紫陽花──ああ、疲れた。今日も今日とて稽古、稽古、稽古って!身分の高い者とは嫌になる。こんなに自由が無いなら、そんなものいらなかった。今の所、この身分で良かった所なんて大量の書物を読み漁れる事くらいだ。その時間すらも、充分にあるかと問われれば否、心底嫌になる。──もう、やってられんわ!
気分転換に、社を抜け出し散歩に出掛ける事にした。動き易い装いに変化し、全速力で駆け出す。嗚呼、気持ちが良い!このまま数千里先まで駆け抜けて仕舞いたいくらいに……!しかし、豪奢な社暮らしの御貴族様にそのような芸当なぞできる筈も無く、幾らか進んだ所ですっかり息が切れてしまった。ただでさえ強かった疲労感が、より一層その存在を主張して来る。うなだれて、落ちた視線のその先に、ふと紫陽花が目に映った。
気づいた頃には手を伸ばしていた。ひと房摘もうかとも思ったが、無闇な殺生にあたってしまう可能性があるので取りやめた。代わりに、手を添えたままおもむろに面を近付ける。ふわりと、植物特有の香りが優しく舞った。遅れて喉の奥に僅かばかりの甘い香りが漂う。淡くて……ほっとするような、香りだ。──ずっと昔から、紫陽花のこの奥ゆかしい香りが好きだった。匂いの呼び起こす記憶に、ぼんやりと遠い過去を想う。暫く経って、意図せぬうちに物思いに耽っていた事に気づきはっと身体を起こした。
静かに大気に溶けていく香りが蟠りを解いていく。もうすっかり、疲れは取れていた。気分転換として申し分無く成功したと言えるだろう。それでもまだ、ここに居たかった。もう少しだけ、やわらかであたたかい其れに浸っていたかった。が、あまり長居すると社を抜け出していた事が発覚してしまう。仕方なく社への路へと向かっていった。しかし、歩みを進めるほど後ろ髪を引かれる想いがいっとう強くなっていく。堪らず踵を返し、何かこの状況を打開する良策はないかと思考を巡らせ、行き着いたのはこの紫陽花を元に髪飾りを創る事だった。無論、術で創った造花では香りは立たないけれど、この青とも紫とも言い難い絶妙な色が、朧気な香りを象徴しているような、傍らで寄り添って居てくれるような気がした。
再びあの紫陽花に手を添える。それを鋳型として術を発動し、もう片方の手に顕現させる。きらきらと金色の粒子が漂った後には両の手に全く同じ形状の紫陽花があった。まるで、双子みたいな──。
本家から手を離し、造花を顔に近寄らせた。当然ながら一切の香りもない。何故だか哀しく思えて、罪悪感のようなものが湧き上がってくる。
(代わりに、目一杯着飾らせてやるから。)
ここはひとつ、それで赦して欲しい。
道具は社にある。帰り着く明確な理由を得てしまったので、諦めて帰路に着いた。
──社に着くや否や、稽古をすっぽかしていた事が露見しこっぴどく叱られたのは言うまでもない。