Flying Batter(バッツマンと納棺師)「落ち着いて聞いてください、ミスター。」
マスクの下から発された思いの外はっきりとした低い声に、バッツマンことガンジ・グプタの脳内に燃え盛る炎は一瞬だけ凪いだ。理由はわからない。彼自身にもよくわからない。そもそも、何故炎が燃え盛るように自分が憤っているのかがわからない。炎と言うからには、その冷静な声が、水のような調子を帯びていたからだろうか? などと、巡る思考も束の間、彼自身預かり知らぬところで受けた投薬によって、頭蓋骨の内側をぐるりと取り巻く不安が加速する。不安に締め上げられるようにして、ガンジは、クリケットバットを手に握りしめる。彼にとって一番良く馴染んだ攻撃の道具。他人に害をなすこの危険な男を、排除する必要がある! 彼は文字通り、使命感に燃えていた。
「落ち着いて聞いてください、ミスター。」
そのマスクの下から、同じ言葉の並びが、ゆっくりと、聞き取りやすいように繰り返される。その男がそのように言葉を発音することを、ガンジは知らなかった。ガンジはこのマスクの男、納棺師であるイソップ・カールとは、旧知の仲という訳ではなかった。つい数日前に初めて顔を合わせ、そして数日間だけ、「試合の参加者(ゲームのプレイヤー)」として、同じ屋根の下で過ごしただけに過ぎない関係である。
顔合わせの際、必要なことだけを述べるといった調子で「納棺師」という職名を述べた時のイソップ・カールの声はもっと細く、常に身につけているマスクの下でくぐもった声は、ともすれば電球内の電線に電流の通る「ジジジ」というささやかな音に、うっかりかき消されそうな程の声量しかなかった。
白皙の額、灰がかった眼差しに、隙なく生え揃った睫毛、マスクの下にあることがはっきりとわかる、高く形の整った鼻。バランスの整った小さな顔をしたこの男が、一見してはっきりと印象に残る程には、雰囲気のある美しい見目をしていることもあり、ガンジはこの男に、異境、なんとなれば、異界のものを見るような心地を覚えた。口が見えないことが余計に、この男の容貌が、美しさのための作りものであるかのような、生物らしからぬ異様さを加速させていた。
だから、この男の持ち物から怪しげな――少なくとも、葬儀に使うものとは思えない、多くの薬剤や拘束具等――が現れた時、ガンジは心底納得したのだ。あれは攻撃のために磨かれた武具のような美しさのひとつであると。攻撃者! 攻撃者から無辜のものどもを守る必要がある、守らねば! 投薬により元より不安感を刺激されていた彼は、後先を考えるよりも先に、危険を排除する使命感にかられて飛び出した。
「落ち着いて聞いてください、ミスター。」
いつになく滑らかな艶があり、今となってははっきりと聞こえる、低く魅力的なその男の声が、ガンジを捕まえると、燃え盛るばかりの彼の思考を萎えさせた。元より浅黒い肌からすっかり血の気を失い、冷や汗を掻きながら土気色の顔で、はっ、はっ、と、尋常ではなく強張った浅い息ばかりを口からこぼす彼を、イソップのグレーの瞳は、冷徹に見つめていた。それは、ガンジの正気の在り処を探すように、タイミングを伺うように……機を狙う捕食者のように? 本能が背筋を走り、ぶるりとガンジを身震いさせる。
「あなたはまだ、気付いていないのかもしれないが、」
イソップはそこに機を見たように、初めて異なる言葉を発した。初対面時の自己紹介の、虫の羽音程もないあの声量とは異なる、はっきりとして聞き取りやすいほどの、低く、魅力的な声。
「あなたは死んでいるんですよ、ミスター。」
まるで意味がわからなかった。自分は紛れもなく生きていると、ガンジは荒い口調で低く唸る。唸った調子に零れた一筋の唾液が顎まで伝う。その返答を嘆くように、イソップは悲し気に白い瞼を伏せたが、やがて、晴れ間のある時の曇り空のような、淡いグレーの瞳が、再びガンジを射抜く。そこには、使命感めいた、確固たる意志の光が見えた。
「在るべき場所に還らなくては、ミスター。これ以上、あなたは彷徨うべきではない。」
その言葉が、悲鳴のような音を立てながら焼き切れるような感覚の暴走と、ひどい不安感を催すガンジの頭に染み込んだ。彼は自分自身を、束となった枯れ草のようだと捉えていた。一度燃やされると制御ができないからだ。
スポーツは常に最も公平だ。温厚で大人しい天才を好まない者はいないだろう? しかし、理想の彼岸というものは、ただの蜃気楼だ。体面な玩具は、鋭利な軍刀に抗えない。紳士たちはただ玩具が欲しかっただけなのだ。
怒りは星々を燃やし黒煙を払う。灰と化すまで体良く懺悔する時間は十分にあることを、紳士たちにも理解させる。可笑しなことに彼らは風格など持ち合わせておらずただ単に更なる服従を渇望している。私は家に帰りたい。そうだ、私は、家に帰りたい。
「さあこちらに、ミスター」
望みを思い出し、燃やし尽くされた炭のように黒々とした目を驚きに見開いてイソップを凝視するガンジに、イソップは手を差し伸べた。過度な熱を持ち続け、今やこのまま蝋のようにぼとぼとと溶け落ちそうな程傷む脳みそを抱え、ガンジはその手を取った。
乾いた泥が水を含んで、みるみる崩れていくように重い足を引きずるガンジをよそに、彼の手を引いて室内の椅子に座らせた、イソップの手際は鮮やかだった。脱脂綿でのアルコール消毒、液体に満たされた注射器。
彼の言うところの「支度」が済むと、それまで淀みなく流れるように動いていた男の細く、作りの繊細な手の動きが止まり、彼は作業に集中する具合に伏せていた瞼を開けて、「あなたのお名前は、ミスター」と問いかけた。ガンジがそれに、掃除されることなく燃え残りの残滓が溜まり続けた怠慢な暖炉、そこに積みあがった灰の底からのような、くぐもった小声で答える。イソップは聞き返さなかった。
「ガンジグプタ」
男の低く美しい声は、彼の舌に馴染みのない異国の音の並びを丁寧に復唱してから、ガンジに目配せをする訳でもなく、自分の内側に向ける仕草として一つ頷くと、一時停止していた作業を淀みなく再生し、ガンジの腕の内側に針を入れる。
「さあ力を抜いて、もう彷徨うことはない……」