
     魔剣アストロンは貫いたものを硬質化させる性質を持つ。ゾブリス将軍も例外ではなく、その身は鉄塊になった。
     残ったのは魔剣アストロンを失ったユシュカと、右眼と祖国と家族を失ったナジーン。
    「ナジーン、良かった無事で……」
     肩で息をしたユシュカが、急いで右眼の手当をしてくれる。
     抉り取られた眼は、戻したところで視神経が繋がることは無いだろう。永遠に空洞のままだ。
    「どうして、助けたんですか……」
    「おまえ、何言って……」
    「私は国も何もかもを失った。生きている意味なんてない……!」
     心配してくれるユシュカの手を振り払う愚かな昔のナジーン。だが、ヤケになっていても仕方の無い状況と言えた。
    「……だったら、オレの為に生きろ。おまえの力が必要だ、ナジーン」
     振り払われた手を、ユシュカは躊躇わず再びナジーンに差し出した。きっと、何度振り払ってもユシュカは手を差し伸べ続けただろう。
    「オレは魔剣を失った。おまえが魔剣の代わりになってオレの力になれ。自分の為に生きなくていい。オレの為に生きろ」
     まだ誰かに必要とされている。まだ、ナジーンに価値がある。
     そう言われて、ナジーンは目の痛みも忘れてユシュカを見上げる。
     ユシュカの後ろでカナトも柔らかく微笑みながら、こくりと頷いた。
    『生きて、ナジーンさん。私は未来であなたを待っていますから』
    「どういう……」
     カナトの指先が白い光になって消えていく。まるで、ここで時間切れだと言っているようだった。
    「待て、きみも私をおいていくのか」
    「ナジーン、何を言っているんだ」
     ナジーンの言葉にユシュカは小首を傾げていた。それはそうだろう、ユシュカにカナトは見えていない。
    『約束』
     カナトが小指を立てて笑う。そうだ、ナジーンは約束をした。
     一緒にアストルティアの景色を見ようと。
     そして、その時がきたら、彼女に想いを告げようと。
     そこまで思い出して、ナジーンは急いで自分を起こしにかかった。どちらにせよカナトを早く起こさないと時は一刻を争うのだ。
     なんとか目を覚ましたナジーンは、辛うじて息をしているカナトに、泣きそうな笑みを浮かべた。
     ネクロデアからのゴタゴタや、ショックでナジーンは大切な記憶を封印した。思い出すと辛さが増したからだ。だから、カナトのことも忘れていた。
    「目を覚ましてくれ。でないと、きみとの約束を果たせない」
     小さな頭から手を滑らせ、随分と痩せてしまった頬に手を添えて、ナジーンは思い出す。
     昔々、ネクロデアで寝物語に彼女が語ってくれたハッピーエンドのおとぎ話。その、魔法の解き方。
     乾燥してひび割れた唇に、自分の唇をそっと重ねる。触れるだけの、柔らかなもの。
     祈るように顔を離しても、カナトの様子は変わらなかった。
    (……やはり、駄目なのか……?)
     諦めにも似た気持ちになっていると、瞼がぴくぴくと動き、黒い睫毛がゆっくりと持ち上がった。
     懐かしい紅い瞳がぼんやりとナジーンを映して、柔らかな弧を描く。
     長い間使っていなかった喉では声を出すことが出来なかったらしく、その唇の動きを読んで、ナジーンは困ったように笑った。
    『生きてて、良かった』
     それは、自分にではなく、ナジーンに向けられた言葉だろう。
     あの日、あの時、ナジーンの生を望んでいたのはユシュカだけではなかった。
     ネクロデアの民皆がナジーンの生を喜んでくれたのを知っている。ナジーンだけでも生き残ってくれて良かったと。
     そして、カナトもナジーンが生きていて良かったと。
    「ああ、ああ、きみが、待っていると言った」
     真実、カナトは未来でナジーンの前に現れた。そして、大魔王となり魔界を平和にしてしまった。
     とんでもないことをやらかす、偉大な人物。ナジーンの初恋の人。
    「ナジーンさま、お目覚めに……カナトさま!」
     そこにノックと共にウテンが入ってきて、異変に気付き一目散にファラザード城を駆け巡った。
     眠り姫が目覚めたのだと。

     その後、カナトの目覚めは即座に皆に伝わり、アンルシアには抱き着かれて泣かれた。ゴリラなのだから力加減をしてもらわないと、今のカナトは色々衰えているので簡単にバキッといってしまう。さすがにそれを察したシンイがやんわりと止めに入ってくれたが。
     イルーシャもエステラも泣いていた。ヴァレリアも隠していたが目元が赤くなっていた。
     色んな人に心配をかけて、カナトは少し申し訳なく思ったが、そもそもユシュカが飛び降りてこなければこんなことにならなかったので、ユシュカが悪い。
     最終的に騒がしい面々をドクター・ムーがキレて追い出し、カナトはその後筋力を取り戻すリハビリをしながらファラザードで過ごした。
     カナトがリハビリをしている間、ナジーンは会いに来なかった。ユシュカがたまに様子を見に来るだけで、カナトは不安に思う。
     そっと自分の唇に指を添えて、カナトはあの時の感覚を思い出していた。あれは、もしかしたら夢だったのだろうか。
    (ナジーンさんが……きす……)
     初めて会った時から好きだった。特に声が好きで、そこから知れば知るほどカナトはナジーンを好きになった。
     けれど、この想いを告げることはないのだと思っていた。カナトは良くも悪くも特異だ。あと何年生きられるのかも分からない。
     それでも、ナジーンの夢を叶えたくて、ナジーンがこれからも暮らす魔界を平和にしたくて、カナトは必死に頑張って絶対滅神ジャゴヌバを討伐した。恋のパワーは無敵である。
     そんなカナトがファラザードの城前に転移したところで、急に意識が途切れて気がつけば子供のナジーンが目の前にいたのだ。
     想いを拗らせて、どうやら魂だけ時渡りしたのだと気付いたのは、幼少期のナジーンを知って余計に辛くなってからで。
     だから未来の約束をした。せめて一緒に思い出を作りたいと。

     *

    「ここがきみが幼少期を過ごした村か」
    「は、はい。村長をしてます。全然名ばかりですが……」
     カナトがリハビリを終え、ようやく旅立てるとなった時、ずっと来なかったナジーンが部屋に訪れ、カナトは気が付けばナジーンとアストルティアを旅行することになっていた。
     そうしてやって来たのがカナトの第二の故郷エテーネの村である。
     何が起こっているのか、未だに理解できていないが、ナジーンが「約束を果たそう」と告げてくれたのは覚えている。
     どうやら会いに来なかったのは、まとめて休暇を取るために仕事をしていたかららしい。
    「でも、もう海で遊んだり、アストルティアを見たじゃないですか」
    「きみとふたりで周りたかったんだ。そういう約束だろう? 違うのか?」
    「ち、違わないですけど……」
     ボソボソと言葉を濁すカナトに、ナジーンは素知らぬ振りをする。
    「私はこれからもずっと、きみと同じ景色を見たい。きみの隣で」
     柔らかく眇められた左眼が、きょとりと驚いているカナトを更に赤く染めて、その反応を楽しんでいる。
    「それって、まるで……」
     プロポーズのようだという言葉を飲み込めば、ナジーンは素知らぬ顔で爆弾を落とす。
    「その通りだが?」
    「えっ?」
    「私と結婚して欲しい」
    「えっ……?」
    「返事ははいだけだ」
    「……えっ」
     思考が停止したカナトに、ナジーンは優しく微笑んで、唇が触れるスレスレまで顔を近付ける。
    「返事は?」
    「……は、い」
    「死がふたりを分かつとも、私はきみを離さないと誓おう」
     ナジーンは満足気な笑みを唇に刻み、そのままカナトの唇にキスをした。
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