『群青に燃ゆ』 夜が明け始めていた。濃く深い藍に染められた空の高い位置に浮かぶは月。その月を追うように底から迫る橙の輝きをうすぼんやりとした意識のなかで木々の間から竹谷八左ヱ門は眺めていた。身体は燃えるように熱いのに、吐く息は薄く白く靄がかかっている。
焦げ茶の髪は土に紛れ、青の忍装束は赤色に濡れていた。
--俺は、もうすぐここで死ぬ。
八左ヱ門はこれから訪れる運命を受け入れていた。
どうにか足掻こうにも身体が先ほどから泥を蹴り上げたような感覚ばかり。鼓膜の裏では動悸がひどく煩いというのに、血液は全身へ巡ることがない。酷い寒さが身体を蝕んでいる。
恐らく先ほど背中から切られた箇所から血が溢れているのだろう。だが、しかし、それを確かめる術すら八左ヱ門には残されていなかった。
嗅覚が鈍くなった鼻で空気を吸い込むと思わず激しく咳き込んでしまう。そうすれば余計に全身を鈍痛が蝕み、無意識に力なく口元で笑みを象った。
八左ヱ門が倒れ伏す森の中からは足音は一つもない。
それもそうだ、命の灯を消しかけた忍に情けをかけるものなどいない。普段は耳をすませば聞こえる虫の羽音すらしないのは、やはり今わの際だからだろうか。
枯葉が八左ヱ門の肌を撫で、飛んでゆく。春や夏であれば鬱蒼と木々が茂るのに対して、木々は黒々しく枝を伸ばすばかりで、どうにも寂し気だ。一方で葉が茂っていないからこそ、ここが森だとしても空がよく見えることだけは唯一の幸いだろうか。斬られて転んだ際に仰向けに倒れられたことも幸運だ。
空は夜から覚めた濃い青色に染められて、それを追うように地平線の彼方では橙色が存在を放っている。
この一生を誰がみていなくとも、お天道様だけは看取ってくれるらしい。そう考えれば幾許かは気持ちが楽になったような気がする。腕が動くのならば、太陽に手をばしていたのだろうに、それができないことが残念だ。
陽の光が視界の端を侵食する間、頭の中で今回の忍務をなぞる。
八左ヱ門が敵襲を受けたのは敵城の密書を奪うという久々知兵助と鉢屋三郎と共に任された忍務の帰り道であった。密書を奪うところまでは順調であったはずなのだが、敵もまた忍を雇っていたらしく油断をしていた。捜索をされている事に気が付き、同学年の兵助と三郎を逃がすため囮を買って出たのが己であった。
二人を逃がす為にあえて敵の前に姿を現す。即席の策であったため敵の実力を測る余裕などない。死に物狂いの鬼ごっこの開幕だ。囮であることを悟られないように走り、可能であれば逃げ切るという高難易度の。兵助は優秀な忍たまであるし、三郎も変装の天才と呼ばれる男だ。多少の足止めで充分なことは分かっていた。それでも、敵も子供を相手に容赦をすることはない。特に自分たちは忍者を目指すための学園に通っている子供たちなのだから。いずれ敵になるかもしれない厄介な存在は早いうちに潰しておきたいという考えもあるのだろう。だから、得意武器である微塵を握ると敵の足元に投げつけ、相手がそれに足を取られているうちに全速力で駆け出した。
これが六年生であれば、あと一年多く実践を積んでいたのであれば上手くいったのだろうか。それとも、実力は既にあれども運がなかっただけなのだろうか。結構な距離を取ったはずなのに。考えていても仕方がないが、見事に追い付かれてしまった時には既に死を覚悟をしていた。
ああ、次は己の番だ。先輩や同級、後輩が死ぬ場を目撃したこともあったし、忍務において絶対に問題ないという慢心をしたこともなかった。
手裏剣を打たれバランス崩され忍刀で後ろから切りつけられれば、未成熟な軽い体は縺れるようにして転がった。何が起こったのかその時は分からなかった。背中に硬い何かが当たりなぎ倒されたのだと思っていた。だが、じわじわと染み込むような痛みに斬られたのだと自覚をするのは割とすぐのことだったと思う。
運良かったのは転がった先が坂となっており大量の枯葉は八左ヱ門の血痕を隠したことであった。追っ手は忍者の卵を散策したが、自分が囮の役であると察したらしい。数分もすれば八左ヱ門に執着することなく通り過ぎていく。一体何を根拠に。そんな疑問が浮かんだが、それ以上にすぐに囮だと暴かれたのだと舌を打たざるを得なかった。
だが、充分に時間は稼げたと思う。
兵助と三郎であれば、これだけの時間があればきっと大丈夫だろう。そう思えば自然と心は穏やかになり、八左ヱ門の身体は弛緩した。
冬の朝は寒い。しかし、そのうち太陽が登ってくれば、陽気に当てられて幾分かましになるだろう。そう願っているのにも関わらず、時間が経てば経つほどに寒気は増していく。手足が凍り付いてしまったように感覚がない。時間が遡ってしまったかのように視界まで暗くなっていくといよいよ己の状況に恐怖心が芽生え始めてきた。死が目前に迫っているのだ。命が潰えてしまう。
どれだけ時間が経ったのであろうか。ひらり、と視界の端でなにかが舞った。小さくあまりにも儚い存在は春に咲く花びらのように、静かに音もなく、粉のように乾いた煌めきがひとつ、またひとつと降ってくる。どうやら、雪が降り始めたようだ。
春を思い出す。澄んだ青空と新緑にはらはらと舞い落ちる桜の花びら。あたたかく、喜びに満ちたあの景色が遠く、雪の先にみえてくる。その景色を追っていると四肢の先がじんわりと温かくなっていくような気がした。
それが気のせいであることを八左ヱ門は信じていなかった。
その時であった。
「八左ヱ門ッ!」
切羽詰まった声が耳鳴りを切り裂く。聞き慣れたその声色が誰であるかを特定するのに時間はかからなかった。
「へ、………い、すけ……」
男の名を呼ぼうにも喉が焼かれたように熱くてまともな声がでてくることはない。何故この男がここにいるのだろうか。忍務はどうしたのか。何故戻って来てしまったのであろうか、朦朧とした意識の中で疑問が八左ヱ門の思考を支配した。
太い眉が八の字に垂れ下がり、瞳溜めた涙をみると八左ヱ門は口元を緩める。この男の泣き顔など何年ぶりだろ う。彼とは同じ組では無いから滅多に見れるものでは無かったし、記憶を遡ったとしても低学年の頃のはずだ。
空が視界から消え、兵助の顔が眼前に広がれば、八左ヱ門もまた自然と目尻に涙を浮かべた。
「八左ヱ門、無理に声を出すな」
「なん、……もどってきたんだ。にんむ、は……」
兵助は八左ヱ門の問いに答えない。おい、と八左ヱ門は声をかけたつもりであるがもしかしたら掠れて聞こえなかったのだろうか。
黙々と兵助は八左ヱ門の力の抜け切った腕を掴むと背負い込む。八左ヱ門の背に肉が裂けるような激痛が疾走った。
実際に傷は少しだけ広がったのだろうがそれでも痛い。既に鮮血が染みた群青色の忍び装束が一層黒く滲んだ。兵助は自身の頭巾を取ると自身と八左ヱ門の体を強く結びつける。強く、固く、絶対にこぼさぬように。
それからの出来事を八左ヱ門は覚えていない。次第に瞼が重くなり、耳鳴りがこだまする。しかし、氷のように冷えていた身体も、兵助と触れたところだけはとてつもなく熱かった。
八左ヱ門を背負った兵助は冬の森を走り抜けていく。先ほど三郎と逃げていた時はまだ月夜だけがこの獣道を照らしていたがいまではずいぶんと明るくなっていた。朝靄が茫々とかかる枯葉の路を前へ、前へ。駆けていく。
幸いなことに八左ヱ門が転がり落ちたところは忍術学園への道に近しいところであり、すぐに彼を見つけることができたのは幸運だったことであろう。
背負う前はいくらか抵抗を見せていた八左ヱ門も、兵助が担ぎ始めれば随分と大人しくなった。いざという時に兵助がかなり強情であることを八左ヱ門は心得ていたからなのか、それとも抵抗する体力すら残っていないのか。今では兵助に完全に身体を預けながらおぶられている。
草むらを掻き分け、木の根を飛び越え、なるたけ身体を揺らさぬように走っていれば、真冬だと言うのにも関わらず全身から汗が滲みだしていた。
脱力して、縋る力のない八左ヱ門は、時折背中から滑り落ちそうになる。その度に力を篭めた手は震えてしまう。しかし、絶対に落としてなるものかという意志が兵助の身体を支えていた。
「はちっ、あと、少しだ、間に合うから! 頼むから、死んでくれるなッ!」
上擦った悲痛な叫び声を兵助は上げる。涙で視界がゆがもうとも背負った命を手放すわけには行かない。
冬にも耐えきることのできる葉の茂る森を、道無き道を走り抜ければ白と黒のなまこ壁が姿を現した。我らが学び舎。忍者の卵を育成する学校は大きな塀に囲まれた広大な敷地に幾つもの棟が密集しており、現代で言うならば学園都市とでも呼べるであろう姿かたちをしていた。正門の太い二本の柱に支えられた片方には『忍術学園』と書かれた看板がひとつ立てかけられている。
入口にて入門票への記入を待っていた事務員の小松田さんへも「あとで書きますから!」と叫べばすんなりと通してくれる。恐らくこれからのことを見越して三郎が話を通してくれたのだろう。
ようやく兵助が忍術学園の門をくぐり抜けた時、月は遠くの存在になっていた。
「新野先生ッ!」
「おわあぁっ」
障子を震わせるほどの大声に、棚から何かが落ちる音。蹴破るように医務室へ入り込んだ兵助の目に写ったのは包帯を頭に被った善法寺伊作の姿であった。明け方であるにもかかわらずいつも通りの緑の忍装束に身を包んでいる所からこの時間の当番であったのだろう。見たところ伊作以外の姿はなく、新野先生は不在らしい。
「善法寺先輩!」
「いてて……、ごめん、鉢屋から話は聞いているよ」
体を起こそうとした伊作はすぐに兵助がおぶる八左ヱ門も姿を捉えたのか、「こちらに」と招く。
「一見したところ大きな傷は背中です。出血量がひどくて……、それ以外は僕には分からず」
「うん、脱がすの手伝ってくれるかい?」「わかりました」
傷が開かぬよう帯を外し、上着を剥いでいく。
八左ヱ門は瞼を閉じて体に力は入っていないが、浅い呼吸を繰り返してくれることが兵助にとって何よりも救いであった。気絶をしているのだろう。死んでいないだけまだ希望が持てる。
再び溢れ出そうになる涙をぐっとこらえながら兵助は伊作の指示に従う。手元に募る青の布地は水分を貯めこみ重たかった。布を握る手は力が篭り、どうしようもないほどに震えてしまう。
「新野先生が間もなく来られる。縫合の準備をするから久々知は廊下で控えていなさい」
「はい」
医療の専門知識のない兵助ができることは限られている。大人しく兵助は医務室を一度後すれば、すぐに廊下をかけてくる新野先生とすれ違うも言葉少なく、彼は障子を閉めた。普段は温厚な顔をした校医がみせる気難しい表情に兵助は不安を積もらせていた。
最悪の結末が何度も脳裏に宿り、その度に兵助は首を振った。もっとうまく事が運んでいれば。もっと早く駆けつけられれば。八左ヱ門の代わりに自分が囮役を引き受けていれば……。後悔ばかりが脳内を駆け回り、心臓が握り潰されそうな圧迫感を覚える。黒い長髪が乱れていくがそれを気に留める余裕はない。
頼むから間に合っていてくれ。廊下に蹲るようにして祈ることしか兵助にはできなかった。
「中に入っていいよ、久々知」
その声にのっそりと頭を持ち上げる。兵助に再び声がかかったのは半刻以上が経ってからであった。
冬の空気に陽光の温もりが混ざり始めていたものの吐く息は未だ白い。心臓が喉から這い出てしまいそうだ。伊作の声は良くも悪くも平坦で、結果を悟ることもできず、胃の痛みがもう一段階重くなる。
医務室に入るや否や術後片付けをする新野先生と対照的に八左ヱ門の枕元に座る伊作に対して、面するように久々知は正座をした。顔はどうしてもこわばってしまう。俯きいたままの伊作をみつめ、彼の言葉を待つ。静寂が科白と共に断ち切られる。
「……どうしても出血量は気になるかな。後ろから遣られているから今後細菌が怖いけれども、それもしっかり処置すれば酷い化膿は防げる。……ただ熱発だけは免れないと思う。ここは八左ヱ門を信じるしかない。それから、毒を盛られているわけではなさそう。傷も内蔵までは届いていない。つまり、運がよかった。間に合ったよ、久々知」
「よかったですね」
「はぁっ――……」
伊作と新野の科白に全身から力が抜け落ちた。へなへなと力なく肩を落とせば、伊作は包帯を巻く手を止めることなく続ける。
「でもしばらくは絶対安静かな、君もね」
「いえ、僕は大丈夫です!」
伊作は兵助の言葉に首を横に振った。
「これは保健委員からの命令だ」伊作の目が兵助を見つめる。
普段の柔和な顔からは想像できないほどに真剣な眼差しは、有無を言わせない圧力を帯びていた。そこには絶対的な六年生という重みも孕んでおり、兵助は畏怖の念を抱く。そうして、次の瞬間には思わず頷いていた。
大人しく従う兵助に伊作は満足気な様子で視線を八左ヱ門へ戻す。
その様子を兵助はただじっと眺めていた。
「今回の件、木下先生から大目玉を喰らうと思う。分かるだろう?」
忍者とは時に非情な心も重要だ。何よりも優先すべきは忍務を遂行することであり、その際に犠牲がでてしまうこともやむを得ないのだ。兵助も忍術学園で五年間を過ごし、それなりの別れを経験していた。
今回も本来であれば、忍務を達成できたのだから敵地に戻るという余計なリスクを背負う必要はなかった。八左ヱ門が生きている保証もなく、仮にそこで兵助も敵襲にあえばこちらの兵力が落ちる。捕らわれてしまえば忍術学園を危険に晒す可能性もある。今回の行動は忍を目指すものであるのならばするべきものではなかったのであろう。
頭では理解しているつもりでも、八左ヱ門の命を見逃すことをどうしてもできなかった。
どろどろと濃い血液のように身体を巡る感情は、八左ヱ門の命を案ずる度に体の内側で叫び声をあげていたのだ。死んでほしくない。いやだ。八左ヱ門と離れ離れになることなど耐えられない。生きていて欲しい。助けなければ、と。
「はい、心得ています」
「……まあ、気持ちはわかるけども。先生方からも言っていただけるだろうし、僕からくどくど説教するつもりはない。君は聡いしね。だから、……竹谷も久々知も無事でよかった」
伊作は眉を下げ、穏やかな表情で微笑んだ。優しさが込めらた声色に兵助は目頭がぐっと熱くなるのを感じた。思わず姿勢を整え俯く。膝の上に置いた拳は泥だらけで血痕も乾いて付着している。汚れを落とさなくてはならないのに、今はどうにもできそうになかった。爪は手のひらに食い込んでいるが弛めることもできず、心の根から溢れそうになる感情を抑えつけるのに今は必死だった。
安堵と喜び。八左ヱ門が生きている、それが、今はなによりも嬉しかった。
「さてと、縫合して包帯も巻き終えたし、寝かすの手伝ってくれるかい?」
「は、はい!」
朝日が四人のいる医務室に差し込んでいる。
「僕と新野先生は一度席を外すけれど、一旦任せてもいいかな」
「あ、はい、! 本当に新野先生も、善法寺先輩もありがとうございました」
勢いよく顔を上げれば新野先生と伊作の柔らかな表情が向けられていた。兵助の様子を察して二人きりにさせてくれたのだろう。その優しさに再び目元に熱を帯びながら、兵助は頭を下げた。
「……はち」兵助の指先が乾燥した八左ヱ門の頬を撫でる。
そろそろ越冬隊の準備をしなくては、と笑っていた乱れた髪は枕の上に逃がされているが相変わらず絡まっている。犬の毛のような剛毛だけがいつもの八左ヱ門らしさを与えていた。とはいっても、しばらくは虫らとの生活も諦めてもらうことになるだろうが、今気にすることでもない。
日に当たる八左ヱ門の顔はすっかり青白い。普段の天真爛漫な姿からは想像もできない静けさに兵助はゾクリと身体を粟立たせた。
しかし、触れた肌は温かいことだけが救いであった。生きている。生き延びてくれた。本当に、よかった。
「っ、は――……」
そっと兵助は唇を添える。八左ヱ門の形を確かめるように。初めは一度だけだと決めていたのに。気が付けば何度も何度も上唇を舐め、下唇を噛む。八左ヱ門の唇はかさついていて、薄く、柔らかいものではない。
顔があつくて、先ほどよりも動悸が激しい。それでも始めてしまった行為を止めることができずに、ついには舌先を八左ヱ門のものに忍ばせる。その中はひどく熱かった。彼の吐いた息が舌先を溶かしていく。お返しにとばかりに息を返すと胸を小さく上下させているのが密着した肌でわかった。
腹の奥がぞくぞくとした感覚に苛まれ、溢れ出てきた唾液を注がぬようにすることで必死だった。
「おれは、おまえが好きなんだ」
「すまん」と、最後に保っていた理性の糸がぷつりと切れる。朝露に濡らされたように煌めく深い黒のまつ毛が震えた。小さな水音と布擦れ音だけが響きだす。
この景色をみているものは、誰もいない。
遠くで布地を絞る音がする。水が跳ねる音だ。
その音に重なるようにぱちん、と炭が弾ける音が聞こえると八左ヱ門の意識はぼんやりと浮上した。
体はまさに鉛の如し。重たい瞼を持ち上げたとしても視界は未だぼやけていているらしく、はっきりとしていない。そんななかでも飛び込んできた光に向かってたまらず呻き声を上げた。
次に瞼を開けた時には天井が見えた。それから壁や天井に染み付いた鼻を刺激する薬草の強い臭い。
(医務室……か? そうか)
炭を押し当てられたような背の痛みと動けないほどに固く巻かれた包帯によって、この身に何が起こったのか、その記憶の糸を辿ることは容易であった。
生き残ったのだ。生死を彷徨ったあの絶望的な状態から。自分は、兵助の手によって。意識を失うその瞬間、最後に覚えているのは逃がしたはずの男の声だった。
「起きたのか」
刹那、騒がしい足音がして八左ヱ門の意識は叩き起されることになる。
プロの忍となるために磨かれた身体はその物音に瞬時に反応をするために起き上がろうとする。しかし、先ほどから鈍く続く痛みがより一層強まると体は強張るだけで動くことを拒絶してしまう。全身から汗が噴き出した。
「へいッ――、」
「無理に動くな、傷が開く」顔を覗き込みながら兵助は八左ヱ門の額からおちた手ぬぐいを新しいものへ取り替えた。
甲斐甲斐しく看病をする兵助の髪結いは酷く乱れたままであった。装束だけは土などが付着していないことから簡単に着替えだけは済ませたのだろう。
太陽を背に浴びる兵助の影が部屋へと伸びる。
「……死んだかと」
体の緊張を解けば八左ヱ門を見下ろす兵助の眉が下がっていった。「すまん、置いていくことはできなかった」
「お前らしくない選択だな、……木下先生に怒られるぞ」
声を出すだけで背に痺れるような痛みが走る。熱でも出ているのだろうか。覚醒したはずの意識がぼんやりと霞んでいく。
「もう叱られたよ」「おい」
優等生であるお前が? と疑心と驚愕を混ぜ合わせたような顔を八左ヱ門は浮かべていた。一方の兵助は変わらない。冷静さを崩さない涼し気な顔は今の状況に不揃いで、ある種の違和感を八左ヱ門は覚える。
「八左ヱ門はしばらく医務室で絶対安静だって」
「兵助! ぐ、……やっぱりらしくない。冷静な、お前なら分かるだろ、あそこは助けるべきじゃなかった」
その違和感を腹に抱えておけるほど八左ヱ門は器用ではなかった。
たとえば自分が兵助の立場であったのならば、間違いなく兵助のことを助けてしまうかも……しれない。五年間切磋琢磨して共に忍を目指していた仲間を見過ごすことなどできない。
「俺はそんなに非道にみえるか?」
全てのものが凍てつきそうな声が落ちた。兵助の表情もまた感情を全て削ぎ落としたような様子で八左ヱ門は心の底がひやりとする。長い黒髪をまとめあげた男は普段から柔和な顔をしているだけで、整った顔立ちは無表情になると陶器のような冷たさがあるのであると感じさせた。背に陽を浴びて落とされた陰によって、その印象は一層強くなる。
すぐに、兵助を怒らせたのだと気がついた八左ヱ門は身を起こそうとする。「今のは俺が悪かった。そういうわけじゃなくて……、兵助?」
「そういう風に、言われるの、俺は苦手だ」
嫌いではなく、苦手という言葉を選ぶ所がこの男の優しさなのだ。彼は眉間を寄せながらたどたどしく言った。すぐに視線を落として兵助は続けた。
「だけど、ごめん」「え、いやいや兵助が謝ることはないって、今のは俺が悪いし、それに助けてくれたのにごめん」
「うん、それはそうなんだけど」
「え、――? ン」
まばたきをするくらい。それくらい一瞬だった。兵助が八左ヱ門の唇を奪うのは。
動きの鈍い八左ヱ門は身体を掛け布団越しに押し付けられると、引き攣るような痛みを背中に覚える。それから抵抗する余裕もなく熱が重なった。兵助のソレはひやりとしていて、二つの意味で驚いた。
兵助の黒髪が八左ヱ門の頬や首をくすぐった。その度に八左ヱ門は身を縮こませてピクリと跳ねる。ついには八左ヱ門を抑えつけていたはずの右手が耳介を撫でた。ぞわぞわっとした感覚が八左ヱ門の身体を疾走り、落ち着かない気持ちになっていく。
「ッ、は……、へ、す……」
「ンっ、っふ、はぁ……」
兵助の指先が顔を下っていく。掛け布団の上から身体の輪郭をなぞられる。その間も口吸いは続いていた。単純なものから複雑なものへとなっていくと八左ヱ門は訳が分からず抵抗をする方法をなくしてしまう。兵助もそれをわかっているのか無遠慮に唇を貪り、食み、もっと深いところを探ろうとする。
次に兵助の手が八左ヱ門のある一点に触れる。そこは男の弱点とも言えるところで、触れられれば流石の八左ヱ門も身を捩って抵抗を示した。はっと兵助が目を見開く。刹那、後ろへ飛び退けば唇を震わせた。先ほどまで八左ヱ門を塞いでいた熱いソレをいまでは別物のように感じてしまう。
「ごめ、ん、八左ヱ門、俺……」
「えっと……その」
「ごめん!」
兵助は医務室の襖を開けると即座に身を翻しては縁側に消えていく。木枯らしが吹いたかのように室内がぐんと冷えていく。
すぐに「久々知⁉ って、ぉうわッ‼」と伊作の驚嘆と身体をひっくり返らせたような物音が響いた。不運大魔王が実際につまずいて転んだのだろう。しかし、起き上がることも叶わない八左ヱ門はただ待つことしかできなかった。手を取ることも、追いかけることも八左ヱ門にはできなかった。
冷気が鼻の奥を突き刺した。乾いた空気は正しく冬の時節を表すものである。遠くの方から快活な話声が聞こえてきた。一年生たちが起きてきたのだろう。甲高い鳥の鳴き声も朝を賑やかす。カッカッと火打石のように啼くのはジョウビタキと呼ばれる冬の渡り鳥だ。
日常に帰ることができたはずなのに、兵助の常でない行動を忘れることができず、八左ヱ門は伊作が来るのをただ待っていた。
彼の熱を忘れることができずに。
最悪だ、最悪だ、最悪だ。唱えれば叶うまじないのように兵助は頭の中で何度も言葉を繰り返した。まじないと大きく違うのは、兵助が先ほどから唱えているのは願い事ではなく後悔という点だろう。時は戻せない、事実は覆すことができない。だのに、なぜあんなのことをやってしまったのだろうかと感情が自分を責め立てた。
朝の定食を受け取りながら食堂にて兵助はため息と共に席に着く。
「兵助おつかれ、ありがとうな」
「おはよー、八左ヱ門様子どう?」
「おはよう、大変だったみたいだな」
「三郎に勘右衛門、雷蔵おはよう。とりあえず……、目は覚めたよ」
先に朝食の席に付いていた鉢屋三郎、尾浜勘右衛門、不破雷蔵が兵助を迎える。話の口ぶりからして三郎が昨夜から今朝にかけての粗方を話したあとなのだろう。無論忍務であるため、詳細は伏せているだろうが。
「そうだ。学園長先生からの言伝だ。件の報告については本日の授業が終わってからで良いとのことだ。八左ヱ門は無理に来なくていいと。それもこちらで判断しろとのことだ」
「うん、分かった。伝えてくれてありがとう三郎」
兵助は話を聞き流しながら箸を手に取り食べ始める。朝食はあじ定食。干物のあじとしじみの吸い物にお新香。吸い物に口をつけてから兵助は再びため息をついた。
正直なところ先ほどの八左ヱ門の表情を忘れることができないし、とてもではないが味を楽しむことが出来ない。今の様子を食堂のおばちゃんに見られたら確実にどやされるためできる限り身を縮こませながら箸を動かす。
「そんなに八左ヱ門の体調良くないの?」残り少ない白米を惜しむように食べながら勘右衛門は問うた。
「そうじゃないんだけど……」
「どうしたんだ? 釈然としないな」
三郎は箸を止めて兵助をみた。
「いやあ……」
雷蔵もまた覗き込むように兵助をみる。「兵助?」
「あ、いや、絶対安静だそうだから良くはないか。毒とか内臓まで傷が行ったわけでもないみたい。でも、出血量はそれなりで縫合はしたとは言っていた。あと清潔を保てているならば化膿は防げると。まあ八左ヱ門のことだから少しよくなったら無理してでてきちゃいそうな気がするけどね」
「兵助」
視線が兵助の方に集まった。揃った三人の声は兵助に圧迫感を与える。朝の賑やかな食堂のはずなのに閉じ込められたかのようにこの場だけが静かだ。三人は懐疑よりもむしろ心配の色を顔色ににじませていて、罪悪感が募った。
みんなに心配される資格がないことを己は犯したのだ。
兵助は、魚の身を白米の上に乗せて食べた。やはり普段はおいしい一日の活力も今はただの生きるための養分にしか感じられない。
鎖が兵助の体に巻きついていた。幾重にもなって身体中を絞めあげてきて息苦しさを感じる。冷たくて重たいそれを軽くする術を兵助は持たず、罪悪感と後悔を拭うことができなかった。
「と……」
「と?」再び三人の声が重なった。
「豆腐、朝、食べたかったなーって……忍務の後だし」
兵助が力無く笑うと一同は呆れ返るように肩を下げた。三郎に至っては食事を終えて食器を整え始めてしまう。
「なんだ、いつもの兵助じゃないか」
「心配したのにさー」
「ごめんごめん」
兵助の豆腐語りが始まることを予期したのか三郎と雷蔵は席を立つ。「昼休みにみんなでお見舞いに……いやでも、無理をさせちゃうかな、いややっぱり心配だし」
「やつなら誰も来ないと暇だなんだとむしろこちらへ来てしまいそうだからな、行ってあげよう。ここで悩む必要はないだろ雷蔵」
「見舞いに粥でも作るかー」
雷蔵と三郎の提案に勘右衛門は賛同し、兵助もまた何も言わずに頷くだけに留める。
三人よりも遅く朝食を始めた兵助は勘右衛門を待たせてしまっていた。先に授業の準備してなよと伝えたのであるが、彼いわく「どうせ準備は終わらせているから待っている」とのことだ。
「お待たせ勘右衛門」
「ん」
二人は食器を片付ければ長屋の方へと向かった。
向かうあいだ、他の生徒にすれ違う度に挨拶をしていく。学園の塀の向こうでは七松小平太を筆頭とした体育委員らの声が聞こえる。朝の鍛錬をしているのだろう。
授業前の体操が始まるまでの間、良い子たちは各々の時間を過ごす。大急ぎで前日のうちに終わらなかった宿題の残りを埋めるものもいるだろう。無論、勘右衛門と兵助はそのような心配は当然ない。
五年生の長屋は六年と下級生の長屋を挟むような形で対局側の塀近くに建てられている。それぞれの棟は"い・ろ・は"で分けられてはいるが、行き来がしやすいように中庭を挟む形で建てられている。あと1年もすれば一棟にぐっと凝縮されるほどに生徒が減るだなんて五年の誰もが実感できないことであった。だが、今の六年生がたった六人であるのと同じように自分たちもこれから更に人数が減ってしまうのだろう。
「――それで。兵ちゃんは、はっちゃんと何があったんだい?」
戸に手を伸ばすはずの勘右衛門は持ち前のうどん髪飛ばれる特徴的な太い髪を揺らしながら振り返る。ニヤリと白い歯を見せつけるのは幼い頃から悪戯好きなきらいのある彼らしい。後輩からは爽やかと言われているらしいが同級としては彼のそんな一面を見たことはなかった。
「ええっどうして気がついて ――ってその呼び方やめてくれよ!」
兵助は動揺や狼狽の色を隠せず声を荒げた。勘右衛門は兵助の反応に顔色一つ変えず続ける。
「いいや長年同室やってると分かるよ。それに今回に関しては雷蔵も三郎も気がついていたと思うけどなー。まあ、俺に任せてくれたみたいだけど」
「俺、そんなに分かりやすかったかなあ」
「うん」
勘右衛門のあまりにも早い返答に、兵助の頭は項垂れた。
勘右衛門と兵助の部屋は常に整理整頓されている。彼らの真面目さがそのまま表れたような内装だ。窓枠は定期的に濡れぶきをかけているため埃は積もっていない。少し間をあけて並べられた文机。文机の隣には本棚が置かれていて、一年の頃から使っている教科書類が収められている。押し入れのなかには布団が二組。土壁に囲まれた二人部屋は前の日に焚いた火鉢のぬくもりをすっかり忘れている様子で、日差しの入らない室内は冷え切っていた。
「それで?」
勘右衛門は棚から今日使う分の道具を取り出していく。
今なら二人きりなのだから話せるだろうとでも言いたげな勘右衛門の態度に兵助は顔を俯かせた。
なんと伝えるべきなのだろうか。兵助自身どうしてあの時、八左ヱ門に口吸いを強要し、彼の下腹部に触れてしまったのか理解を仕切れていなかった。
ただ、己の感情を支配したのは強い怒りであった。
忍とは時に非情にならなければならないときがある。そのことは充分に理解をしているつもりだ。八左ヱ門の科白も文句をつけるところがない。
だが、どうしても兵助は八左ヱ門を捨てることなどできなかった。生きてほしいと願ってしまったのだ。諦めきれなくて、我慢できなくて。闇夜を音もなくかけていくときに考えていたのは八左ヱ門のことばかりで。無事でいてくれ、死なないでくれ、そんな願いばかりがあふれていった。しかし、掻き分ける風が兵助の脳を冷やしたおかげで闇夜を抜ける時はまだ冷静だった。忍として捨ておくことが出来ていたのだ。
だから、完全に追手を撒いたと判断した時、兵助は八左ヱ門を助けるために三郎へ密書を託した。
今から一人、だれかをかばうことなく八左ヱ門と別れたところへ戻るのであれば一時間もかからずに戻れると確信していた。幸い己の暗器は寸鉄といい、手のひらに隠れるほどの小さな武器だ。走る分には相性がよい。それに道も来た道をそのままにというわけにはいかないが、忍務となった城の方面であれば、かつて豆腐売りに出かけたことがある。さらには三郎であるならば追跡から逃れるのは得意分野のひとつである。
ならば。残りは託せるか、と頼んだ兵助の切なる願いを三郎はためらうことなく了承してくれた。それどころか「八左ヱ門を頼んだ」と同級の命を託してくれたのだ。
群青は青が何重にも重なって出来上がる深い色のことをいう。一つの命が失われるごとにその色は薄くなっていく。
学年が上がるにつれて、生徒はひとりまたひとりと減っていった。乱世において、この環境においては仕方のないことだと解っている。
しかし、それでもやはり、八左ヱ門だけは諦めきれることはできなかった。彼と別れを告げることを考えることができなかった。
雪を解かし春を呼び込む日差しのごとく暖かな存在に惹かれていくことを兵助が拒むことは一度としてなく、芽生えた初心な感情がむくむくと育つのをあまつさえ眺めていたのだ。
そんな何物にも代えがたい男を見つけた際にまだ息があったことを気が付いて自分がどれほど喜んだものか。無意識に溢れようとする涙を堪えることがどれほど難しかったか。生きている。間に合ったのだ。
八左ヱ門は、死んでいない。
だから、八左ヱ門に己が仲間を捨て置くような人間であると思われていたことが許せず、ひどく悲しかった。この熱情を伝えていないのだから彼が思うのも無理もない。生き物大好きでお人好し、押しに弱いところがある彼は忍者に向いていないと言われがちではあるが存外取捨選択ができ、目的のためなら手段を選ばない男であることを兵助は知っていた。
しかし、自分が非情にみえていたのだと考えれば考えるほどやるせない気持ちになっていき、そこまで言うのならば気が付かせてやろう、と。
未熟な齢十四の少年には、初めて孕んでしまった昂りを抑えつけることなどできなかったのだ。恋心を隠しながら抱えていくことも。
「その……、八左ヱ門を……」話しながら後ろ手に戸を閉める。
格子状の窓以外から光源を失った部屋は途端に薄暗くなる。朝の活気は遠のいて、冬の静けさだけが二人を囲った。
「ああ」
「…………傷、つけちゃって」
「それは、喧嘩をしたってこと?」
静かに兵助は首を振り装束の裾を握った。
「口吸いをしたんだ」
「ええっ」
勘右衛門の分かりやすい驚き方に兵助は眉を下げた。引かれてしまうのも無理はない。じわ、と滲み出てきた涙を兵助は放置することにした。拭ったところでまた出てきてしまいそうだ。
勘右衛門は大きく後ろに仰け反る動きをしたあとも動揺を隠さず口早に言葉を並べた。
「兵助、八左ヱ門のこと好きだったのかー!」
「言えなくてごめん」
「いや、そりゃそんなおもしろ、いやいや、兵助も悩んでいたことだろうし気にしてないよ。むしろ話してくれて嬉しいしさ」
「勘右衛門……」
「にしても八左ヱ門か〜! アイツも隅には置けないなー。まあ急な口吸いはどうかと思うけど頑張れよ」
勘右衛門は机に置かれた帳面を手に取り兵助に渡した。
「勘右衛門、お前って……いいやつだなぁ……!」
受け取ると兵助は胸元でぎゅっと抱きしめる。目をキラキラと輝かせる兵助に対して勘右衛門はコロコロと笑った。
同性で、しかもいきなり口付けをしただなんて唖然とされてもおかしくない話だ。だのに、告白をしてくれたのを嬉しいとまで言ってくれる級友の人の良さには感動を覚える。
「でも……、好きだとかそういうことも言えずにしちゃったんだ。アイツに今朝のはやるべきじゃなかったって言われてむしゃくしゃして」
兵法の書をなぞっても恋心を導く手本はない。混乱から心を沈める教えはあっても恋慕を殺す術はない。感情を抑えきれず起こしてしまったことを振り返ると余計に自分はなんてことをしてしまったのだと更に後悔が募っていく。
勘右衛門が唐突に兵助の肩に手を置くものだから体を強張らせてしまう。勘右衛門の目が相変わらず笑いの気配を滲ませていいることが、兵助にとっては安心感を抱かせた。同級は真剣に聞きながらも励まそうとしているのだ。
だから、
「俺はお前がどんなにこっぴどくフラれようとも何度だって慰めてやる! ただし豆腐は一食だけだぞ」と言われた時には思わず全身の力が抜け落ちてしまったが。
せめて三食くらいは付き合って欲しい。いや、無理にとは言わないが。
フラれる前提なのは寂しい気もするが、それでも勘右衛門の優しさにじんわりと胸が温かくなっていく。心の枷が少しだけ軽くなったような気もする。目尻に浮かぶ露を拭い兵助は顔を上げる。視界の端で窓から差し込む光が金粉のように輝いてみえた。
「うん、……ありがとう勘右衛門」
「どういたしまして。さてと、授業も始まってしまう。体操の場所をさっさと見付けちゃお。それに八左ヱ門は話せばちゃんと聞いてくれると思うよ」
「そうだね」
「あと、八左ヱ門が生きてること、俺も凄く嬉しい。ありがとうな、兵助、お疲れ様」
満面の笑顔で二度、勘右衛門は兵助の肩を叩き長屋を後にする。
「ああ!」兵助も笑顔で答え、彼を追った。
外はすっかり月が消え去り青の色がぐんと濃くなり始めていた。
八左ヱ門にまずは謝ろう。それから思いを伝えるだけ伝えてしまおう。フラれてもいい、……本当は嫌だけれども。嫌われたらちょっと辛いかも。それでも言わない後悔はしたくなかった。中庭を歩くさなか北風が兵助の頬を撫ぜた。吐く息は白く、手先は冷えている。それでも日差しが兵助を温めた。
炭火を押し当てられたように身体が熱い。息の仕方をすっかり忘れてしまったかのようにまともに酸素を取り込むことができない。この感覚は"溺れていく"に近しいのだろうか。竹谷八左ヱ門は熱に魘されながら変わることのない天板を眺めながら考えていた。
先程から意識は明滅を繰り返している。しかし、あまり時間が経っていないのだろうと感じるのは部屋に差し込む陽の色に変わりがないからだ。
熱く苦しい。吹き出してくる汗は肌掛けや寝間着に吸わていく。その布地の重量さえにも身体は不快感を訴えた。
逃れることの出来ない痛みに、生き残れたからこその味わうことのできる痛みに八左ヱ門は薄暗く笑みを浮かべた。口元に浮かぶ笑みに自嘲の色が帯びていることを知るものはここにはいない。
生かしてくれたのは――。
「それじゃあ八左ヱ門お大事に」
「起きたらまた顔出すからな」
「お大事に。兵助、先行ってるよ」
「うん、ありがとう」
戸が閉じられると途端に部屋が暗くなり、火を移しておいた油皿がふわりとあたりを照らした。
雷蔵、三郎、勘右衛門を背で見送りながら兵助は医務室に一人座す。彼の視線の先には床で寝静まる八左ヱ門の姿がある。彼は兵助達が来た時から寝ているままであった。
幼少期の頃からみている大口をあけて気持ちよさそうに寝ている姿とは打って変わり、苦悶の表情を浮かべている様はみていて苦しいもので、見舞いに来た三人も言葉少なく帰って行った。
一房だけが飛び出した特徴的な前髪は、今だけはすべてが手ぬぐいによって上へと持ち上げられていて、肌も上気している。寝ているはずだが繰り返される浅い呼吸は何かから追い詰められているようにも感じられた。医務室は血の匂いがなくなって、薬草の匂いが再び充満している。
新野先生の話によると怪我による発熱を起こしているらしい。
その現象は兵助達にも覚えがあるため、勘右衛門の発案で兵助が代表して目を覚ましたら呼びにいくこととなった。それまで三人は重湯でも作って待っている、とのことだ。勘右衛門の根回しに舌を巻く思いをしつつ心の中で学級委員長への礼を告げた。
部屋の隅に置かれた火鉢がぬるく身体を温める。八左ヱ門の首筋に浮き上がる汗の粒をみつけては手ぬぐいで拭いてやると時折うわ言のように何かをごちた。
「ごめんな、八左ヱ門」
井戸の底を眺めている気分だ。暗く、先のみえない世界は兵助を切ない気持ちにさせる。彼の寝言に返すようにぽつりと言葉を零す。返事がないと分かっていても、謝りたい。驚かせて悪かった。ひどいことを言った。気持ち悪いこともした。フラれてもいい。だけれども、どうか、嫌いにだけはならないで欲しい。様々な感情が融けて混ざり合う。ひとりになるとどうしても心細くなるのは悩みが解決していないからだろう。
「――それは何に対しての詫びだ、兵助」
部屋の端で炭火が小さく弾けたのと同時に兵助は顔をあげた。茫々と照らされる灯りのなかで、八左ヱ門の目線だけがこちらを向いている。傷が痛むのか顔は強張って、汗を滲ませ、呼吸は乱れている。それでも瞳だけは真っ直ぐに、ぶれることなく、兵助だけをみていた。その瞳の奥に映る感情を深くは読み取ることはできない。だけれども、堅い意志があることだけはわかる。
「口吸いをしたことか、それとも俺を救ったことか?」
「八左ヱ門! その、あまり無理はするな」「答えろよ」
熱いと感じたのは八左ヱ門の手が兵助の手に触れたからだった。乱れた呼吸でも八左ヱ門は決して目を逸らさない。
力の篭らない掌のはずなのに、その手と視線から逃れることはできなくて、その中で己の拳を握り締める。心臓が激しさをましていく。
冷静になれ、と脳が警鐘を鳴らし始めた。忍たるものいついかなる時も冷静であれ。五年間の中で培ってきた忍の精神を引き出そうにも手に突っかかりを覚えない。
この群青色の忍装束の中で燃ゆる激情を抑えつけようにもどうすることもできなくて声が荒らげる。
「どれも、ちがう」
「じゃあ、なんだ」
「お前から! 逃げてしまって、――ごめん」
静まり返った医務室に兵助の激昂が突き抜ける。
「助けたかったんだ。お前のこと好きだから。いいや、それだけじゃない、ずっと一緒に修行をしてきてもう誰もいなくなって欲しくなかった! 分かってる。こんな時代だ、こんな環境だ。人は必ずいつか死ぬ。それでも、助けられると判断した。なのに、お前がっ、いや、違う……。こういうことを言いたいんじゃなかったんだ」
「いや、教えてくれ兵助。お前の言葉で聞きたい」
発熱していることが嘘であると疑うほどに芯のある声が発せられる。無理をしていることは火を見るよりも明らかだ。しかし、それでも聞きたいというのであれば。兵助は逡巡するもやがて続けた。
「お前が俺を同級を捨て置くヤツだと思っていたことに腹がたった」
「すまん」
八左ヱ門は謝罪の言葉を述べた。
「いいや……、忍であることを考えれば当然だ。お前が正しいよ、俺に覚悟がなかった」
「だが、実際助けられたように算段があったんだろう? 俺だって、死にたいわけではない。……もとより俺たちは情報をもって生還することが重要だ。俺こそ、ひどいことをいってごめん。まずは、助けてくれてありがとうだったな」
兵助は静かに首を振る。
この男のこういった律儀な態度が好きだった。責任感があり、頼りがいのある男らしさ。自分にないものを八左ヱ門はもっていて、それが憧れとなり、いつしかささやかな慕情となっていた。しかし、芽生えた感情は次第に成長をしていき、男の添え木のようになりたいと願うようになっていった。彼の苦悩も悲しみも喜びもすべてを共有してほしい。傲慢だといわれようとも、頼られたいと思うようになってからは彼がしてくれたように彼の相談も進んで聞くようになった。
同時に、この男の様々な表情をみてみたいと思った。八左ヱ門は根っからの明るい性格で誰にでも優しい。後輩からは頼られる存在であり、先輩からも可愛がられることが多い。同級からもそうだ。教科は苦手だが、自分からわからないことを尋ねることができる八左ヱ門を誰も見捨てたりはしない。そんな彼が自分だけにしかみせない表情があるのならば、それを暴いてみたいと思ったのだ。
「口吸いは、お前の態度が許せなくてした。それから、お前に拒絶される言葉が怖くて、逃げてしまったんだ」
八左ヱ門は科白を返さなかった。兵助に続きを促すように手の甲をなぞる。熱が伝う。
「お前が好きだ。どうしようもないくらいに。ごめん、体調無理させているの分かっているのに」
「兵助、今日はそればっかりだな」
言葉だけならば呆れているような科白も柔らかな声では印象もガラリと変わる。
八左ヱ門の額からひらりと手ぬぐいが滑り落ちた。拾い上げるとすっかり布地はぬるくなっていて、水桶に突っ込んだ。「悪い」と八左ヱ門が言った。
看病しているのは兵助のはずなのに気を使われてばっかりだ。手のひらから零れていく水を眺めながらその奥にいる八左ヱ門をみる。彼もまた兵助をみていたらしく視線が重なった。熱で蕩けた瞳はどこかあどけなく、子供の頃を思い出させる。見つめているのが露呈したのかふいに視線をそらされると思わず小さく動揺の声がこぼれた。
八左ヱ門の眦がゆるく細められるとそれだけで全てを悟ってしまった気がして唇を食む。
「なあ、兵助。俺もお前のこと好きだ。……鍛錬してる姿はかっこいいと思うし、いつも助けて貰って有難いと思う。それに同じ委員長代理として悩みを共有できるのはお前だけだ。豆腐作ってくれるのも嬉しい。今回の件も恩がある。お前のおかげで命が続いてる。だが、……俺はお前と口吸いをしたいと思わない」
言葉とは時に残酷だ。彼は兵助を傷つけぬよう努めて穏やかにひとつひとつ選びながら話してくれている。だのに、八左ヱ門から紡がれる言葉ばかりが胸を凍らしていく。
「そっか、うん、分かった」
「少し、時間をくれないか」
科白だけを聞いて兵助は平坦に答える。
「時間? ああ、もちろん。まずは、うん、傷を治すのを優先してくれ」
「そうする」
ふらりと兵助が立ち上れば床板が軋む。「もう少し起きていられるか? 三郎達呼んでくるよ」
「ん、ありがとう。三郎にも心配かけたからなあ」
「重湯を作ってくれているよ」
「おほー! いってて……楽しみだな、腹減ってる」
振り返りながら無理はするなと微笑みかけて兵助は医務室を後にした。
行燈だけが頼りであった暗い室内に光が入り込む。夕焼け。一筋となった紅色は切っ先のように二人を断つ。兵助の忍装束が紅色に染まる。夜と夕べを混ぜたような色になって廊下の闇に溶け込んだ。
酷く寒い。夜には本格的に雪が降るのだろうか。この日の夜はひとも生き物たちも静まり返っていた。
医務室のある長屋を抜けて五年長屋へと向かう。火鉢のぬくい部屋にいたからか、それとも興奮を覚えていたからか火照った体を冷気が刺した。授業が終わってからまだそんなに時間も経っていないはずなのに、空は星が煌めき始めていた。茜色と濃紺が混ざり合う空の上に散りばめられたように輝く星々。遠くで鳴いた烏の声。
兵助は、心を置いてきてしまったような憂鬱とした気分で足を進めていた。
(そもそも、いくら気持ちが膨れてあんなことしたからって、八左ヱ門のあの状況で伝えることではなかった。あからさまに無理をしていたのはわかっていたんだからアイツが納得をしなくとも口を閉ざしておくべきだったんだ。いや――、別の機会だとしてもあれは変わらなかっただろうな)
丁度風呂のため火を焚く時間らしい、一年忍たま長屋の方からはもくもくと煙が上がっているのを兵助はぼんやりと見上げた。
(八左ヱ門のことは勘右衛門達に任せる代わりに、みんな分の夕ご飯を代わりに準備して、風呂焚いといてやるか。善法寺先輩に今朝の礼もして……あ、そうするとまた医務室に行くことに……長屋にいるといいなあ)
正直気まずい。三郎いわくニブチンな男ではあるが、先ほどの話から兵助が現れないのであれば、再び会いに行くことを気まずいと感じていることも察することもできるだろう。いやしかし、行ったら行ったで互いに気を遣いすぎてなんとも言い難い空気になってしまうかもしれない。八左ヱ門は下級生から慕われていることもあってか面倒見もいいため、自然と相手に対して気を使うことも多いのだから。
雑なところに時折見せる繊細さは元来の人の良さに所以しているものだろう。
あの時もそうだった。
染められたばかりの青色装束に緊張をしながら袖を通した一年が始まる時節。歳を重ねるにつれてこの季節が憂鬱になっていくことを兵助は感じ取っていた。入学したばかりの頃は忍者への憧れだけを胸に抱いていた何も知らない少年も、厳しい訓練と危険な実戦によって己の選択をした路を理解していく。
桜の花が咲いてから散る頃は、一年間のなかで最も同級らが減る時期である。一週間のうちにひとりまたひとりと教室から姿が減っていく。しかし、中途半端な志こそが最も危険であるが所以、彼らを止めることも叶わない。更には兵助の所属する火薬委員会には六年生がいなかった。四年の終わりから引き継ぎを経ていたとはいえ、一年早い最上級生という立場に落ち着かない日々を過ごしてもいた。
だからあの日、桜の枝に緑が茂りだした頃に、歯がゆさと寂しさ、それから緊張を忘れるために鍛錬にでも行こうかと長屋を出た時に兵助は同じ学年のろ組である竹谷八左ヱ門と初めてまともに話したのであった。
「五年い組火薬委員会委員長代理久々知兵助」
「お前は、五年ろ組生物委員会委員長代理の竹谷八左ヱ門じゃないか」
それまでももちろん八左ヱ門と会話を交わしたことはある。しかし、同じ組ではないと合同訓練や実習でないかぎり目立った接点はない。改まって話しをするという場面に遭遇したことがないのだ。
それに兵助にとって八左ヱ門は関係性としては遠い存在であった。根からの明るさと調子の良さ。ろ組のなかでも彼は今年から一人部屋らしく、その部屋の中では大量の虫と過ごしているだとか。その程度のことしか知らない。
「何をしているんだ?」
重力に抵抗している前髪を揺らしながら八左ヱ門は兵助の手元を覗き込んだ。
「これから鍛錬でもしようかと思って」
「それで?」
兵助の持つざるの上に置かれた豆腐をみて八左ヱ門は目を見開いた。朝一番に作った豆腐は満足のいく出来で硬さも張りも丁度鍛錬にも適している出来栄えだ。「ああ、そうだよ。この豆腐をざるから落とさないようにやるんだ」
山場でも扱うための鍛錬は兵助にとって子どもの頃からの日課でありながら気持ちを落ち着かせるもっとも有効的な方法でもあった。
「ほお~! なあなあ、俺も一緒にやってもいいか?」
「もしかして、八左ヱ門も豆腐好きなの?」
「豆腐? まあ、普通に好きだな」
「そうなんだ! じゃあやろう!」
思わず目を輝かせながら兵助は大きく頷いた。ざるの上で豆腐がぷる、と揺れた。
「そうしたら俺がまず豆腐を持って追いかけるからお前は逃げてくれ」
「ん、なあもしかしてそれ、尾浜勘右衛門とも前にやっていたか?」
「うん? ああ、勘右衛門とはよくやってるよ」
兵助の言葉に合点の言ったような表情を浮かべ、
「なるほど、あれは鍛錬だったのか!」
ぱっと明るい顔をした八左ヱ門につられ兵助も自然と頬が持ち上がる。
「ああ、そうだよ」
「難しそうだ、早速やろう」
訓練が重なった頃から八左ヱ門は実技が得意なのだろうと思っていたが、どうやらその認識は正しかったらしい。
まっすぐに駆けて逃げていた八左ヱ門も豆腐を持ったままの兵助が距離を詰め始めると感嘆の声をあげた。地を蹴り上げて塀に登れば、瓦の上を跳び、走る。兵助も追うためにと、飛び上がった刹那、八左ヱ門は大きく跳躍をして一間ほど離れたところへ降り、するするっと木に登れば五年長屋の屋根の上。目にもとまらぬ速さは、まるで猿のような身のこなしであった。
しかし、兵助だって負けてはいない。胸元から先に鉤がついた縄を取り出せば片手だけの腕力で投げかける。その鉤縄は弧を描いては八左ヱ門の足元に絡みつき、男の均衡を崩していく。すぐに動揺の声があがった。
「だっ、とわわわっ⁉」
「よし!」
よろめき、転倒をどうにか防ごうとする八左ヱ門を他所に兵助もまた枝を伝い登っていく。ざるの上にある豆腐を崩さないようにするのも兵助にとっては慣れたもので、その様子を見て八左ヱ門が慌てふためいているのが面白かった。思わず口の端を持ち上げながら屋根の上へ飛び上がると男へ豆腐を差し出す。
「ま、参った」
両手をあげる八左ヱ門の手に豆腐を預けて、自分は彼の足に絡む鉤を取っていく。
「武器の使用を許可しているだなんて聞いてないぞ」
拗ねた声を上げた少年に平然と答える。
「使ってはいけないとは一言も言ってない」
「今度は負けないからな」
八左ヱ門は足の自由を得れば豆腐を持ったまま屋根を飛び降りる。「うおっ、むっず!」と慌てた声が聞こえたのは彼の手の上で白い塊が飛び跳ねそうになったからだ。間一髪、身体を器用に動かしてなんとか崩れるのを防ぐと大きく息を吐き出した。
「すごいな兵助。お前がやってる時はざるにくっついているみたいだった」
「ありがとう、でもまだまだだよ」
「兵助は真面目だなあ。そうだ、少しあっちで休憩しないか?」
八左ヱ門が指を差したのは小さな丘の方だった。
年輪を幾つも重ねた太い幹は茶を通り越し鈍い黒に近しい色へとなっている。どしりと構えた胴体から空へ向かい悠々と広がる枝たちは重さに耐えきれないのか、下へとしならせながら風に揺れて花弁を散らす。深い青の空に桜色はくっきりと存在感を放ち、忍者の卵たちを見守っている。
「なんっか、五年って大変だよな~」
丘の上へ寝転がって早々に八左ヱ門は発話と欠伸の中間点のような声を出した。
それは鍛錬をするまでまさに兵助が考えていた内容と同じもので思わず身を乗り出した。真下で八左ヱ門が困ったように眉を下げたのでいそいそと座り直す。
「八左ヱ門も、そう思うの?」
「ああ、思う思う」八左ヱ門が頷くと同時に頭に積もった桜がはらりと落ちる。
「急に実習も難しくなるし、訓練量も倍に増えただろ? 俺らの組、ここ最近で一気に人数減っちまったんだ」
「……同じだ」
この男には失礼かもしれないが、兵助からみた八左ヱ門は悩みがないのが悩みと言えてしまいそうな快活で天真爛漫な性格であると評価をしていた。どうやらそれを改める必要がありそうだ。五年間同室の勘右衛門にもまだ告げていなかった悩みをまさかこの男に共感してもらえるとは思えず心が少し軽くなる。
「俺、今年から委員長代理だし」
「いざ急に最上級生になると悩むよなあ」
「分かってくれるかい」
再び大きく身を乗り出せば、八左ヱ門は目も口も大きく開いて、それから軽快に笑う。寝転ばせたからだを縮めて堪えるようにしても、耐えきれない笑声が空気を震わせた。
「兵助って分かりやすいよな」
ドキリ、とした。今までこの学園で過ごしてきて同室である勘右衛門以外に言われてきたことは「兵助はたまによく分からないところがある」であった。
他の同級からも遊びに誘われても課題があるからと断れば真面目なやつと言われ、豆腐を持って鍛錬をしていれば変なやつと揶揄される。とはいっても、ここには忍になる術を学びに来ているのだからそのための努力を怠りたくなかっただけなのだが、どうにも伝わりにくい。
「え? そう、かなあ、初めて言われた」
八左ヱ門は頷いた。「兵助は表情がコロコロ変わるから分かりやすい」
「よく分かったね」
「俺、生物委員会でずっと虫とか動物とかの成長をみているからかなんとなく分かんだよな~、小さい反応とかも」
八左ヱ門は降ってきた花びらから守るため、豆腐を手でそっと覆う。
なるほど。どうやら彼は兵助を励ます為に声をかけてくれたようだ。どこで気がついたのかは分からないが、己の気分が沈んでいるのをどうにか持ち上げてくれようとしたのだろう。男の些細な気遣いに気がつくと途端に頬が熱くなった。
「そっか、……なあ八左ヱ門」
「なんだ?」
「一緒に、この豆腐食べてくれないかい?」
「おほ~! いいのか?」
「うん! お前と食べたい!」
嬉しそうに笑う兵助の顔を八左ヱ門は見上げていた。「さ、そうと決まったらいこう」と、差し伸べた兵助の手を取って起き上がると彼らの体に降り積もっていた桜の花びらが雪のように落ちていく。柔らかな陽の光を浴びて、桜の花は白く輝いた。
同級は減り続け、組の垣根を越えて実技を合同で行うようになると兵助は勘右衛門は当然ながら、八左ヱ門、三郎、雷蔵の五人でよく行動をするようになっていった。
思い起してみれば、まともに話すようになったあの頃から八左ヱ門のことが気になっていたのかもしれない。今更辿る必要もなかったのに、考える必要もなかったのに、自分は先ほどの八左ヱ門との会話に相当消沈しているらしいといっそ他人事のように思えてきた。
ぽつぽつと紅色の明かりが灯りはじめ、薄暗くなってきた足元を照らしだす。空は太陽が沈み落ちてきて、もうほとんどが濃紺色になっていた。
五年の長屋につくと早々に兵助は勘右衛門、三郎、雷蔵に出迎えられた。みな兵助が戻るのを待っていたような様子だ。手を上げて兵助を呼ぶ三郎に答えれば、次に勘右衛門が兵助に小袖を手渡してきてそれを受け取る。「冷えるといけないから着ておきな」
「ありがとう。目、覚ましたからみんなが来ること伝えておいたよ。多分寝てないと思う」
兵助の言葉に答えたのは三郎だった。
「そんじゃまあいってやるか~」
「兵助、伝えに来てくれてありがとうね」
続く雷蔵の手には鍋が握られていた。煮干し出汁の香りが蓋をしていても香ってくるが、普段ならば湧いてくる食欲も今は凪いでいた。薄暗くなってきた空にくゆりと湯気が登っていく。
「ううん」最後尾になるように兵助は遅れながら三人の後を追った。
医務室に着けば襖の隙間を覗き込むように群がった下級生たち達がいて、全員が揃って怪訝そうな顔をしてしまう。
保健委員会である猪名寺乱太郎を始め、生物委員会の伊賀崎孫兵や一年生も揃っている。水色に青に黄緑と色とりどりの装束が廊下に溢れかえっているこの光景こそ八左ヱ門の人望を表しているのだろうと兵助は改めて感じた。
「何をしているんだお前たち」
「わー! 不破雷蔵先輩と不破雷蔵先輩に変装した鉢屋三郎先輩、尾浜勘右衛門先輩、それに久々知兵助先輩 こんばんはー!」
驚愕に顔を歪め身体を仰け反らしたかと思えば刹那ににぱっと笑顔を見せて挨拶をしてくる下級生達に思わず兵助らは身体を脱力させた。
しかし、すぐさま体制を戻した三郎は声を荒らげる。「なんださっきの悲鳴は ってそんなこと言ってるばやいか、何をしているんだと聞いているここは――」
「竹谷先輩が怪我されたって本当ですか」
ばさりと科白が切り捨てられて三郎はジロリと乱太郎を睨む。しかし、そんなことを気にする余裕もないのか乱太郎は目元に涙を浮かべ、彼の問いかけに雷蔵が優しく少年の頭を撫でた。
「本当だよ、お前たちも見舞いに来てくれたのかい?」
「当然です! ただ中に入っていいか分からなくて……」
ヘビのジュンコを撫でながらちらりと孫兵は閉じられた襖の方をみる。外側から見たところ中の様子は分からないが中で人が動く気配などは感じられない。起こさないように彼らは気を使っているのだろう。特に、ここに来ている下級生たちは八左ヱ門をよく慕っている子らだ、迷惑をかけたらいけないと心配をしている様子であった。
眉を下げて困り顔をする良い子達を救ったのは勘右衛門だった。彼は下級生を掻き分けるとおもむろに襖を開け放つ。
「なーんだ、大丈夫だよ八左ヱ門起きてると思うから、ほら!」
すぱんっ、と心地よい音が響く。それから仰向けのままこちらをみて苦笑いを浮かべる八左ヱ門の姿を見ると子供たちは顔を明るくさせた。
「いやぁ、すまんすまん。ずっと外にいるから逆に声を掛けずらくなってしまい」
「竹谷せんぱ~い!」開けたら早いか一瞬にして下級生が八左ヱ門の周りを囲い出す。
八左ヱ門はひとりひとりの顔をしっかりと認めながら花が綻ぶようにほほえんでみせた。
「ありがとうなお前たち」
その表情をみていることが兵助にとって苦痛だと自覚した時、己のなかに巣食う汚れた仄暗い感情に胸を抉られるつらさを覚えた。やはりこの男は誰にでも等しく、誰にでも優しく心を向ける。すなわち、彼は誰のものにもならない男なのだと改めて理解してしまったからであった。
寂しさ? 否、――違うだろう。子どもたちにすら嫉妬心を抱いている己に対して強い衝撃を受けていたのだ。
このままではいけない。
爪が食い込むほどに握られていた拳を解いて音も立てずに医務室を去ろうとする。みな八左ヱ門に注目しているのだ。ここで気配を消しても誰にも気が付かないだろうと考えて、気配を消して敷居を跨ぐ。
しかし、しばらく離れたところで柔らかく床板が軋む音がしてはっと振り返った。
「兵助?」
「――三郎か、どうしたんだ?」
外はいよいよ暗幕を垂らしていて行燈が足元を照らす。夜眼が効く兵助たちであるが、暗くなったばかりの世界であればまだ正確に相手の細やかな表情までは分からない。
声だけで三郎であると認識をし、振り返るもやはり男の表情は読み取ることが出来なかった。
「お前が気配を消してこそこそと出ていくのが見えたからな」
「あのままだと全員を相手しないとだし、八左ヱ門も疲れてしまうだろう? だから先に出てようかと思ったんだ」
「ったく、……難儀だなお前も八左ヱ門も」
三郎の呆れ返った声に兵助は思わず唇を尖らせる。
「八左ヱ門は今関係ないだろう?」
「関係あるさ、……やれやれ、どうしてこうも」
「あ?」
「いいや、こちらの話だ。まあ、なにか聞かれたら学園長に忍務のとこで呼ばれたとか何とか言っておこう。そうすれば誰も深追いしないだろう?」
それだけをいうと三郎は踵を返す。
話を濁されてしまったが深追いをする気持ちにはなれず、闇に溶けていく男の背に礼だけ述べると兵助は長屋を後にした。
鼻の先に冷たさを覚える。ひやりとしたそれは次に頬、指先、髪、布地を濡らしていく。見上げれば月明りに照らされて音もなくやわらかな雪が舞い降りているようだった。白く輝くそれをみて、兵助は途端に春が恋しくなっていった。吐く息が白く、雪を溶かす。
八左ヱ門へのこの恋心は今この場で一度消してしまおう。例え今すぐは難しくても、山の雪が月日をかけて溶けていくように時間が解決してくれることもある。待っていれば春はいずれ訪れるのだから。
それに八左ヱ門はこうして生きているのだからいいではないか。なによりも彼の命を救うことができたのだ。生きていれば、何度でも機会はある、はずだ。
悩みは隙となり、隙は忍務の失敗へとつながっていく。そのため選択を間違えてはならない。心に折り合いをつけるのは時間がかかるが、そこは勘右衛門にでも犠牲になってもらおう。何度でも慰めてくれると言っていたのはあの男だ。その言葉に今は甘えたかった。
連日忍術学園には雪が降り続けてた。降り始めは粉のように小さな雪も、日を追うごとに空気がぐっと冷やされて次第に大粒になっていく。地表が白と銀に埋もれていくまでにはそれほどの時間はかからなかった。一面に咲くは銀の花。空は数日の間は雪雲の影響で鼠色をのっぺりと張り付けたままであったが、今日は久しぶりのやわらかな陽射しが降りそそぎ。蒼穹と白銀の世界が対照的に忍術学園の冬を彩る。
学園の敷地内の端の方にある小さな小屋。……の屋根の上。八左ヱ門は踏鋤を用いてこんもりと積もった雪を踏みながら下へと落としていた。少しばかり動きがぎこちないのは背中の怪我を庇ってのことであった。
あたりには誰もいない。それもそのはず、今日は学園は休日で多くの下級生らは実家へと帰り、上級生も各々鍛錬へといそしんでいるのだ。
小屋の入口には『生物小屋』の文字がひとつ、雪に半分ほど身を隠されていた。屋根を極力傷つけないように――雪で潰れるのもいやだが、もし穴でもあけてしまったら修繕が大変だ――雪に鋤を差し込んでは払い、少しずつ屋根の雪を削っていく。
「怪我明けだというのに精が出るな」
背中に向かって声がかかり振り返る。そこに居たのは同じく鋤を担いだ三郎に雷蔵で、八左ヱ門は顔を明るくさせた。
「おほー、三郎に雷蔵! 小屋が雪で潰れてしまっては大変だからな! これだけは、やっておきたくて!」
「手伝うよ」
雷蔵は鋤を掲げながら言った。
三郎と雷蔵は薄緑色の半纏を忍装束の上から身にまとい足元は藁靴でしっかりと防寒対策をしているのに対して、八左ヱ門は半纏をすっかり雪に埋もれさせている。三郎は半分埋もれかけた竹のように深い緑の衣を救出すると小屋の中へと投げ入れた。恐らくは無くさない為にだろう。
「本当か! 助かる!」
「屋根から落ちてまた怪我したらかなわん、ほら、お前は下で周りの雪を書いてろ」
三郎の科白に八左ヱ門はからりと笑う。それからいそいそとかけた梯子を降っていくと三郎と交代をした。
「すまない、ありがとう」
「ったく」
「朝のうちに言ってくれたらその時から手伝ったんだけどなー」
と雷蔵は言った。
「いやあ、こういうのって頼みにくくないか?」
三郎は呆れたとばかりに肩を下ろす。「阿呆、課題を教えてくれって頼みよりもよっぽど聞いてやるわ」
すぐさま三郎の方を向き直り八左ヱ門は頭を下げた。
「いつもありがとうございます」
「ったく、もうそろそろ実技も復帰するんだろ?」
「おー! 新野先生から来週から無理をしない範囲でなら良いとお許しを頂いた!」
すぐに雷蔵と三郎は互いを見合せた。
「八左ヱ門が無理しないってそれが無理じゃない?」
「私もそう思う」
「俺も!」「いや、自分で言うなよ」
二人が揃って指摘をすると八左ヱ門は肩を竦めてとぼけた素振りをする。
「うお、やっぱくそさみーな、よく翌朝からやっていたな」
「もう慣れた! それに動いていれば暖かいぞ!」
雪をかいて外に投げる。単純な作業ではあるが、それでいてかなりの重労働だ。八左ヱ門は額に汗をにじませてはいるが、久しぶりに動くことができる開放感に喜びを覚えていた。なんと言ってもつい数日前まで絶対安静が言い渡され、保健委員と新野先生が代わり番で看病をしていてくれたのだ。主に抜け出さないかの監視を目的として。
「はいはい、お前さんが元気そうでなによりだよ」
「心配をかけたな! 三郎、それに雷蔵」
屋根から雪を落として、雪を外へ逃がして道を作る。毒草園と小屋に下級生が安全に通えるようにするのは毎年上級生の仕事だ。
しばらく適当な話に花を咲かせながら作業をしていると三郎がそういえばと話し始めた。
「兵助と何かあったんだろ?」
その台詞に思わず八左ヱ門は鋤を雪に深く突き刺した。顔には苦い笑みが浮かんでいる。
「……いきなりぶっこんでくるなぁ」
しかし、容赦なく会話を続けたのは雷蔵であった。三郎も屋根から飛び降りていよいよ尋問が始まるような雰囲気になってくる。
「兵助、八左ヱ門が怪我してた時からあからさまに動揺していたからなあ、最近はまあ良くなったけど」
雷蔵の言葉に八左ヱ門は頷いた。
「ん、そうか」
「で?」
二人は声を揃えて八左ヱ門に詰め寄る。逃げるように八左ヱ門は顔を背けた。彼らの本題はもしかしたらこちらだったのかもしれない。畜生と心な中で八左ヱ門は舌打ちをした。
「いやあ、……好きと言われて、口……吸いをしてな」
「おおなんだ良かったじゃないか、了承したんだろう?」
「いやぁぁ……」
頭をかきながらぎこちなく笑みをつくる八左ヱ門に雷蔵と三郎は顔を合わせた後に驚愕の声をあげた。
「まてまてお前の思考が全くわからん。何がダメなんだ?」
「え、だって八左ヱ門って、ずっと兵助のこと好きだったよな?」
三郎に続いた雷蔵の言葉に八左ヱ門はいよいよ体を凍りつかせた。
しかし、三郎は八左ヱ門の科白に不満気に「はァ?」と言った。「おまえ、ま・さ・か、ヘタレか?」
「室町時代にそんな言葉はない」
思わず噛み付くも三郎は怯むことなく問うた。
「では何故? 両想いということなのではないか」
と、答えを聞く前から既に呆れたとでも言いたげな顔をしながら。
「たし、かに、兵助のことは好きだ。口吸いも、まあ、驚いたけれども……嬉しかった。でも、なあー……」
瞼を閉じて八左ヱ門は記憶の海へと潜って行った。真冬だというのにもかかわらず、全身が熱に襲われたあの朝。意識も朦朧としていて、全身は泥に飲まれたかのようにダルかったが、それでも兵助の告白と表情だけは脳裏に焼き付いていた。それこそ背に刻まれた傷と同じほどには。
普段の冷静沈着な様子からは想像できない程に焦りを滲ませたその表は強ばっていた。視線は八左ヱ門を捉えたかと思えば直ぐに逸れて、また戻ってくる。一生懸命で、真っ直ぐで、そんな様子に心の内が切ない気持ちになったことを覚えている。
「付き合う気はないかなあ」
いつもの如く二人が横に並ぶ。それから寸分狂うことなく同じ調子で顎を前に突き出し目を開いて動揺をみせる。こんな時でも相も変わらず、三郎と雷蔵二人が八左ヱ門と面するような形になるのもいつもの事だ。
「いやそこが分からないんだ。付き合ってしまえばいいのに。何故だ?」
「…………責任が持てん」
「せきにん?」
雷蔵の言葉に頷き、八左ヱ門は己の鋤を地面に刺してから、その上に顎を乗せる。
「だって俺らはあと一年とちょっとしたらプロの忍になるんだぜ? いつ、どこで死ぬのかも分からない。屍も残らないかもしれない。この冬を越えたら六年生になる。つまりそれ相応の覚悟が必要だ。だから、いざと言う時に俺は迷いたくないんだ。それから……」
さくり、と雪が子気味良い音を立てた。蒼穹に世界は煌めいていて眩しさに八左ヱ門は目を細める。それ以外の情も孕んでいないのかと問われれば嘘にはなろうだろうが。
「付き合ったとして、その後俺の身に何かがあった時兵助を哀しませたくない」
吐いた白の吐息よりもずっと先の方、変わらぬ雪の風景を眺める八左ヱ門に、双忍と呼ばれる二人は互いの顔を見合わせた。三郎は左へ、雷蔵は右に首を傾けると鏡合わせのようになる。
八左ヱ門の決意に言葉を返したのは三郎からであった。
「とりあえず、その内情は兵助に直接伝えたのか?」
「そこなんだよなァ……、兵助に告られた時意識はあったにはあったんだが、体がしんどくてまともには返せなかったんだ」
時間が欲しい、兵助から思いを告げられた時、八左ヱ門はそう兵助に言った。それは今すぐの状態では答えられないという意味も含まれていたし、迷いが生まれてしまったという意味もある。
もし、あの怪我を負っていなかったのであれば、自分はここまで兵助の言葉に悩むことはなかったのだろう。気が付いたら芽生え始めていた淡い慕情を八左ヱ門は不器用ながらにも大切にいただき続けていたのだから。とはいっても同級には早々に露呈していたが。迷わずにその場で兵助の言葉に答えていた可能性だってあった。「お前とそういう関係になりたい」と。
生き物を育てるのが好きだ。一年生の頃から変わることなく生物委員として八左ヱ門は数多くの生物の面倒をみてきた。小さな芋虫から大きな犬まで、その種類は様々である。八左ヱ門は彼らの成長の過程を見ていくことが何よりも好いていた。
この世に生まれるすべてのものが尊く、そして愛おしく、時に残酷な世界にも目を逸らす事はない。忍び生きるものとして、時に育てたものたちは利用をすることにも厭わない。命令とあらば。
だから、芽生え始めた小さな恋の葉を見つけた時、ゆっくりと育てて行こうと誓ったのだ。最後まで、責任をもって。
太陽に向かって両手を広げて伸びる双葉にしゃがみこんでは水をやる。ゆっくりゆっくりと伸びていく茎を眺めていった。では、この葉が育ちきったら? いつかはこの感情を、男の感情を生きるために利用をする時が来るかもしれない。そういった世界に自分たちは足を踏み入れつつあるのだ。
小屋の屋根から雪の塊がぼとり、と落ちる。草木は白に隠れ、埋もれていく。
成熟しきった生き物の行く先、待ち構えるものが終焉であることを八左ヱ門は知っていた。
「あー、まあそれは、告白のタイミングとしては兵助が悪いと僕は思うかなー」
「まあな、私も同感だ。だが八左ヱ門、お前はいいのか?」
「なにが」
「兵助との関係だ。好いたものへの欲はそれなりにあるのではないか? それこそヤりたいとか」
三郎の口からその台詞が放たれると途端に八左ヱ門の顔が曇り出す。まゆ根を寄せて口をすぼませ三郎を睨みつけるような顔はタカ丸に髪結いをされて「タカ丸カットあんどタカ丸トリートメント」をされた後の様子をと重なった。
「八左ヱ門、顔、顔」
と、宥める雷蔵。三郎は八左ヱ門を気にもとめず畳み掛けた。口元には笑みを携えて。
「脳直型のお前にしては難しく考えているんだな」
「そりゃあ惚れている相手、であるのならば、余計だろう!」
話しているうちに八左ヱ門の声は大きくなっていき、頬も桜色に染まっていく。遂には耳まで赤くなっていくと三郎の口角も更に吊り上がる。
意地の悪い笑みだ、と男の様子を見て雷蔵は眉を下げる。
「だが、プロ忍者でもご結婚されている方は多いぞ? その人たちに覚悟がないとは言えんだろう」
「でも、僕は八左ヱ門の気持ちわかる気がする……」
「雷蔵!」八左ヱ門と三郎、二人の声が重なった。
八左ヱ門はこの場での唯一の理解者に希望を抱くかのように、三郎は彼の発言を疑うかのように。
雷蔵は鋤を握りなおすと落ちてきたばかりの雪を外へと逃がしていく。「だって、実際に付き合うとしたら八左ヱ門だけの問題じゃなくなるってことだろう? 共に背負うべきか、それとも……あ、でも僕みたいな迷い癖がある人は一緒に悩んでくれる存在って大きいのかもしれないな」
その後も雪をかいていくが、どちらへ退かすべきか右往左往し始める。
「ら、らいぞぉ……?」
「それに、兵助の場合は背負う前に切り込んでしまうかもしれないがな。アイツはああみえて無茶が多い。あ、雷蔵、いったんこっちにまとめよう」「わかった」
「三郎?」
「なんだっけ、ああ、兵助って、八左ヱ門とは違った意味で予想外な動きをするもんね」
と、雷蔵は言った。
様子を伺うかのように八左ヱ門は二人を交互に見やったが、時すでに遅し。雷蔵は雪かきを再開しようとしているし、三郎に至っては雷蔵へ助言を出しながらも雪玉を作り始めていた。
八左ヱ門は二人の会話に割入ろうとする。「あの〜……」
「だろう? 案外似た者同士かもしれんな」
「わかるわかる……。あ、三郎。遊んでないで再開するよ」
しかし、それが上手くいっていないと気がつくと素っ頓狂な声を上げる。
「え、ちょ、俺の相談は?」
「悪かったって! ほら八左ヱ門も、手を動かせ」
「おほー お前たちから聞いてきたのになんだそのいい加減な終え方は」
子犬と似たような吠え方をする男を三郎も雷蔵も相手にする気はないらしく、「お前の惚気を聞くなら後でいいだろう」と再び屋根に登り始める。
「惚気ではない!」
八左ヱ門の叫び声は雪景色の中を走り抜けていった。