南方がワニになってしまったので、棟耶は自宅のプールを提供することにした。
体長は7メートル。世界最大のワニの記録を超えてしまっては一般的な家の風呂場では狭すぎるだろうと提案してみると、あっさり承諾されたので棟耶はやや拍子抜けした。
毎日新鮮な生肉がある、だとか、屋内なので冬も安心だぞ、だとか色々と誘い文句も用意していたのだが、それを使う暇もなく南方は「助かります」とギザギザに並んだ牙を見せつけいそいそと棟耶宅にやってきた。
早速プールサイドに陣取り「ああ、これは良いですね。広さも申し分ない」と気に入った様子で根元が丸太並に太い尻尾をぶんぶん振っている。犬のようだ。
「水温はどうだ?」
「どれどれ…ちょうどいいようです。流石ですね」
器用に前脚をちょいと水面に付けると、長い頭をこちらに向けて南方はまた牙を見せた。笑っているらしい。
目つきは鋭くいかつい顔だが存外愛嬌もある。
「そうだろう、ヒーターも冷房も完備している」
ワニの適温は30度前後と心得ている棟耶も満足げに頷いた。
ざぷん、と意外な程に水しぶきも立てずに漆黒の巨体がプールに滑り落ちる。プールサイドに立って眺めていると、それはうねうねと時間をかけて四隅を確認するように泳ぎ回り、それから棟耶の足元に戻ってきた。
鼻先が水面から出て、頭、そしてゆっくりと背中から尻尾まで浮かんでくる。
良いワニだ、と棟耶は思う。
体格も、頭も良い。
じぃ、っと水面からこちらを射抜くように見つめる三白眼、その斜め上に小さな金属片が光るのが見えた。
ピアスか、と気が付いたがワニの耳にどのようにして付いているのかは解らない。
いつも身に着けているものだから気に入っているのだろう。それも良く似合っている。
しっかりとした骨格と強い筋肉、体表もそこらのワニとは違い滑らかで、美味そうだ。
「という夢を見たんだが」
「……イリエワニですかね?」
「色味はブラックカイマンよりもかなり黒かったが、体長からするとそうだろう」
棟耶立会人の執務室で書類ファイルを手に立つ南方は、世界最大のクロコダイル種と同じように堂々とした体格で、夢のワニと同じ色の丈の長いスーツを身に着けている。
業務の相談の合間に唐突に雑談を振られてやや困惑しているようだが、顔も、夢のワニを擬人化したらこうなるだろうという形だった。
「ワニ肉は高タンパクのヘルシー食だそうですから…召し上がったことがおありで?」
「いや、まだないな。ワニの畜産もあるそうだから地域によっては一般的なんだろう」
「しかしワニをプールで飼うとは、なかなか豪気な夢ですね。現実のお宅にもプールが?」
「ああ、ある」
「流石」
笑う南方の口元には牙はなく、並びの良い白い歯が見えている。何割かは同郷の男のせいで人工物だろうが、そんなことはどうでもいい。
現実の南方が付けているピアスまで夢の中のものと同じだ。
「夢は抑圧された願望の充足らしいですが、ペットを飼う夢とは…、まぁ、ワニはペットには分類されないでしょうが」
「いや、フロイトやユングを持ち出すまでもなく、夢の原因はわかっている」
「ほう、どういった原因で?」
「無意識に反映されるほどジロジロ見ていないでさっさと行動に移せということだ」
一瞬だけ理解が及ばないという表情を見せたが、南方はすぐに片方の眉をピクリとさせた。
よく勘が働くさまも好ましい。
「人間には生肉よりも焼いた肉の方がいいだろう、上等なワインもある。お前は温水プールには興味はないか?」
「…判事、確か貴方は」
「なんだ」
「……黒いワニを、『美味そうだ』、と」
「ああ、そうだな」
棟耶の軽いとも言える答え方に、南方は視線を逸らし片手に持った書類ファイルを顔の前にかざした。
夢のプールサイドとは違い、執務室の二人の間には緊張感に近いものが漂っている。
「…少し考えさせてください」
顔を隠してしまった南方に、口調に気を遣い瞬きも長めのにしたが誤魔化しきれていなかったか、と棟耶は内心苦笑いをした。
おそらく己のほうが、まるで獲物を狙うワニのような視線を送っていたのだろうと。