彼女が本屋を辞めるらしいプルル、と無機質な音ががらんとした部屋に鳴り響く。
「はい、お電話ありがとうございます。はばたき書房です。」
聞き馴染んだ店長の声に、受話器を持つ手が強ばる。
穏やかで、今まで1度だって本気の怒声を聞いたことがない彼は、今日、この後美奈子が告げる言葉を聞いたって、決して怒ることは無いのだろう。
「あの、」
上ずった声が自分の口から漏れる。
「バイトを………辞めたいんですが………」
綺麗に畳んだ青いエプロンを視界に入れないようにして告げた言葉は、やけに大きく部屋にこだました。
***
「本多くん、ちょっと」
閉店後、本の棚卸し作業をしていたところを店長に呼び止められた。
もう作業は終わりかけとはいえ、仕事中は仕事に集中するよういつも口すっぱく言っている店長が声をかけるのは珍しい。
「? どうしました??」
行が、少し困ったような面持ちでこちらを手招く店長の元へ駆け寄ると、彼は辺りを伺うように小声で耳打ちした。
「…本多くん、小波さんと何かあったりした?」
「……え??特に、なにもない、ですけど……」
唐突に出た彼女の名前に戸惑う。
彼女とは1年生の頃からここで共にバイトをしていて、それなりに友好関係を築けていた。むしろ、行にとって大切な友人の1人だ。
「…だよねぇ、いやぁ実はね………」
だから、まさか。
「バイトを辞めたいって言ってるんだよ」
「…………え?」
こんな展開になるとは予想もつかなかった。
***
日が落ち始め、橙色に染まる住宅街を歩く。
少し前までこの時間は闇に包まれていたのに、日が落ちるのが長くなったものだ。
そういえば先日は夏至だったなぁ、などといつもの行なら地球の公転に想いを巡らせるが、今日はそれどころではなかった。
(みなこちゃんが、バイトを…辞める……?)
先程聞いた店長の言葉が、脳裏にこびりついて離れない。
少なくとも、行が見てきた彼女は本が好きで、バイト中もよく笑って。とても本屋のバイトが苦痛になったような素振りは見えなかった。
金銭、仕事……いろいろと可能性を模索した結果見えた、ひとつの可能性。
幼い頃から、度々経験してきたこと。
「………もしかして、オレのせい…?」
かつて自分から離れていった、友人たちの苦笑が聞こえた気がした。
***
「実くん!!」
パタパタという足音とともに現れた彼女は、こちらが口を開くまでもなく「行くん見てない!?」と相変わらずの声量で言った。
声デカい、と指摘するのも最近は諦めている。
「あー……確かに今日授業中以外見てないかも」
そういえば、休み時間がやけに静かだったことを思い出す。年中無休で垂れ流されるうんちくも、今日は1度も聞いていなかった。
「行くんに話さなきゃいけないこと、あったんだけどなぁ…」
そっかぁ、と残念そうに視線を逸らす彼女が、彼にどんな用事があったかはわからない。
「…ダーホン見かけたら、声掛けとくわ」
「ほんと!?ありがとうっ!」
ただ、そうぱっと輝いた彼女の笑顔を見て、彼女の中で自分は「1番」でないことを悟れないほどに実は鈍感ではなかった。
「……で、なんでこんなとこで寝転がってんの」
実のところ、彼の居場所なら心当たりがあった。彼なりの配慮なのか、強い感情が生まれた時はいつも1人であの場所に向かうことを知っていたからだ。
彼女に尋ねられた時にそれを口に出来なかったのは、実なりの反抗心か。
屋上の地面にゴロンと寝転ぶ行は、こちらに気づくと「あ、ミーくん」と少し笑顔を作った。
「…オレね、彼女に嫌われたかも。」
そんなことあるわけないでしょ、と言いたくなるが、行はほとんど嘘をつかないことを知っている。
本当に、彼女の想いに気づいていないのだ。
恐らく自分自身の思いにも。
(…やっぱり恋愛初心者マーク。)
花椿姉妹が言っていた言葉を反芻する。
しかし、先程の美奈子の様子を思い出してみても二人の間に「何か」があったことは事実なのだろう。
「…何かあったの」
彼の横にしゃがみこんでそう尋ねると、行はごろんと天を仰いだ。
「美奈子ちゃんがね、…バイト辞めるって言ってるらしいんだ」
脳裏に先程の美奈子の顔が思い浮かぶ。
少し困ったようなあのときの表情は、それを伝えるべきかの葛藤の表情であったと納得した。
「彼女はね、オレの話、いつも楽しそうに聞いてくれて、それで……
…彼女もオレと同じだって、楽しいんだって、勘違いしちゃったみたい。」
行の話には中身がある。
前置きの長さにもどかしさを感じることはあっても、実は行の話が好きだった。しかし、その話を煙たがる人間もかつて存在したのだと、行から以前聞いたことがある。
またやっちゃった、と笑う行の脳裏には、恐らくそのときの情景が浮かんでいるのだろう。
ーーらしくない。
率直にそう思った。
「…ダーホンなら」
「ん?」
「いつものダーホンなら、直接話し合って解決しようとするんじゃないの?」
その言葉に一度瞬きをして、次に目を開けた時にはその瞳に光が点っていた。
「そっか……オレ、みなこちゃんに嫌われるのが怖かったのかも。人から嫌われるのが怖くて行動できないなんて、こんなのはじめて!
…やっぱ彼女って、最高に面白い!!」
未知への期待に目を輝かせる彼を見ながら、ああやっぱり、俺では適わないな、なんて思った。
「オレ、みなこちゃんと話してみるよ。ミーくん、ありがとっ!!」
パタパタと屋上を立ち去る軽快な足音を聴きながら、実は手元のスマホを開き、開き慣れたトーク画面を開く。
『今週末、空いてる?』
あとは送信ボタンを押すのみだったそのメッセージは、×マークのボタンに消えていった。
***
「みなこちゃんっ!!」
放課後を告げるチャイムが鳴り響く中、下駄箱の前で探し求めていた後ろ姿に声をかける。
「行くん!!」
「だー、間に合った……」
美奈子の片手にはローファーが握られており、あと少し遅かったら会うことは出来なかっただろう。
ーー本当は、今でも少し怖い。
しかし、今彼女とちゃんと話さなくては、今後彼女と今まで通りの関係を続けられない気がした。
「みなこちゃん、よかったら今日、一緒に帰らない?」
「…うん、私も行くんと話したかったから」
そう言う美奈子の顔は、少しぎこちなかった。
「…で、バイトのことなんだけどね」
他愛もない会話が途切れたタイミングで、核心に触れる。最初から核心には触れない、というのは話術の基本だ。
ぴく、と震える彼女を見て、少しだけ息を整えて。
「「ごめんっっ!!」」
示し合わせたように重なった謝罪の言葉に、お互い目を見開く。
「えっなんで行くんが謝るの!?」
「みなこちゃんこそ!」
少しの沈黙の後、先に口を開いたのは美奈子だった。
「……ほんとはね、すぐに言うつもりだったの。……何も言わないで、ごめんなさい」
少し震えたその言葉に、うん、と応える。
「ちなみにバイトを辞めるのはほんと?」
「…うん」
「……できたら理由、聞かせてほしいな。言いたくなかったら言わなくて大丈夫だから」
できるだけマイルドに。
元々落ち込みこそすれ怒りなど毛頭ないが、彼女が口を開きやすいように声音を調節する。
「………言っても笑わない?」
「うんっ、大丈夫!!」
恐る恐る口を開いた彼女が告げた理由は、予想していないものだった。
「………私、成績下がったの………………」
「…え?」
気まずそうに逸らされた顔はこちらからは見えない。
急かすことはせず、じっと見つめて待っていると、彼女はぽつりぽつりと口を開いた。
「…行くん、いつも学年一位だから………追いつきたくて、私も同じくらいの成績とらなきゃって…おもって。勉強、頑張ってみたんだけど…………」
彼女が勉強を頑張っていたことは知っている。
休日は頻繁に会う約束をしていたが、テスト前だけは彼女は決して遊びに誘わなかった。
実際、最初は心元なかった彼女の順位も、最近では成績上位陣に名を連ねるまでになっている。
そんな頑張り屋な彼女のことを、行はずっと見てきたのだ。
「うん、前回の期末テストも27位だったでしょ?努力の結果、ちゃんと……」
「それじゃだめなのぉ………!」
行は昔から思ったことしか言わない。正直な想いを伝えたつもりだったが、ぼろ、と透明な水滴が零れ出す彼女の目に驚き、慌てた。
「行くんの、隣にいてもおかしくないようになりたい………でも、全然追いつかなくて。だから、バイトする時間も勉強して、追いつこうと思ったの。
……ほんとは私もバイト、続けたかった…………!」
行と一緒にいたい、でもそのために行と一緒にいられる時間であるバイトを犠牲にする。冷静に考えれば矛盾しているようだが、美奈子は気づいていないようだ。
ーーきっと、相当悩んだのだろう。
泣いている女の子を前にしたらハンカチを渡してそっと側にいてあげるものでしょ、なんて妹に怒られそうだが、行は美奈子の言葉を聞き、むしろーー嬉しい気持ちが込み上げた。
「はははっ」
「!行くん、笑わないって、言った、のに……っ!!」
つい声を上げて笑ってしまった行に、美奈子が抗議の声をあげる。
「ごめんごめん。でも、オレと君、同じようなことで悩んでたんだなぁって思ったら、おかしくなっちゃって」
「?」
ふ、と目元を緩ませて美奈子に向き直る。
「オレね、これまでバイトで誰かが辞めるって聞いても、なんとも思わなかったんだ。バイトするしないなんて、個人の自由だしね。
でも……君がバイト辞めるって聞いた時、オレすっごく苦しい気持ちになった。同時に…君に嫌われたんじゃないかって、すっごく怖くなったんだ」