いま、ふたたび 硝煙に覆われた空が少し遠くなってから何日、いや、何ヶ月経ったのか。
「流石に都会の駅は大きいですね」
「そうだな、人がすごい」
茶褐色、青褐色、国防色の人の波。戦争が終わってもなかなか色は戻ってこない。列車も、駅も、どこもかしこも復員兵でごった返していた。一般市民か軍人かで分けられていた世界、軍務を解かれた今は誰しもが一般市民と言えた。駅舎を出たところで靴を磨く少年たち、顔を墨だらけにしてそれでも瞳はその手によって艶やかに光り出す靴を映している。まだ目は死んじゃいない。生きていかねばなと橋内が小さく、しかしはっきりとそう呟いたので、独り言かもしれなかったが塚本は一応はいと返事をした。
「あっちに闇市があるみたいですね」
「なにか汁ものでもあればいいんだがな、この際贅沢は言ってられんから残飯でも有難いが」
風が足元を薙ぐ。まだ暦は秋のはずだが、戦後まもなくの鬱々とした人の間を縫ってくるからか空気までもが世情をありありとまとって、より冷たく乾いたものに感じられた。
「はあ……早く温まりたい……」
黒い喪服と国防色の人垣、のろのろと進む行軍。これじゃあせっかく復員しても変わらんなあ。ですねえ。顔を見合わせる。ふ、と互いに目を見て笑った。何も胃に入れていないのに、不思議と腹の底に重く熱いものがじんわり満ちる。この男の、橋内の声がそうさせる。橋内の声で、言葉で、まるで粥でも食べた時のように温まることに、塚本はもう随分前から気づいていた。それがささやかな幸福だということにも、気づいていた。
「貴様!」
どこかから怒声が上がる。自分が言われた訳でもないのにピシャッと背筋が伸びたのは、もうすっかり体に染み付いているんだから仕方ない。当たり前にそういう風に生きてきた、生きざるを得なかった。果たしてこれから切り離せるものなのかもわからない。橋内はそれを見て何してると呆れたように笑った。
「つい癖で、まだ抜けなくて」
「まあそんな簡単に抜けはしないだろうな」
酔っ払いかと声がした方を見ると、口髭を生やした草臥れた復員服の男が、丸眼鏡の同じく復員兵らしき男に詰め寄っていた。ざわめく人々、よしなよと制する声も最初こそ聞こえたが段々と影を潜めついには何の音もしなくなった。
「わ、喧嘩ですかね……」
「ああいうのはこれから増えるだろうな、自分の地位にとり憑かれたまんまの奴が。長年培ってきた土壌は戦争が終わってもそんな簡単に変わらん。いや、むしろ終わったからこそなのかもしれんな」
橋内はしばらく腕を組んでことの成り行きを見ていたが、ぽんと手を打つとするすると風のように人の間を縫って行った。
「え、和さん! 危ないですよ」
大丈夫だとでも言うように小さく右手が上がる、たまらず追いかけた。大丈夫には思えない。今生きる世界にはもう、軍隊の規律はないのだから。
「貴様! 肩がぶつかったぞ! 俺を誰だと思ってる! 俺に……少尉のこの俺に向かって舐めた態度をとりやがって! 貴様のその腐った根性を叩き直してやる!」
目をぎらぎらとさせながら肩をいからせ唾を飛ばす男の肩を橋内が叩く。
「その辺にしておいた方がいい、少尉」
諌められたことで余計に頭に血が上ったのか、男の怒りの矛先は当たり前に橋内に向かった。
「なんだ貴様は! 優男風情が! どこの部隊だ名を名乗らんか!」
真正面から怒鳴り散らされても、橋内の表情は変わらない。本来階級を識別するための襟章や袖章を取り外した復員服では、見た目だけでは階級の上か下かの判断はつかなかった。
「はっ、橋内中尉!」
少し後ろから塚本がかけた声に、口髭の男の顔が一気に引き締まる。丸眼鏡の男ともどもすぐに背筋を伸ばすと敬礼をした。
「ちゅ、中尉どの! これは失礼いたしました!」
恐縮する男に小さく答礼をし背を向ける橋内にいくつかのまばらな拍手が送られる。人々は何事も無かったかのようにまた行軍を作り、みんなして同じ方向へ進んでいく。口髭の男も丸眼鏡の男も、その中の一部となって通り過ぎていった。
「塚本、貴様なかなかに頭がいいな? よくやった」
「へへ……」
ぐりぐりと頭を撫でられて、嬉しいやら照れ臭いやら。
「地位にとり憑かれてるんならあれが一番効果覿面かなって……」
列からはじき出されてしまって、二人してまた並び直す。一から始めるしかないんだ、何でも。
「それにあのままだと和さんが危ないので……そうなる前に俺の頬を差し出そうとは思ってましたけど」
「ふ、そうか……殊勝な心がけだな塚本整備兵。しかし俺はなんの計画もなくあんな事はしない、むやみやたらに突っ込んでいくだけが橋内和だと思ったら大間違いだ」
「ええ……? ほんとですか? 和さん結構情にもろいし思ったら即行動に移しちゃうみたいなところあるし」
「む……鋭いな、だが大丈夫だ。これでも士官の端くれだったんだぞ? 滅多な事ではやられん」
気づくといつの間にか目当ての汁ものの列に並んでいたようで、思いのほかすぐに食事にありつけた。代金を支払い椀を受け取ると近くの橋桁の下にしゃがんで早速昼食にする。そこには同じように腹を満たすたくさんの人がいて、束の間の安息に腰掛けていた。
「でも、き、きれいな顔に傷なんかついたら……俺は、和さんを傷つける人間は許せない、です……はっきり言って優男風情って言葉にも腹が立ちましたし……和さんのこと何も分かってな……あ、うまっ! 和さん、このネギ汁薄味だけど美味しいですよ、はい」
差し出した椀を受け取らずにただひたすらに顔を押さえて赤面する橋内を見て、ああ、と塚本はまた己の正直に語りすぎる口を縫いつけたくなった。
「っ……なあ塚本、もうそろそろ敬語、やめてもいいんじゃないのか?」
橋内はやっと椀を受け取って一口すすると、うま、と声に出して幸せそうに破顔した。釣られて笑う。好きな人がうまいと一言口にするだけで、どうしてこうも腹が、胸まで満たされるのか。味などあるようでないような、ましてや具など欠片しかない一人分のそれが、二人分の命を繋いでいる。落ち着いたのか、はあと小さくため息をついて橋内は真面目顔に戻った。
「もう軍人じゃないし、俺は貴様と対等に付き合ってるつもりだ。そりゃあ歳はいくつも上だけど」
「でも、和さんだって貴様って言うじゃないですか」
「それは貴様……、あ」
「ほら」
「きっ、貴様は貴様だろ……! ああ~、駄目だ貴様って言ってしまう」
自分で言っておいてぶふっと遠慮なく吹き出して笑う姿に、知らず知らずのうちに顔が弛む、口元がほぐれる、気持ちまで緩んでしまう。この男といると。
「あの、こんなこと言ったらすごく失礼かもしれないんですけど……か、和さんって、本当にかわいらしい、ですね……」
「はっ、なにを貴様……あっ、また」
肩を並べて笑う、ひとつの椀を二人で分け合って。ひもじいとは思わない、惨めだとも。腹の底に満ち満ちていくこの充足感は、全て隣の男からもたらされるものだと塚本は知っている。そして昼間のうちに与えられたそれを夜毎橋内の腹の中に返す時、与えつつもまた与えられていると感じる。
「ほら、残りは食べろ塚本」
「いや、和が食べて」
「ん……?」
しばらく微妙な空気が流れて、互いに固まった。もちろんこの二人の場合それは不快や嫌悪から来るものではなく、照れや恥じらいやはたまた相手に対する好意以外の何物でもない感情から来るものだったが。
「すみませんすみません、やっぱりまだダメですね」
「そ、そうだな……」
揃って反対の方向を向く。体が燃えるように熱くなった、たった一杯の汁もので。
「塚本はこれから何したい?」
「そうですね、二人でしたことないことをたくさんしたいですねえ」
一緒にアイスクリームを食べて映画を観て、カリーライスも食べて、レコードを聴いて、芝居なんかも観て、船にも乗って、指折り数えるのを橋内は胡座の膝に頬杖をつき楽しそうに眺める。
「二人でしたことよりもしてないことの方が多いからな」
「ほんとですね、だって和さんとしたことって言ったら」
「わーっ、皆まで言うな」
軍務が解かれた今はもうただの民間人。何万、何十万の行軍から外れ、この広い空の下たった二人ぼっちで二人っきりだ。だが心細さよりも心強さが勝るのは何故だろう。不安よりも期待が、この腹を満たしていくのは。
「俺、何でも初めては和さんとがいいなって思ってます」
触れた袖と袖の草色が、擦れて萌える。今まで空ばかり見ていた、これからは足元を見てそこに咲く野花を見て、雑草みたいにしぶとく生きていけたら。
「おっ、俺も初めてはお前とっ、その……お前が、すっ、す……」
「和さん、好きです」
誰も聞いちゃいない、告白など。どうせすぐに人々のざわめきにかき消されてしまう、今を生きるので自分のことだけで誰もが精一杯な時代。
「なんで……何で先に言うっ……! しかも芋を食って、る時に……雰囲気ってもんがまるで無い!」
「ええー」
自分だってと言おうとしたのを芋と一緒に飲み込む、慌てたせいで喉につっかえたのを橋内の差し出した水筒が救ってくれた。
「大体、たまには俺にも格好くらいつけさせてくれ……お前ばっかりに格好つけられちゃかなわん」
そう言いながら背中を叩いて、摩ってくれる手がやさしい。この手となら手を取ってどこまでも行ける。もう操縦桿を握らない、この優しい手となら。
「かっこいいですよ、和さんは……もうずっと、初めて見た時から」
涙目で噎せながら、それでもこの言葉は喉につっかえずに口からすんなり出ていった。誰もが憧れるベテラン搭乗員、ルックスだけじゃない、その立ち振る舞い、身のこなし、橋内のようになりたいと新米搭乗員たちはこぞって彼を手本にした。それこそ人気で言ったら一番を取ったんじゃないか。技術や指導力のみならず、その優しさ誠実さから誰より人望があった。そんな男が今こうして自分の隣で、自分だけを気にかける。雲の上の存在は、いつの間にか袖が触れ合うほどそばにいた。
「さ、さっきはかわいらしいって……」
「かっ、かわいい時もあります! 布団の中では基本的に……! ああもう……ッ、和さんはどうして和さんなんですかっ?」
「な、なんだそれは! ロミオか!?」
ほらこうやって二人なら、どんな悲劇も喜劇になる。闇市も、焼け跡も、バラック小屋も、たちまち舞台に変わる。人生という長い芝居を、これからは一人じゃない、二人で。
「厳しい状況ですけど、お互いを思い合えてさえいればやっていけると思うんです……これから何もかもが変わっていくでしょうし、実際色んなことが変わってきてますけど……和さんへのこの気持ちだけは変わらないでいられたらって」
ひたすら何年も空を飛ぶ為に生きてきた男と、その男を飛ばせる為に生きてきた男。もう誰も国のために死ねとは言わない代わりに、これからは生きなければならない。橋内の「生きていかねばな」が今ふたたび、胸にすとんと降りてくる。
「二人で手を取りあってやっていきましょう、あの頃の辛さを思えば何だって乗り越えられます! 和さんとなら、新しい日本でちゃんと地に足つけてまっすぐ生きていける気がするんです……大変なことがあっても、二人で笑って生きていきましょう、俺がたくさん笑わせますから」
ぎゅっと強く両手を握って長台詞を言う間も、橋内は顔を赤く染めたまま静かに聞いていた。モンペ姿の女性、国民服の男性、赤子をおぶった少年、釣りを受け取る少女、誰も気にしちゃいない、気にしてなどくれない。こんな画面の端で起こっている、ありふれた告白など。
「う……」
橋内は昨晩抱いた時より今朝くちづけた時よりずっと真っ赤な顔をしたかと思いきや膝を抱えて顔を伏せてしまった。自分は言いたいことを言って満足したが、それを受け止める方はまず噛み砕いて飲み込まなければいけないだろう。独り善がりになってはいけない、すっかりすっきりした胸を撫で下ろして塚本はそっとその肩に肩を預けた。あんなに大きく見えた翼は、自分とそう変わらない。これからは親しんだ機体の代わりに自分が相棒となって連れ添っていかなければ、互いにバランス取りながら。寄り添って見上げる、空。遠くで立ち上る白い煙は炊き出しか、弔いか。生きると死ぬがいつも隣同士にあって、それでも二人三脚しながら人は前を向く。
「塚本……、お前が好きだ」
「知ってます」
「知ってるのか」
「抱いてるとき散々言われましたから」
「抱かれてない時も言うぞ……これからは」
「はい……待ってますね」
くちづけしたい衝動をこらえるには残りの芋を頬張るしかなくて、互いに前だけ向いて黙々と口を動かした。
闇市の喧騒を抜ける頃にはまるで空襲のように遠くの空が赤い。その空を飛んでくるのは敵機ではなく、ただの小さな赤とんぼ。
「和さんが見てた景色、俺は結局見られなかったな」
橋内が守っていた空のことを、地上にいた塚本は何も知らない。それがどんなに広いか、どんなに青いのか。
「そんなことない、平和になればいずれ飛行機乗りじゃなくても飛行機に乗れる時代が来る……空はいいぞ、広くて果てがない」
肩を並べて見上げる夕焼け空。降りてくる緞帳が黒く煤けた色のない世界を染め上げている。
「綺麗ですね」
「綺麗だな、お、お前と見るからかな」
夕焼けはいい、頬が染まるのを誤魔化せるから。世界の色は一緒にいる人でこんなにも変わっていく。赤とんぼの群れが茜空を背景に編隊を作っていた。ほんの二ヶ月前までこの光景を見ていた。ただ見送るばかりだった。この指とまれとばかりに人差し指を空に差し出せば一匹の赤とんぼがその先にとまって、やがてまた仲間の元へ戻っていった。
「小さくても一丁前に遠くまで飛んでいくなあ」
「ほんとだ」
「自由だからな、どこへでもいける」
夕焼けに赤く染め上げられながら、俺たちだってそうだ、と橋内は付け加えた。その横顔の美しさに惚れ惚れする。その声の持つ温度にくらくらする、音程に酔いしれる。恋とか愛とかよくわからない、これが恋なのか、愛なのかも。今もうすでにそうなのか、果たしてこれからそうなっていくのかも。ただ確かに言えるのは目の前の橋内和という男が好きで、大切で、そばにいたい。守ってやるなんて、大それたことは言えないけど、痛みも困難も分かちあって共に生きていきたいと思う、戦後を、荒海の中を。
「でも和さんは、どこにも行かないでください」
「どこもいかん、ここにいる」
こうやってお前の指にずっととまっててやる、そう言うと橋内は立てたまんまの人差し指の先に己が人差しをちょんと重ねた。照れくさくて、こそばゆくて、なんだか心臓がざわざわしてたまらない。指先が離れたのが合図、思うより早く、その手首を掴んで引き寄せていた。
「掴まえた」
「あっ、こら」
ぎゅうっと強く抱きしめる、二つの草色の復員服が夕日に燃えて、そっとひとつに溶けていく。雑嚢を放り捨てて、過去の階級も、見栄も恥じらいも路傍にかなぐり捨てた。狂おしいくらいに、ただただこの体を、命を、両腕に抱きとめていたかった。
「お前……人前で」
橋内が少し前から〝貴様〟と言わなくなったことに気づいていた、言わなかっただけで。少しずつ少しずつ、未来は、運命は、変わってきている。
「和さん、今夜は抱いていいですか? 抱きたいです……」
「ッ……! 今夜もの間違いだろ……」
好きにしろと呟いて、腕の中の男は甘えたように頬を擦り寄せて来る。そして熱を持った声で、年上の男は口にする。
「なあ塚本……やっぱり名前、呼び捨てにしてくれ」
もう飛び立たなくていいように、塚本太郎は甘く香る男の体を強く強く抱いた。その三文字を言葉にする時、世界はまた色を変えるのだと思う、きっと眩しくて、愛おしくて、素晴らしいものに。できるならこの声が、十年後も百年後も貴方の鼓膜を震わせていますように。
『かなう』
──ああ、叶った、たった今。
【完】