淡雪のように儚く、そして美しく寒い……。
地下鉄の出口から出た源一郎が真っ先に思ったのはそのことだった。
吐く息は白く、そして空からは白い粒が落ちてきている。
「雪か……」
故郷を思わせ、そしてかつて仕えていた主との出会いにも関わるもの。
どうしても感傷的になってしまうが、頭を振って忘れようとする。
しかし、そんな源一郎の決意は数歩歩いたところで鈍ってしまう。なぜなら少し先の交差点で見覚えのある姿が佇んでいるのが見えたからだ。
「浮葉…様……!」
記憶と現実が混ざり、幻覚を見ているのではないかと思った。
しかし、呼び掛けた相手は自分の声が聞こえていたようで振り向く。
「こんなところで会うとはね…… でもここは横浜。しかもお前が暮らしている菩提樹寮の近くだからね。巡り合わせてもおかしくはないね」
寒さをものともしない優美な雰囲気、そして優雅な言い回し。その姿を目にし、そして耳にし、源一郎はこれが現(うつつ)であることを実感する。
「浮葉様はなぜここに……?」
「今日は横浜で撮影があったのだよ」
源一郎の質問に浮葉はめんどくさそうな様子を見せることもなく、でも淡々と答える。
そして撮影は終わり帰ろうとしたものの、トラブルが発生し迎えの車が来られなくなったらしい。
「この雪だからね。堂本くんの話だと電車で帰るにしても時間が読めないというではないか。だったら、このまま横浜で過ごすのも悪くはないのではないかと考えていたところだよ。明日も横浜で撮影があるしね」
浮葉は淡々とそう話す。
その様子には雪が降ったことにも、迎えの車が来ないことにも困っている様子はなく、ただ事実を受け入れているかのように感じられる。それはかつて御門の家で滅びを待っているときを思い出させる。
ただ、あのときより浮葉の眼差しは強い光を湛えているような気がする。
そして、源一郎が先ほど浮葉の口から出てきた名前が心に引っ掛かる。
本人はその意図があったかはわからないが、浮葉を自分のもとから奪い取った相手。そして、隣にいることを許されている相手。
浮葉とそのものがどのような関係かはわからない。
ただ、共に過ごすことが許されていること、そして浮葉の口からその名前が漏れてきたこと。たったそれだけの事実であるが、源一郎にはそれが耐え難かった。
すると源一郎は次の瞬間、浮葉の手を掴んでいた。浮葉の口ぶりからするとそんなに長い時間外にいたようには思えないが、やはり屋外での撮影は彼の身体から暖を奪っていたのだろうか。手は驚くほど冷たかった。
「浮葉様、今日は冷えます。菩提樹寮にいらしてください」
「お前がそんなこと言うなんて、珍しいね」
菩提樹寮は部外者は出入り禁止。たまに例外もあるが、今の浮葉はあいにくその例外には該当しない。
そのことを理解しているのだろうか。浮葉は紫色の瞳で源一郎を見据えてくる。
「事情が事情ですし、そもそも今、スタオケの者はほとんど出払っていて寮にはいないです」
つまり、正式には認められないが、見咎める者はいないということを察したのだろう。
浮葉はその瞳をふっと緩ませ、そして笑みを溢す。
その美しさに一瞬見とれつつも、源一郎は浮葉を菩提樹寮へと案内することにした。
「ここがお前の部屋なんだね」
そう言いながら浮葉は源一郎の部屋の入口で立っている。
ここに連れてくるときは無我夢中であったが、あらためてこの部屋と浮葉の釣り合わない様子を実感してしまう。
これならホテルに泊まることを提案した方が良かったのかもしれない。実際、彼はリーガルでそれだけの稼ぎを得ているのだろうから。
しかし、考えてもはじまらない。
ひとりで生活をしていることを前提としており、またご飯を食べるときは食堂を利用しているため、テーブルなどという気の利いたものはないが、簡易的なテーブルがあるため、ラグの上に座って待ってもらうことにした。
そして、食堂で急いでお湯を沸かしお茶を用意する。
「お前の入れたお茶は落ち着くね」
そう言いながら小さな溜め息を吐く。
京都で過ごしていたときに数えきれぬほど行ったこと。
しばらく行っていない習慣であったが、感覚的に覚えていたらしい。使う道具が変わっても浮葉の好みの温度や茶葉の量で提供することができていたらしい。
満足気な浮葉の表情がそのことを語っていた。
そして考えるのはこれからのこと。
自分が招いた客人、ましてや破門されたとはいえかつての主は丁重にもてなさないといけない。
「浮葉様はベッドをお使いください。俺は床に寝ますので」
考えるまでもなく、源一郎はその結論となる。
しかし、浮葉はその言葉に納得していないらしい。
「今日は冷えるのにかい?」
そう上目遣いで自分を見つめてくる。
そして、ひとつの言葉を紡ぎ出す。
「寒いから、暖めてくれないかい?」
思い違いでなければ、そのことはひとつのことを告げているように感じた。
どこか手の届かないところに存在するかのように感じられるかつての主。
だけど、そんな彼が自分の元に降りてきた。そんな気がしてならない。
源一郎の頭にひとつの言葉が浮かぶ。「据え膳食わぬは男の恥」。
浮葉の手を取る。そして、導いたのはベッドの上。
抵抗を示さなかったことが、彼の気持ちを何よりも伝えているような気がした。
「何を見ているんだい?」
「いえ、何も……」
事を終えたあと、あらためて源一郎は浮葉の肌を舐めるように見つめる。
浮葉に他の男、特に今、ほとんどの時間を隣で過ごしている男が浮葉を抱いているのではないかという懸念を持ち合わせていた。それでつい探してしまっていた。他の男と過ごした痕跡が肌に残されていないかを。
だけど、その肌は自分が記憶するものと同じく、滑らかな絹のようにきめ細かかった。
そう、それは外に降る淡雪のように。
「今日のことは幻だよ。すべて忘れてしまいなさい」
そう話す浮葉の顔が切なげだったのは気のせいだろうか。
今日のこと、いや、今まで浮葉に思慕の感情を抱いていたことを忘れさせたいのかもしれない。
あるいは彼自身がこれから自分ではなく他の男のものになるという決意の現れなのかもしれない。
「ええ」
源一郎はそう答える。
だけど、心の底ではわかっていた。
自分の想いは決して溶けることはなく心の中に降り積もっていることを。
ふと源一郎は窓から外を見る。
雪が音を立てずしんしんと積もっているのが見えた。