ノイズまみれのビデオレター「ム。これでいいだろうか……」
生まれてこの方、三脚など使ったこともなかった。
「撮れている、と信じて、このビデオをのこす事とする」
彼の幼い娘の成長を留める手伝いに買った、押し入れの箱の中で眠っていた小型のカメラが赤く小さな光を放っているのを見て、私は前口上を述べる。
「結婚おめでとう、成歩堂」
「結婚することにしたんだ」
ついに来たか、と思った。
「………ほう?」
若い頃はお互い、腹の底の底まで探りあってさらけ出しあったような仲ではあったが。
今となってはもうすっかりと知っていることしか知らないような年齢になってしまった。
「その。結構前から、付き合ってて、でもお前には紹介した事ない……んだよね」
顔を綻ばせつつも、ちらりとこちらの顔色を見やる成歩堂。
私に負い目を感じているような素振りにずくりと腹の底で何かが蠢いた。
「わざわざ私に報告せねばならぬ義理は無いだろう」
むしろ、私たちはそのような話題を避けていたとさえ記憶している。
「まあそうなんだけどさ、でもなんか……」
「それで?いつなんだ、式は」
「え?」
きょとんとする成歩堂。きっと彼の中で、今の私は予想と違う顔をしているのだろう。
「なんだ」
「い…いや。なんでもないよ。結婚式は……」
この日、と手帳を見せてくる。3ヶ月ほど先の日曜日に、赤いマルと共に『結婚式!』と書かれているのを見て、胸が締め付けられた。
「そうか。……生憎だが、その日は私は日本に居ない」
「えっ!?嘘だろ………?」
縋り付くようにこちらを見て、お前が居ないなんて、とこの場に限っては最も私を傷つける言葉をいとも容易く投げかけると、彼はガックリと肩を落とした。
そんな彼に対して、本当に申し訳ないという気持ちより先に愛おしさが込み上げる。私を求めてくれる。私を救ってくれる。君は、そういう男だった。
「すまない……だが、どうしようもない」
「いや、仕方ないよね……うん………」
だが。この時ばかりは、救われることは決してない。
「……すまないな」
「………どうしても?」
そんな顔をしないでほしい。胸の苦しみに甘さが混じって、切なさが内側から心臓をつつくようだ。
「どうしても、だ」
決して嘘ではない筈なのに、今まで交わしたどの言葉よりひどく痛いような音が鳴った。
「君は初めて会った時から、不思議と人を引きつけるチカラがあった。……人だけではないな、事件もか」
用意した手紙は、何度も何度も推敲した。
「沢山の真実が君の手により暴かれて、沢山の人間が君に救われた。無論、私もだ」
決して違和感のないよう。友人として、感謝と祝福を込めたビデオレターを贈るだけ。
「そんな君なら、きっと幸せな家庭を築けるさ」
カメラから決して目をそらすな。
「成歩堂」
彼の名をなぞる。何度となく一人で反芻されたそれは、結局なにも形作りはしない。
「……幸せにな」
君に届くたったひとつは、これでいい。
「結婚、おめでとう」
改めてそう言って、カメラを止める。
あとはこれを現像して、成歩堂に送ればいいだけだ。
「………」
頬を伝った雫が、床の上に落ちた。
好きだった。ずっと、ずっと。
きっと、世界中の誰より、君を愛していた自信がある。
愛していたからこそ、決して告げなかった。
だから、だからこの終わりは正しい筈なんだ。
君は然るべき幸せをつかみ、私はそれを笑って見届ける。
君と話した冗談みたいな約束は、全部全部、宵の夢だった。
「もしもさあ」
「うム?」
「もしも、みぬきがおっきくなって、お互いまた一人暮らしになったらさあ」
「ム……」
「一緒に住もーよ、みつるぎ」
「キミとか?」
「うん」
黒い空と波の音がよく聞こえる中で、クゥと鳴いたカモメの声をよく覚えている。
「お前となら、たのしいとおもう」
もしかしたらそんな未来だってあるのかもしれないなんて、思ってしまえた君の笑顔がほんとうに好きで。
「はっ……」
結局濁してしまったのは、何も変えたくなかった私のエゴだった。
「御剣ー!」
朝9時の空港はそれなりに人のざわめきがあり、そんな中でも真っ直ぐに私に向かう声は。
「成歩堂……!?」
手を振りながら駆けてくる彼に、背を向けて逃げ出そうかとさえ考える。
だが、脚は思うように動かず、射抜かれたようにその場で立ち尽くしながら彼を待ち構えるしか無かった。
「ビデオ、ありがとな」
「あ……ああ」
肩で息をしながら、こちらに笑いかける成歩堂。嬉しかった、と正直に告げる彼の瞳は、どこまでも真っ直ぐで。
そこに映る私の顔は、まるで無感動な鉄面皮だった。
「………いってらっしゃい」
「…………ああ」
それだけ告げて、成歩堂はくるりと踵を返した。走り去る彼の背広の青が、瞼の奥に焼き付いて離れないでほしかった。