点と線約束の時間の少し前に着くと、もうそこに彼がいた。
「すみません、突然お呼びだてして」
「いえ、こちらこそわざわざこんな田舎まで来ていただいて……俺がお役に立てるかどうか」
油で薄汚れた作業服、と裏腹に名刺を受け取った指先は綺麗だった。
「特攻に征った〝やぎ〟という人の情報を探していましてね、もう十年になります。ご存知ありませんか?」
「やぎ、さんですか。聞いたことあるようなないような……そんな人いたようないないような……すみません、人の名前を覚えるのがあんまり得意じゃなくて。それに実際整備兵をしてたのもそんなに長い間じゃないんです、すぐに終戦になってしまって」
「いいんですいいんです、わかります。私もね、せっかく名前と顔を覚えても次の日にはもう会えない人になっている、そんなことしょっちゅうありましたから。仲良くなるだけ、その人のことを知れば知るほど、別れが辛い時代でしたね」
恐縮したように頭を下げる彼に、俺は両手を小さく振った。
「お仕事は今なにを?」
「見ての通りの工場勤務です、元整備兵の腕を買われまして」
「そうなんですか、随分綺麗な手をしてらっしゃるから」
「ああ、母にもらった軟膏のお陰です! よく効くんですよ」
そう言うと彼は照れたように頭に手をやり笑った。
「ちなみに淀野さん……今ってあの頃の写真をお持ちだったり……?」
「ええ、ありますよ。見てみますか?」
「いいんですか? ありがとうございます」
いくつか束になったのを鞄から取り出してテーブルの上に広げた。彼は水の入ったグラスを隅に退かし、少し前屈みになって興味深そうに見ている。
「これは慰問団が来た時ので、歌や踊りなんかを」
「ああ、役者の人が来てくれたりするやつですね」
「この子猫を抱いてるやつなんかはとてもいいと思います」
「本当ですね、優しい表情で」
若者たちが相撲をしている写真、肩を組んで笑う写真、身体中から、いや、その精神からも溢れ出たような若さや情熱が写真の中で躍動している。数日後には征く、その点を除けば彼らは今その辺にいる若者となんら変わりない。目の前の彼も、懐かしむように見ていた。
「珍しいですね」
「はい?」
「いや、あの頃の写真を見たくない、話もしたくないという人が多いもんですから」
「ああ、搭乗員だった方ならそうかもしれませんが、俺は整備の人間でしたから……むしろ特攻前にあの人たちがどんな風に過ごしていたか、日常を知って欲しいくらいなんです」
なるほど、そうか、見送る立場からしたら。
「まだまだこっちにも、家に帰ればもっとあるんですけどね」
「へえ、すごいですね」
「私はね、飛行服を着てかしこまった彼らの写真も好きなんですが、普段の、普通の青年たちと変わらない無邪気な表情を撮るのも好きだったんです。まあもっともそういった写真は使えませんでしたが、こうして戦争が終わった今ならたくさんの人に見てもらえる」
俺の言葉に頷き、彼はまた写真に視線を戻す。ああ、話しすぎてしまったな。ここまで来てみたが結局分からずじまいか。こういうことはしょっちゅうある、むしろいつものことだから慣れっこだ。何か〝やぎ〟への手がかりが得られるかもしれない。どんな些細なことでもいい。ほんの小さな点が、やがて線になっていくことだってある。
「ああ、それなんかはね、特攻隊を撮ろうってなって、まだこういう風に撮ろうというのがうまく固まっていない時に見学じゃないですけど練習がてらちょっとだけお邪魔させてもらって撮ったもんなんです。本格的に撮り始めるのはそのずっと後で……だから何を撮りたいのかどう撮りたいのかもさっぱりわからないような写真でしょ? ひどいもんですよ。でも最初ですからね、記念にこうしてとって「お客さんいい加減頼んでくれないとうちも困りますよ、そういう商談だの打ち合わせだのはよそでやっとくれ、うちはカフェーじゃないんですからね」
女将さんに怒られてしまった。ああ、その通りだ、すっかり話し込んでしまった。申し訳ないと手を合わせ、壁にかかった短冊を眺める。
「お昼はどうされます? ここの定食屋さんのおすすめは何かな、お仕事お忙しい中来ていただいて……良ければなんでも好きなものを」
「淀野さん……ありがとうございます」
「え?」
彼の目から落ちた大粒の涙が、テーブルの上にいくつもの水溜まりを作る。その言葉がどういう意味を持つのか、俺だから理解できたといえる。
「ああ……お役に立てたのならよかったです……塚本さん」
こうして線になるどころか、小さな点そのものが終点になる人もいるんだな。
彼の手の中の一枚の写真、数人をまとめて撮った何の変哲もない写真。その中の一人を愛おしそうに指でなぞると、彼はしばらく声を殺して泣いた。昼飯時の賑う定食屋でこの席だけが、未だ昭和二十年だった。
【完】