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    yuduru_1957

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    yuduru_1957

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    類司🎈🌟、イベスト予想(笑)という名の私が書きたかっただけのお話。
    まだ完成してませんが、今日中には完成させます!
    ※ 捏造過多、100%私の幻覚と妄想です。何でも許せる人向け。

    #類司
    Ruikasa

    君の旋律を聴かせて いつか、誰かが言っていた。
     誰が言っていたかは忘れてしまったが、それが世界の常識だと言いたげに誰もが口を揃えて言うのだ。
     シャボン玉は割れて壊れるものだ、と。
     美しく咲いた花は、見目悪く萎れて枯れるものだ、と。
     ——星は、いつか燃え尽きて堕ちるものだ、と。
     もちろん、永遠はないと理解している。この世界が限りあるもので創られていると分からないほど、オレは子どもでもなかった。
     ただ、大切な人の笑顔もいつか消えてなくなってしまうのだと、言われているような気がしていたんだ。
     ピアノの練習を頑張れば、母さんが喜んだ。
     ピアノを教えてやれば、咲希が喜んだ。
     ピアノを一緒に弾けば、冬弥が喜んだ。
     オレがピアノを弾けば、みんな笑ってくれた。
     だから、がむしゃらにピアノを弾き続けた。
     夜遅くまで練習して指が痛くなって、ご近所に迷惑がかかるから母さんに止めなさいって叱られてもだ。でも、母さんは笑っていた。時間を忘れちゃうくらいピアノが好きなのね、って頭を撫でてくれた。そして、好きなもので誰かを嫌な気持ちにさせちゃダメって教えてくれたのも母さんだった。
     母さんの手の平はとても温かくて、優しくて、心地良かった。何より、柔らかく微笑む、その表情が何より大好きだった。
     
     ——でも、いつからかオレがピアノを弾くとみんなから笑顔が消えた。
     
     練習していた譜面の一部に、とても難しい技法があって中々弾けるようになれず、母さんに見てもらうことにした。ソファに座ってため息を吐いている母さんに笑って欲しくて、ピアノの練習を見て欲しいと頼んだ。いつだって母さんはオレがピアノを弾くと笑ってくれたから。
     でも、今は疲れているからごめんね、と無理に微笑んだ母さんの表情を二度と見たくなくて、練習を見てもらうのを止めた。あの一度だけではない。それ以降、オレが母さんにピアノの練習を見てもらうことはなかった。一人でも練習はできる、弾けない箇所を弾けるようになったら、聞いてもらおう。でも、一向にあの譜面が弾けるようになることはなく、楽譜を机の引き出しにしまい込んだ。
     ちょうど咲希が入院する前で、その準備とか手続きで母さんは忙しかったんだと思う。ピアノ教室の開講日が少しずつ減っていたことに当時のオレは気付かなかったんだ。
     
     そして、元々、体調を崩しがちだった咲希が、入院することになってピアノを弾けなくなった時だった。元気になればまた弾けるようになる、と励ましたら——、
    「お兄ちゃんはアタシと違って元気だからそんなことが言えるんだよ!」
     と、泣きながら咲希が叫んだ——あの時の表情が忘れられない。眉を吊り上げてオレを真っ直ぐ睨み付けていた顔じゃない。どうして自分が入院しなきゃならないんだ、病気になんてなりたくてなった訳じゃない。そう思うのは当然でオレに八つ当たりして気が楽になるならオレは何を言われても構わなかった。
     とんでもないことを言ってしまったと気付いた咲希が、くしゃくしゃの泣き顔を作って何度も「お兄ちゃん、ごめんなさい」って謝り続けていたことが辛かった。留めどなく流れ続ける涙を止める方法が分からなくて、オレは何とも思っていない。辛いのは咲希なんだから、気にするな。と咲希の分まで笑うことしかできなかった。
     オレが笑えば咲希も笑ってくれると思っていた。でも、あの日、咲希が笑うことはなかった。
     
     冬弥といつものようにピアノの連弾をしていた時だった。普段だったら絶対にミスしないところで冬弥が珍しくミスをした。確信はなかったが、何かあったのかと聞いてみた。すると、冬弥は逡巡するように視線を彷徨わせ、上目がちにオレを見上げた後、小さく口を開いた。
     ずっと言おうか迷っていたのですが……。
     そんな前置きの言葉に続いたのは、本当はクラシックをやりたくないということ。
     ピアノをもう弾きたくないということ。
     そのことで父親と何度も喧嘩をしていること。
     頭を思い切り硬いもので殴られたような衝撃が走る。数秒間、放心していたのか心配そうにオレの顔を覗き込む冬弥が泣きそうな顔をしていたから、慌てて笑顔を作った。
     お前の人生なんだから、お前のやりたいことをすればいい。
     少しでも、冬弥の心が楽になれば良いと思って、気付けばそんな言葉を言っていた。殆ど無意識だったと思う。でも、その言葉を聞いた冬弥が晴れやかな顔をしていたから、きっと間違いじゃなかったのだろう。
     ただ——冬弥はずっと我慢してくれていたんだ。オレに合わせて、自分もピアノが好きなフリをしてくれていた。冬弥は優しくて良いヤツだ。だから、無理に笑ってオレに心配をかけないようにしていたのだ。オレが聞かなければ、きっと冬弥は黙ったまま作り笑いを浮かべ続けていたに違いない。なぜなら、クラシックをやりたくない、と話した冬弥と一度と目が合うことがなかったのだから。
     
     その三つの出来事が、オレがピアノを止めることになったきっかけと言っても過言じゃない。それほど悲観的にならなかったのは、幼い頃家族で観に行ったショーのスターを思い出したからだ。そうだ、誰かを、大切な人を笑顔にするなら、何もピアノに固執しなくて良い。あの、ステージでひと際輝いていたあのショースターのようになれたら——ピアノはあれ以来止めてしまったが、代わりにオレは新しい夢を一つ手に入れることができた。
     そして、好きなもので誰かを傷付けてはいけない。母さんの言葉を思い出させてくれた大事な仲間も。だから、オレは二度とピアノが弾けなくても構わなかった、筈だったんだ——。
     **
     満開に咲き誇る桜の花びらが、風に舞って散り始める頃——オレは神山高校の三年生になった。朝と夕方の風は未だ冷たいが、日中、特に陽だまりの中は暖かく、随分過ごし易い日が多くなった。爽やかな、そして、青空をの端を淡く薄紅色に染める桜を見上げながら、同じく三年生に進級した神代類を待っていた。
     今日は始業式なので、午後の授業もない。類が「ショーに使う機材の材料を買いに行くから一緒に行かないかい」と誘ってくれた。特に予定もなかったので二つ返事で了承し、放課後待ち合わせることになったのだ。
     桜の木に凭れて類を待つ。偶々、日直に当たってしまったという類が「誘っておいて待たせてごめんね」と申し訳なさそうに眉を下げていたが、日直の仕事を終えるまで桜をゆっくり眺められるから気にするなと言うと、ほっと息を吐いていた。
     放課後、せっかくだから遊びに行こう。
     そんな会話をしながら、目の前をたくさんの生徒が下校していく。やれカラオケだ、買い物だ、と笑顔で去っていく生徒と桜を眺めていると、つい顔が綻んでしまう。
     オレは誰かの笑顔を見るのが好きだ。そして、誰かを笑顔にするのはもっと好きだ。いつか、大切な人を始めとした、世界中の人を笑顔にする、そんなショーをしたい。同じ志と夢を持った仲間とこの一年間、たくさんショーをした。今年はオレや類は受験の年だから、去年ほどワンダーランズ×ショウタイムの活動に専念はできないかもしれないが、それでもまた仲間とたくさんショーができると思うと高鳴る胸を抑えられない。
    「お待たせ、司くん」
    「日直の仕事お疲れ、類」
     本当は類が傍にいることに気づいていたが、何となく気づかないフリをした。類に名前を呼んでもらうのを、待っていたのかもしれない。偶に、オレの意識は自分でも気付かない内に類に構ってもらいたがる。
    「早速行こうか。先に昼ごはんを食べるかい?」
     目的地は聞いていなかったが、言われなくても分かる。ショーの演出に使う材料を買うなら、ショッピングモール一択、そのくらい何度も類と通った事実に胸が弾む。
    「ああ、そうしよう。それにしても今年も校長の話は長かったな……」
    「ふふっ、本当に長いねぇ。どうせ毎年同じようなことしか言わないのだから、校内放送か書面にしてしまえば良いのに。
     それに、あんな抑揚のない語りをされてしまったら、どうぞ寝て下さいと言っているようなものだよ。有り体に言うとつまらない」
     肩を竦めて、やれやれと類はため息を吐いた。酷い言い様だが、類がそう言いたくなる気持ちも分からなくはなかった。
     神山高校、学校長の話はいつも長い。だが、新学期の時は更に気合いが入っているのか、倍ほどの長さになるのだ。おまけに単調にボソボソと話すので居眠りする生徒が後を立たない。もちろん、オレは毎年ちゃんと最後まで起きて聞いているが。
    「校内放送……それはそれで地獄だな」
     類が妖しい笑みを浮かべた。どうせまた碌でもないことを考えているに違いない。
    「そんなもの放送室を乗っ取って、教室のスピーカーの電源を切ってしまえば良いんだよ。
     自分の話を少しも聞いている生徒はいないのに、ただベラベラひとりで話し続ける様はさぞ哀れだろうねぇ」
     演出家かつ語り手として優れた腕を持つ類は、校長の話し方が許せないのだろう。いつもより饒舌に紡がれる言葉には棘が含まれていた。
    「ハハハッ、類! どうせ乗っ取るならオレ達でもっと楽しい朗読劇でもしてやろうじゃないか」
     類の悪巧みに乗る、オレの返答が意外だったのか、類はしばしの間目を瞠る。そして、ニヤリと目を細めて笑った。
    「それは実に面白そうだねぇ。夏休み前にやってみるかい?」
    「ああ、校舎内を笑い声でいっぱいにしてやろう」
     どちらからともなく差し出された拳をコツン、とぶつけ合う。そう言えば、去年の今頃はまだ類のことを知らなかったと、ふと出会った頃を思い出した。
    「あ! すっかり言い忘れていたぞ!」
     だが、思い出に耽るのは後だ。
    「と、突然どうしたんだい?」
     片耳を抑えた類に手の平を差し出す。訝しげに類が首を傾げた。
    「高校を卒業するまでの一年、昨年度よりももっとたくさんの人を笑顔にするぞ! よろしく頼む、類!」
    「…………!」
     刹那の沈黙の後——ぱあっと花が咲いたように笑顔になって、きらきらと瞳に星が瞬く。オレは類の喜ぶ表情を見るのが好きだ。幼い子どものように、瞳を輝かせて猫のような目を丸くして、本当に嬉しそうな笑顔を作る。
    「もちろん。僕の方こそよろしく、司くん」
     重なった類の手の平を硬く握る。この一年間に強くなった絆の強さが繋いだ手の力の強さだったら良い、そう願った。類も同じ気持ちだったのだろうか、そうだと良い。同じ強さで握り返されて、胸の中に春風が吹き抜けたように温かくなったんだ。
     **
     他愛のない会話をしながらショッピングモールに向かい、道中相談したフードコートにあるバーガーショップで昼食を食べることにした。相変わらず類は野菜抜きだ。バンズと肉だけのバーガーに物足りなさを感じないのか甚だ疑問だが、取り敢えず形だけ注意だけして好きなようにさせている。
    「さて、この後なんだけど」
     ぐしゃりと類が包み紙を握り潰す。たまにガサツな一面を見せるのも、最近になって知ったことだった。
    「ああ、オレは適当に回っているから終わったら連絡してくれ。どうせ荷物、多くなるんだろ」
    「いつもごめんね」
     類の買い物に付き合うのは嫌いじゃない。寧ろ、何が飛び出すか分からないびっくり箱のような類との買い物はとても楽しいものだ。
     だが、一度、一緒に店を回った時、テンションの上がった類がひとつひとつの材料をどうやって演出に使うか説明を始め、オレも一緒にテンションが上がってしまい、閉店時間ギリギリまで居座ることになってしまったのだ。
     それからは、オレは類の荷物持ちに徹すると決めていた。本当は一緒に店を回りたいし、一日の予定が類の買い物で終わるのも悪くないのだが。
    「じゃあ、また連絡するよ」
    「ああ、またな」
     店の中に消えていく類を見送って、新しく刊行されたショーに関する雑誌を購入するため本屋に向かう。
    「本屋は確か二階だったな。……ん?」
     微かに耳に届いた。たどたどしい指遣い、右手の簡単な主旋律すらまともに奏でられていない。恐らく指が届いておらず、不協和音になってしまっているんだ。確か、このショッピングモールには、ストリートピアノがあったはず。
    「確かこっちに……。ああ、あの子どもか」
     ちょうど小学生くらいの歳だろうか。上手く弾けずに俯いてしまっている。その丸まった小さな背中に既視感を覚えて、無意識の内に声をかけていた。
    「どうした、諦めるのはまだ早いんじゃないか?」
     噛み締めた唇をわなわなと震わせて、少年はピアノの前で必死に涙を堪えていた。大きな瞳に涙を溜め、への字に折れた眉が痛々しい。話したくても口を開けば我慢している嗚咽が漏れる。幼くても男のプライドをもちあわせているのだろう。だから、何も言い返せないのだ。
    「お前はまだ成長途中だ。このまま練習を続ければいずれ、ここからここまで……いやそれ以上に届くようになるぞ」
    「…………ほん、とう?」
     一オクターブ分の鍵盤を差すと、信じられないと瞬きした少年の瞳から涙が零れ落ちた。幅広のピアノ椅子、少年の隣に腰かけて強く頷く。
    「ああ、もちろんだ。諦めなければ必ずできるようになる」
    「うん! ありがとう、おにいちゃん」
     涙を溜めながらも笑顔になった少年。確か、昔咲希にも同じようなことを言ったことがあった。

    「お兄ちゃん、どうしてもここが上手く弾けなくて……」
    「見せてみろ。……ああ、ここはこうすると……ほら、やってみろ、咲希」
    「うんっ! ————————できた! できたよ、お兄ちゃん! ありがとう!」
     
     懐かしい、久しく忘れていた記憶だった。
     違う、忘れていたんじゃない。思い出したくなかったんだ。
     真っ直ぐ、ただ純粋にピアノだけに向き合える少年がが羨ましい。
    (いや、オレはショーに真っ直ぐ向き合えている。大事な仲間がそれを教えてくれたんだ)
     何も羨むことはない。オレはちゃんと夢を叶えられている。
    「なあ、指が届かなくても、弾ける方法があるぞ」
    「え、なあに? おしえて、おにいちゃん!」
     きらきらと輝く少年の瞳が、類の瞳と重なって見えた。その目で見られるのは、心地良くて温かい。例えるなら春の陽だまり。類を待っている間に、見上げた青空を染めた薄紅色の桜。冷たい青が温かな色と混ざって優しい色に変わっていく。そんな温かさ。
     だから、きっと魔が差してしまったんだ。
    「オレと一緒に弾くんだ! お前が弾けない音は、オレがカバーしよう」
    「おにいちゃんといっしょに? やる! やりたい! なにひくの?」
    「そうだな……『きらきらぼし』はどうだ? スターと……いや、なんでもない。それで良いか?」
     二度とピアノは弾かないつもりだったが、少年の笑顔を見ていると、また弾きたくなった。
     おまけに、つい、いつもの癖で自分はスターだと言いかけたが、ピアノでは誰かを笑顔にすることはできない。ピアノに関して、オレはスターを名乗る資格はない。
    「スターってなあに?」
     連弾の選曲より、言いかけた〝スター〟という言葉が気になったのか、興味津々と大きく書いた顔をずいっと近づけてきた。
    (なんだか、この子どもは類に似ているな)
     つい、この少年を構ってしまうのはその所為かもしれない。
    「スターとは夜空に浮かぶ星のことだ。そして、誰かを——笑顔にすることができる人間のことをスターと言うんだ」
     この少年の瞳は際限なく輝く。
    「じゃあ、おにいちゃんは〝すたあ〟だね。ぼくのこと、笑顔にしてくれたよ!
     …………おにいちゃん?」
     オレのことを疑わずにスターと呼んだ少年の視線から何とかして逃げたかった。
     真っ直ぐにオレを見つめる瞳に吸い込まれそうで怖かった。
     オレの過去を見透かされそうで怖かった。
     ああ、でもこの少年はオレがスターだと信じてくれている。ならば、スターが弱気になっているところなど見せてはいけない。
    「何でもないぞ。さあ、やるか!」
     滲みかけた涙を目尻を擦って誤魔化し、片眼を瞑って見せる。
    「うん!」
     少年と弾くピアノが楽しくて、震えるスマホに気付かなかった。これでは、類のことをとやかく言えない。言い訳にしかならないが、周りが見えなくなるほど何かに熱中するなど、ショー以外では久しぶりだったんだ。
     **
    「——————」
     つい、浮かれて以前ショーで歌った曲を鼻唄に乗せていた。
     今年も君とショーができる。
     繋いだ手が、まだ温かくて心地良い。
     さあ、今日買った材料で次はどんな演出をつけようか。
    「ああ、今日も買いすぎてしまったかな」
     たくさんのビニール袋を目の前に、頬を掻く。悪い癖がまた出てしまったが、止められないものは仕方ない。
     新しい演出を考えていると楽しくて楽しくて、何でも試したくなってしまう。司くんが僕のやりたい演出をやれば良い、オレなら僕の演出に応えてみせる。そう言ってくれたのはもう半年も前のことだ。
     その言葉を信じて僕は演出をつけ、君は僕の期待以上の演技で返してくれた。本当に楽しくて幸せな時間をたくさんもらった。これからも、その幸せな時間を約束してくれた。これがどうして浮かれずにいられるだろうか。
     
     prrrrr——
     
    「……おや、司くんが珍しいな」
     買い物が終わったので何度か司くんのスマホに電話をかけてみるが、全く応答がなく折り返しの電話もない。まめな彼はメッセージの返信も早いし、ワンコールで電話に出てくれる。止むを得ず出られない時も、すぐに謝罪のメッセージが飛んでくる。
    「……何かあったのかな」
     店員に頼んで荷物を店で預かっていてもらい、司くんを探すことにした。電話をかけながら、モールの中を必死に走る。
     誘拐——こんな人の多い所であり得ないが、可能性がゼロとは言えない。もしかしたら、体調が悪くてどこかで倒れているのかもしれない。広いモール内を必死で探しても、一向に司くんは見つからなかった。
    「はっ……はあっ……。……ピアノの、音?」
     司くんを探さなければならないのに、吸い寄せられるように足がピアノの音の方に向かっていた。
     この曲は確か『きらきらぼし』だ。
     聞いたことがあるものより音が多い、連弾しているのだろうか。
     誰が弾いているのだろう。この、聴いているだけで胸が高鳴る音色は。ずっと聴いて痛くなる。ああ、確かこれは君と初めて出会った時、君が言ってくれた——
     
     ——オレとするショーは楽しいぞ!
     
     あの言葉によく似ている。
    「司、くん……?」
     探している、彼がそこにいた。
     小学生くらいの男の子と、まさにスターたる彼に相応わしいピアノ曲『きらきらぼし』を楽しそうに弾いている。
     男の子が弾いているメロディーに合わせて、司くんの奏でる音色が深みと色をつけていた。決して先導するのではない、男の子の奏でる音を引き立てるような伴奏。
     ピアノに関して僕は素人だけど、素人だからこそ細かい技術のことを気にせずに感動できる。彼らの演奏に込めた想いを真っ直ぐに受け止めることができる。ショッピングモール内の僕と同じように感動した客が足を止めて、二人の演奏に聴き入っていた。決して少なくない人だかりができている。
    「…………楽し、そうだね。司くん」
     今も呼び出しのコールは続いている。いつも彼はスマホを制服のポケットに入れて、着信にすぐ気付けるようにしていた。だが、気付いてくれる気配はない。僕と共に買い物に来ていたことなんて、君は忘れてしまっているのかもしれない。
     ——先に、帰ってしまおうか。
    「すごく良かったよ! 良いものを聴かせてくれてありがとう!」
     割れんばかりの拍手の音で我に返る。付き合わせておきながら、黙って帰るなどあってはならない。頭を振って最低な考えを振り払うが、胸の辺りがつっかえる感覚は中々消えてはくれない。
     人集りができていたことにも気付いていなかったのか、司くんと隣にいる男の子が驚いたように勢いよく振り返った呼吸が興奮から荒い。紅潮した頬ときらめく四つの瞳が、本当に綺麗だった。
    「オレ達の方こそ、聴いて下さってありがとうございます」
     立ち上がり、ピアノの前で恭しく礼をする君なんて見たことがなかった。君と密度の濃い一年を過ごしていたつもりだった。君を最も理解できているのは自分だと勘違いしていたのかもしれない。初めて見る君の姿は言葉を失うほど素敵で、同時に胸にぽっかりと空いた穴に冷たい風が吹き抜けて温かい何かを奪っていった。
    「君は、僕たちと一緒じゃなくても輝けるのかい……?」
     ——僕はもう、君がいないショーは考えられないのに。
    「あっ……おーい、類!」
     ああ、どうして君は僕を真っ先に見つけるのだろう。笑顔で手を振る君に何とか小さく手を振り返す。上手く笑えているだろうか、持て余す喪失感をどう扱えば良いか分からなかった。
     男の子の手を引いて司くんがこちらにやってくる。これ以上近くで君に見られたら——僕はどうなってしまうのだろう。
    「おにいちゃんのおともだち?」
    「ああ、オレと同じスターの仲間だ!」
    「すごーい! じゃあ、このおにいちゃんもだれかを笑顔にするのがだいすきなんだね!」
     力強く頷いてから、司くんは満面の笑顔を作った。
    「ああ、そうだぞ! オレ達は皆に笑顔を届けるワンダーランズ×ショウタイムだからな」
     悩んでいるのが馬鹿みたいな底抜けに明るい笑顔——のはずだった。男の子との微笑ましい光景の中、虫の知らせと言うべきか、正体不明の胸騒ぎが止まらない。
    「ふふっ、どうもスターの仲間だよ。素敵な演奏を聴かせてくれてありがとうね。
     ……それより、司くん。僕の着信に気付かないなんて酷いじゃないか。何度も電話をしたのに……」
     よよよ、と泣き真似をしてみせるとぎょっと目を剥いた司くんが慌ててスマホを確認する。着信履歴に残った僕からの着信を数えるに連れて、司くんの顔色は徐々に青褪めていった。
    「す、すまない、類! つい、熱中してしまって……お詫びにこの後何でも奢ろう!」
     顔の前で手を合わせて必死に謝る司くんが何だか可愛くて、少し意地悪をしたくなってしまう。
    「何度も何度も電話をかけたのに気付いてもらえなくて本当に寂しかったよ……。あまりにも反応がないから、どこかで倒れているんじゃないかって気が気じゃなくてあちこち探し回って……」
     演技と本心の境目を見せないように、注意しなければ。
    「類……心配してくれていたのか! しかも探し回るほど……本当にすまない!」
    「良いんだよ、君が無事なら……。でも、この傷は新しい演出に付き合ってもらわないと……癒えそうにないよ……」
     仲間想いの司くんのことだ。本当は、こんな演技をしなくても彼は僕の演出に付き合ってくれるだろう。でも、臆病な僕はいつもこうやって逃げ道を防ぐようなお願いの仕方しかできない。
    「もちろんだ、何でも付き合うぞ! やりたい演出を全て言ってみろ、類!」
    「それなら早速、打ち合わせに行こうか!」
     ほら、嘘泣きと分かっていても司くんは誰かの涙に弱い。また騙されたのか、と喚いていても、後ろ手に男の子に手を振ってから、司くんの手を引く僕に黙って着いてきてくれた。
     みっともない、あんな小さな子どもに嫉妬するなんて。繋いだ手に無意識に力を込めてしまう。親指で僕の手の甲を撫でた後、繋いだ手に力を込めた司くんが「大丈夫だ」と言っている気がしたけれど、きっとこれは僕の都合の良い妄想でしかないのだ。
     **
     類に連れられた近くのカフェに入る。新しいショーの演出の打ち合わせのために、だ——もちろん、類の荷物はちゃんと回収してある。
    「前にピアノが弾けるって言っていたけど、あんなに上手だったんだねぇ。二人の演奏に感動したよ」
    「聴いていたのか、類。……ありがとう。久しぶりに弾いたが……まぁ、それなりに弾けるものだな」
     類の頼んだアイスコーヒーとオレの頼んだオレンジジュースが運ばれてきた。手元にグラスを引き寄せた類がストローでコーヒーをかき混ぜ、グラスにぶつかった氷がカランと鳴く。涼を感じるにはいささか早い、軽やかな音色が耳に心地良く響いた。
    「身体が覚えているのだろうね。かなり長く弾いていたんじゃないのかい?」
     シロップもミルクも入れないまま、ストローに類が口を付けた。赤いストローにコーヒーが通って微かに黒く透けている。手元のオレンジジュースをちらりと見遣って、新学期の目標はコーヒーを飲めるようになることに決めた。確か後輩の冬弥もブラックコーヒーを飲んでいたはずだ。
    「そうだな、中学の時に止めてしまったが……それなりに練習はしていたんだ」
    「…………差し支えなければ、止めた理由を聞いても?」
     曖昧な言い方をすれば、類が理由を問うのは目に見えていたが、はじめは何を聞かれているのか分からなかった。類の動作に注視することで、現実逃避のようなことをしていたのかもしれない。
     オレのピアノに関する過去に、ただならぬ気配を感じているのか類は重たそうに口を開いた。深刻そうな表情は、類なりの配慮だったのだろう。軽々しく聞いて良いことではない、と類は判断してくれたのだ。
    「そうだな……別に大した理由じゃないんだ。ただ、ピアノでは誰かを笑顔にできない。だったら、もう止めてしまおう、そう思っただけだ」
     ピアノを止めるきっかけになったあの出来事達を類に話す。思っているよりすらすらと言葉は口から流れ落ちていった。
     母さんのこと。咲希のこと。冬弥のこと——代わりにスターになると強く誓ったこと。
     何も後悔はしていないし、この選択の果てに類達に出会えたのだ。
    「——と、いうわけだ。つまらない話を聞かせて悪かったな」
     長々と話してしまったが、類はずっと真剣に聴いてくれていたようだった。口を挟むどころか相槌一つ打たない。飲み物を飲むことすらしなかった。類の手元のアイスコーヒーは最初のひと口から一滴も減らず、寧ろ氷が溶けて薄くなったコーヒーでかさが増している。
    「司くん、次にやりたい演出が決まったよ」
     真面目に聞いてるかと思いきや、やっぱりオレの話はつまらなかったのだろう。類の興味は既に移り変わっていたみたいで、オレの話には全く触れずに類は本来の目的であったショーの打ち合わせを切り出した。
    「どんな演出にするつもりだ」
     だが、未だ変わらずオレを射抜く真剣な瞳が気になる。何となくその視線が気まずくてそっと目を逸らした。
    「音楽劇をやりたいんだ。君はステージの真ん中でただピアノを弾いてくれれば良い」
     絶句するオレを他所に類は話を続けた。何の悪い冗談かと類を見遣るが、相変わらず類の表情は真剣そのものだった。
    「僕から君に与える台詞はひとつもない。そして音楽劇の内容は、本番まで君に教えない。リハーサルも君抜きで行うよ」
     あまりの扱いに怒りを通り越して呆れが勝って何も言えなかった。類は無言を肯定だと勘違いしているのか。
    「待て! それではオレはただのミュージックボックスではないか!」
    「そうじゃない、僕が君をそんな風に扱う訳ないだろう? ただピアノを弾くだけなら君じゃなくて良いからね。
     台本通りに演じる役者に合わせて、君だけはピアノを弾きながら即興劇をするんだ」
     静かに凪いだままの類の瞳が、冗談でも揶揄っているわけでもないと物語っていた。
    「ただ、僕はピアノの楽曲に明るくなくてね。とある男の生涯をストーリーにしようと思うんだけど、何か良い曲はあるかい?」
     難しいどころか、砂漠から金を探せと言われているような質問だった。きっと類はどんな男の人生か聞いても教えてはくれないだろう。
    「そうだな……その男の人生を感情で表現するなら、なんだ? これくらい教えてくれなければ当たりをつけることもできん」
     見当違いの曲を勧めてもショーを破綻させるだけだ。
    「そうだね……悲哀と愛情。ざっくり言うとこの二つかな」
     悲しい物語りなのだろうか。だが、それではワンダーランズ×ショウタイムのコンセプトに合わない。だったら最後はハッピーエンドになるはず。
    「あ……」
    「何か思い付いたかい?」
     きっと他にも適した曲はあっただっろう。
     だが、頭の中に浮かんだのはとある一曲だけだった。
     寄ったシワ、書き込まれた鉛筆の跡、確か日焼けした紙面の端が白から淡いベージュに変わっていたはず。
     ついさっきまで、その楽譜を触っていたかのように、細かいところまで鮮明に思い出せる。
    「ああ……この曲だ」
     スマホでタイトルを検索すると、動画サイトのページが一番上に表示された。類が見やすいように画面を向けると、数せ秒間じっと見つめた後、目蓋を伏せた。
    「ありがとう。早速、聞かせてもらうよ」
     自分のスマホを操作した類は、程なくして同じ動画サイトを見つけたようだ。ワイヤレスイヤホンを耳につけて、再生ボタンを押した。
     クラシックのピアノ曲はそれなりに長い。全ての楽章を聴くと数十分にも及ぶ場合もある。
     類が曲を聴いている間、手持ち無沙汰になったオレはただ黙ってオレンジジュースを飲むしかなかった。ひと口も飲んでいなかったのに、すっかり氷が溶けて水っぽく、正直あまり美味しくない。だが、残すわけにはいかなかったし、ちびちび飲んでいれば類も曲を聴き終えるだろう。
     トラウマ、というほどではないが、積極的に思い出したくなかった記憶なのは事実だ。だが、心のどこかで期待していたのかもしれない。
     ピアノを止めた理由を聞いた類が、何の考えもなしにステージでピアノを弾けと言うはずがないと。
     
     どうしても最後まで弾けなかったあの曲。
     母さんに作り笑いをさせてしまったあの曲。
     苦い思い出ばかり詰め込んでしまったあの曲。
     
     どうして自分からこの曲を勧めたのかは分からない。だが、どうしてもこのタイミングでピアノを弾いて、類に過去を話したことが偶然とは思えなかった。それにピアノを主軸とした音楽劇に興味もある。オレだけ即興劇をしろ、など無茶にも程があるが、自分の実力を試してみたいと思った。不安はあったが、オレはどこまでやれるんだろう、と心のどこかでわくわくしていたのだ。
    「————うん、これにしよう。僕の考えていた構想ともぴったりの曲だ」
     さすがだね、なんて褒め言葉ひとつで不安は消え、やってやろうじゃないか。という気になっている自分は実に現金だが、スターたる者、このくらいやってのけて当然なのだろう。
    「ああ、分かった」
    「じゃあ、そろそろ帰ろうか。君は明日から練習も別になる。ピアノを練習できる環境はあるかい?」
    「ああ、大丈夫だ。……母さんには、驚かれてしまうかもしれないがな」
     皮肉を挟むと類は小さく苦笑した。今度は類が気まずそうにオレから視線を逸らす。
     類の荷物を半分持ってカフェを後にする。結局、アイスコーヒーとオレンジジュースの代金は類が払ってくれた。今回の演出の提案はあまり気分の良いものではなかっただろうから。と、謝罪の意味も込めてらしい。
    「提案しておいてだけど……」
     類の家までの帰り道、オレンジ色に染まる街路に真っ黒い二人分の影が伸びている。
    「どうして今回の演出を受け入れてくれたんだい? 君のことだから……正直、断られると思っていたよ」
    「なんだ、ダメ元だったのか?」
    「そういうわけじゃないんだけどね」
     このとんでもない演出を受け入れた明確な理由を必死に探す。何となく類を信じているから、と言うのが大きな理由だったが、本人に伝えるのは少し照れ臭かった。
    「そうだな……。ああ、そうだ、あの子どもだ」
    「連弾していた?」
     そうだ、類の演出をオレが断るわけがない。だが、またピアノを弾いても良いと思えたのは——他ならぬあの少年のおかげだろう。
    「ああ、そうだ。あの子が、オレのピアノで笑ってくれたから……」
     好きな物で誰かに嫌な思いをさせたり困らせたりしてはいけない、だが、オレにとってピアノは誰かに嫌な思いをさせ、困らせるものになっていた。だが、あの子は大切な人から笑顔を奪ったピアノで笑ってくれた。そして、何よりオレを笑顔にしてくれた。
    「あの子がスターだと言ってくれたんだ。ならば、期待に応えねばならんだろう?」
     あの子がワンダーランズ×ショウタイムのショーを見に来てくれる、そんな偶然が起こるかもしれない。だから、いつも以上に全力で演じてみせようと決意した。
     類が一瞬だけ目を見開く。
    「…………司くん、絶対に悪いようにはしない。だから、僕を信じて」
    「ああ、期待しているぞ!」
     類はついぞ、カフェでオレの話を聞いた時から一度も笑顔になることはなかった。
     **
    「司くん……」
     君はきっと気付いていないだろう。
    「ピアノの話をしている時から、君は一度も笑顔を見せていなかったよ……」
     何でもないことのように話していた。
     事実、口調は軽く。つっかえることもなく。君は淡々と話してみせた。
     でも僕には分かる、あの過去は君を未だ縛り付けていると。感情を乗せずに話していたのは態と——何でもないように演じているからだろう。
     僕が過去を引き摺っていたように、君の過去に囚われている。僕を救ってくれた君を、このまま放ってなどいられなかった。
    「まずは、明日寧々やえむくんにショーの構想を話して……それから、えむくんのお兄さんにも色々とお願いしなくてはね」
     荷物を置いたら早速準備に取りかかろう。
     
     ——君の旋律を聞かせて。
     
     僕から台詞は与えない。だからどうか君の心からの想いを、ステージでカタチにして欲しい。
     **
     翌日——、ワンダーステージにて。
     司くんを除いたワンダーランズ×ショウタイムのメンバーとゲストが二人。
    「ごめんね、わざわざ集まってくれて。
     寧々やえむくんも、こんな無理を聞いてくれてありがとう」
    「最初に聞いた時は驚いたよ。まさか司と一度も一緒に練習しないなんて」
    「そうそう〜! しかも、セリフがひとつもないんだよねぇ……」
    「………………」
    「………………」
     皆、思い思いを口にする。当然だ、ワンダーランズ×ショウタイム初の試み。失敗するかもしれない、けれどみんな僕を信じて集まってくれた。
    「ねえ、類。どうしてこんなことをしようと思ったの? ……この二人も呼んで」
     ちらりと寧々がゲストの二人を見た。理由はまだ話していなかったから訝しく思うのも仕方ないだろう。
    「実は、昨日司くんからこんな話を聞いたんだ——」
     
     彼の感情の一切を省いて四人に話す。
     彼の想いは僕が口にすることではない。
     それでも寧々やえむくんは僕のしたいことを理解してくれた。
     他の二人は僕の話を聞いて、驚愕していたが僕の提案に乗ってくれた。
     
    「ごめんね、このショーは僕のエゴだ。付き合わせて本当に申し訳ないと思っている。
     でも、絶対に手は抜かない。必ず、お客さんを笑顔に——ショーを成功させてみせるよ」
    「類だけじゃないよ、そう思ってるの」
    「そうだよ、類くん! み〜んなでいっしょにがんばろ!」
    「………………!」
    「………………!」
     ああ、本当に君はたくさんの人に愛されている。
    「それじゃあ、えむくん。あれを」
    「うん、じゃあみんなで——わんだほ〜い!」
     
     わんだほ〜い‼︎
     
     高らかな声がワンダーステージに響く。
     自分が元凶だが、重なる声に司くんの声が存在しない——その事実に胸に空いた穴が拡がった気がした。
     **
    「よし……」
     家のピアノの前に座るのは久しぶりだが、座り慣れた椅子はしっくりくる。座り心地はともかく、だが。これは椅子の材質の問題ではなく、オレの気持ちの問題だろう。
     少年と弾いた『きらきらぼし』は、簡単なものだったから何とか弾けたが、この曲はそうはいかない。それどころか、元々最後まで弾けるわけではなかったのだ。
     以前より指が動かなくなっているのは当然のこと、重要なのはどこまで本番まで取り戻せるかだ。
     モノトーンの規則正しく並んだ鍵盤に指先を乗せる。序盤はゆったりとした曲調だが、中盤からグリッサンドが何度も出現する。昔もこの辺りが苦手だった。
    「痛っ……想定内だったが、これほどまでとは」
     途中、黒鍵に引っかけて、ビキリと指が痛む。余計な力が入って筋が痙攣していた。片手で何度も摩りながら痛みが引くのを待つが、時間が経つに連れ一度消えた不安が大きくなっていく。
     本当に弾けるのだろうか。
     類や仲間がいないのに、オレはどこまでやれるんだろう。
     隣に類がいない——そう自覚した途端に背筋が凍る。背骨に流し込んだ恐怖がじわじわと広がって指先まで到達する。
     母さん、咲希、冬弥、笑顔のない三人の表情が順番に何度も浮かんでは弾けて消えた。
    「い、いや……弱音を吐いている場合じゃない。弾かねば……」
     ポタリ——と指から汗が流れた。白い鍵盤に雫が跳ねて水玉模様を描く。
     動かない、動かない——動いてくれ、動け!
     脳が何度命令しても、石になったように指は動かなかった。
    「そ、そうだ。久しぶりでいきなりピアノの前に座るのが無謀なのだ。音取り、を……してからでも遅くはない……」
     まだ一日目だ、明日からちゃんと練習すれば間に合う。何度も言い聞かせてピアノの前から離れた。楽譜を読み込んで、頭の中でイメージする。ここはダイナミックに、ここは優しく……強弱、音色、どうすればイメージした音が鳴らせるのか——。
     頭の中で旋律が鳴り響くが、それが現実の音となることはない。
     ——一週間経っても、オレは一度も鍵盤を触れることができなかった。
     **
     あれから一週間——、家のピアノだと嫌でも過去を思い出してしまうからと、昼休みや放課後に音楽室のピアノを借りて練習してみたが、やはりオレの指が膝の上から移動することはなかった。
    「ふぅ……ずっと、自惚れていたのかもしれないな」
     自分はスターなのだから、何だってできると。仲間とショーをして、誰かを笑顔にするためなら、どんな困難も乗り越えられると。事実、オレ達はどんなショーもやり切ってみせた。その結果、たくさんの人が笑ってくれたんだ。
     離れていても、共にショーをするのだから大丈夫だと思っていた。だが、現実はこうだ。
     隣に類達がいなければ——オレはピアノの音ひとつ鳴らせない。
    「……諦めたく、ないな」
     だが、どうして良いか分からない。がむしゃらに練習をしていたあの頃は、どうやってピアノの前に座っていたのだろう。
     暗い思考が渦を巻いていく。視界が狭まっていく。黒と白のモノトーンが螺旋を描いて吐き気すらしてきた。
    「……司くん、久しぶりだね」
     引き戸を開く音に気付けなかった。ただ、鼓膜を揺らす、この声を聞き逃すはずがない。
    「っ……類……」
     唇が類の名前を勝手に呼んでいた。声帯が類の名前を音にするのも久しぶりだった。
     近くに類がいる。その事実が嬉しくて、安心して涙が出そうだった。だが、同時に振り返るのが怖かった。
     きっと今頃、皆着々とショーの準備を進めているに違いない。だが、オレは一週間前、類と別れてから一歩も前に進めていなかった。
    「練習の成果は……あまり芳しくなさそうだね。この一週間、何度か音楽室に足を運んでいたのだけど……」
     情けない姿を見られていた。ピアノの前で背中を丸めて、恐怖に震える姿を、類は知っていたのだ。
    「笑いに……来たのか……」
     そうじゃない、類がそんなことをするはずがない。
     だが、一度堰を切った感情は、抑えられなかった。
    「一人じゃ何もできないオレを、笑いに来たのか!
     そうだ、オレはお前が……お前達が居なければ何もできない、スターだと自惚れていたただの子どもだ……」
     認めたくなかった。
     オレは何でもできるのだと信じたかった。
     悲しくないのに、感情が昂って勝手に涙が溢れてくる。
     激昂するオレに、類は至極冷静だった。穏やかな声に、余計に涙が溢れてきた。
     ああ、そうか——あの時、病室で叫んだ咲希もきっと、こんな気持ちだったのか。
    「笑いに来たわけじゃないよ。ねぇ、司くん——君の旋律を聴かせて?」
     椅子の背もたれごと背後から抱き締められて、身動きが取れない。硬く握られた指を、一本ずつ類の指が撫でると、吸い取られていくように緊張で強張っていた指が解れていく。
    「……とても、使い込まれた楽譜だね。でも、大切に保管されていたのが見ただけで分かるよ。
     この鉛筆が書き加えられた印や文字の数だけ、君のこの曲に対する想いと記憶が刻まれている、素敵な楽譜だ。
     ピアノを止めた時、この楽譜を捨てるという選択肢もあったはずだ。でも、僕は君がこの楽譜を今も持っていてくれたことが本当に嬉しいよ。ずっと大切に持っていてくれてありがとう。
     君は並々ならぬ想いを、この曲に、ピアノに抱いているのだろう? だから、その想いをカタチにして欲しい。その想いを、僕達に聴こえるように、音にして欲しいんだ」
     片手ずつ掬い上げられた手が、ピアノの鍵盤の上に乗せられる。触れることすらこの一週間できなかったのに、類の指は魔法をかけられるのかもしれない。
    「あの日、ショッピングモールのピアノで連弾する君は本当に楽しそうで、本当に輝いて見えたよ。
     本音を言うと、少しだけあの男の子に嫉妬したんだ。僕はピアノは弾けない。ピアノを使って君をあんな風に輝かせることはできない。ふふっ……今回の演出は半ば僕の演出家としての意地だ。そんなものに付き合わせて本当に申し訳ないと思っている。でも、安心して——僕はいつだってショーに本気だ。それは君もそうだろう?
     大丈夫、君はひとりでショーをするわけじゃない。君と共にショーをする仲間がいる。
     僕だってその一人だし、寧々やえむくん、それに今回はなんとゲストを二人呼んでいるよ。
     みんな、君のために、今回のショーに協力してくれる。そして、みんなを笑顔にしたいと願っている。
     だから、大丈夫——さあ、指を動かしてごらん?」
     するすると水みたいに類の言葉が身体中に染みて、広がっていく。
     ああ、知っている——。
     この温かい体温はまるで、春の冷たい青空を染める薄紅色の桜のような——。
    「っ……今オレの顔を見たら、野菜を食べさせるからな……」
     噛み殺し切れていない嗚咽と、類の手の平を濡らす雫でバレバレだろう。だが、精一杯の強がりを許して欲しい。
    「うーん、それは嫌だなぁ。……でもね、今僕は君の顔を見たいよ。君の飾らない感情を見てみたいな。だって——」
     ああ、お前はそのままで良いと言ってくれるのだな。
     ピアノを弾くのが怖いオレを認めてくれる。
     スターでいなければと強がるオレをちゃんと理解してくれている。
     そして、ありのままのオレを見たいと言ってくれる。
     どうしようもない衝動のまま振り返ると思ったより近くに類の顔があって驚く。急に振り返った類も驚いていた。互いの顔を思い切りぶつけそうになったが、なり振りかまっていられなかった。
     唇まで紙一枚——どちらがその距離を詰めたかなんて分からなかったし、どうでもいい。大きな背中にみっともなく縋り付いて、夢中で唇を重ねた。なぜ、こうも衝動に任せてしまったのかは分からない。類もオレを抱き締め返してくれたし、後頭部を包む手の平が優しくて、でも逃げられないよう固定されたから嫌ではなかったのだろう。
     あぁ、初めてのキスは本当はもっとドラマみたいなロマンチックなものが良かった。こんな涙の味がする噛み付くようなキスではなく、蕩けるような甘くて優しいキスをしたかった。
     でも、オレ達はこれがお似合いなのかもしれない。
     感情をぶつけ合って、本音を隠す装飾品を引き剥がすようなキスがオレ達には必要なのかもしれない。
    「っ……はぁっ……はっ、るい……」
    「ふふっ……あぁ、やっぱり……思った通りだ」
     
     ——だって、君のまっすぐな感情は本当に綺麗だから。
     
    「泣いているオレを綺麗だと言うのはお前くらいだろうな……」
    「そうだね。でも、僕以外知らなくて良いからそれで構わないよ」
     ああ、オレを射抜くその瞳が美しくて堪らない。呼吸を止めたままキスをしていたから、蒸気した頬と荒い呼吸にぞくぞくした。顔は美人と呼ばれる部類なのに男らしい腕と大きな手の平。そのすべてを今だけは何としてでも独り占めしたかった。
     このままだとお前は皆のところに戻ってしまう。今のお前を誰かに見せたくなかった。
    「…………聴いて、くれるか? 全然、練習できてないから聞き苦しいかもしれんが……」
    「もちろん。聴かせて?」
     どうか、この熱が引くまでは——オレのそばにいてくれ。
     **
     類が会いに来てくれた日から、それまでの不調が嘘のように練習は順調に進んだ。
     失敗する場所が着実に減っていく。だが、中学の時弾けなかった箇所は未だに苦手なままだった。
      
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    正式なお知らせ・お取り置きについてはまた開催日近づきましたら行います。

    pass
    18↑?
    yes/no

    余談
    今回体調不良もあり進捗が鈍かったのですが、無事にえちかわ🎈🌟を今回も仕上げました!!!
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