(8) 怪鳥が今庭に咲いている一通りの花の種類に見慣れ、それまで毎日のように庭に通っていたものが、二、三日と間遠になっていった頃のことだ。もう夕方だと言うのに、まるでたった今起き出したように開き切らない充血した目をしていたピアソンは鳥籠の部屋の扉を開けると、行儀よく椅子に座りながら、すっかり乾きつつある白いバーベナの、こまごまとした花の集まって球体のように咲く花弁をなぞっていた怪鳥を、睨むというには強張った顔で見遣り、その場にじっと立ち尽くしていた。
しかし、来訪者に気付いた怪鳥がバーベナの花から顔を上げ、思えば随分久しぶりに顔を出したピアソンをきょとんと見遣り、口を開きかけて、彼に向かって何かを声を掛けるなり、ため息めいた吐息を音もなく吐きながら、その男を見なかったことにするなりを決めるよりも早く、ピアソンは瞑目というには短く瞬きというには長く目を目を瞑っていたところから、鳥籠の内側を覗き込まないようにと言わんばかりに俯いて視線を逸らした。
彼はそのまま、怪鳥の寛いでいる鳥籠に向かって胡乱な足取りで歩み寄りながらズボンのポケットを探り、しかし見つからず、上着のポケットを裏返して、それでも見つからなかった鍵をはてどこに落としてきたろうかと首を傾ぎつつ、目深に被り通していた帽子を取って中に息を吹きかけて覗き、続いて金のカマーバンドの合間に半信半疑で手を突っ込むと、ようやく探り当てた小さな鍵で、鳥籠の扉を手早く開ける。
「出ろ」
酒焼けしていっそう低い声でピアソンが命じたところで、萎れつつあるバーベナの花を指先で弄りまわしながら、怪鳥はこれ見よがしにぷいっとそっぽを向いていた。
「……お、おいで」
相変わらず主人に従うことを知らないその態度に、ピアソンは一瞬カッとなり、喉まで出かかった罵声を今に投げつけてやろうと唇を慄かせていたものの、それから数秒経たず、気の抜けたような深いため息を吐きだすと、「わ、悪いようには、し、しないからさぁ……」と、どこかうんざりしたような調子で下手に出たのは、二日酔いどころか、脳全体がまだうっすらと揺れているような酩酊感のある中で、彼女の腕を掴み、無理やり鳥籠から引きずり出すような真似ができるとも思えなかったからだった。それに、一度こうやってへそを曲げられてしまうと、「いいから早くしろよ」などと言って籠を蹴りつけたって、出て来ないものは出て来ないことも知っていた。
片手を付くように鳥籠の柵を握りながら、その片隅に乾ききった草花や、萎れた花をどこからか持ち出してきた本に挟んで置いてあるものが詰まれているのに目を留めつつ、ピアソンがそうやって、珍しく彼女相手に下手な態度で出てきたのを見ていた怪鳥は、主人相手に言い分を押し通して満足気、と言う風でもなく、ちゃんと挨拶をしてくれたから、挨拶を返してあげる、というぐらいの自然さで、にこりと頬を緩めて微笑みかけた。
丁度その時、彼女がそれまで指先で萼(がく)の部分をしきりに撫で突いていたバーベナの小さな花がいくつかぽろぽろと落ちて行った。彼女はそれを合図にするように、手元に残った花のついた茎をぽいと床に放りながら椅子から立ち上がり、自ら鳥籠から出てくると、檻の扉を開けて待っていた彼の正面に立った。
「何かしら。」
怪鳥は明るい調子でそう言いながら、円らなばかりの金色の目で、じっとピアソンを見上げた。ピアソンは、そうやって正面からぶつけられる彼女の視線を厭うように顔を顰めていて、「いいから来い」と横を向いたままぶっきらぼうに言ったかと思うと、先導する具合にさっさと歩いて、部屋を出た。
いっときはあれほど気を引きたいと思って、「失敬する」ものの趣向を変えてみたりしたところで、結局何も上手くいかずに惨めになっていたものが、今になって、こうも呆気なく微笑みながら見つめられると「どうせこうなることが、こいつにはわかっていたんじゃないか」と思って、ピアソンは腹立たしい限りだった。もしこれで、ここしばらくの深酒をしていなければ、起き出してから頭が割れるように痛いことも、水を飲んでしばらく惰眠を貪ったところでまだ目眩が抜けていかないこともなく、そうすればしゃんとした頭で俺、主人としての成すべきことを――両手で斧を持っていつかと同じように鳥籠の部屋に行き、鳥籠の中でつんとすましているこの女をぎったぎたにして、身の程を思い知らせてやるという義務を、ひどく億劫に感じることもなかっただろう。そうでなければ、例の斧を持ち出して、今度は間違いなく、主人に従いもしないで袖にし続ける忌々しい恩知らずの、この女の手足どころか、首だって切り落してやるところだった。
だが、クリーチャーは深酒を止められなかった。だから頭は痛いし、今斧を振り上げることなんて、考えただけで気分が悪くなる。ピアソンがそうやってくさくさした気分で歩き続けていると、その内に、いつだったかこの女が出て行こうとするのを止めた――たぶんこの女は、クリーチャーがいつだったかそれを咄嗟に止めたのも、「外を勝手に出歩くな」とよく言い聞かせたのもすっかり忘れて、ここを通って、庭にでもどこにでも好きなように行ったに違いないが――玄関の、やたらと背の高い扉の前にたどり着く。ピアソンはそこで立ち止まると、自分の後ろを大人しくついて歩いてきていた怪鳥の方を振り返りつつ、片手にぶら下げるように持っていた宝石箱を突き出した。
夜光貝を隙間なく敷き詰めた滑らかな白地に、いつか彼女に渡されたものと同じような金細工の猫足。蓋の上には大粒の雫型にカットされたエメラルドが五つ、小粒のルビーの周りで開く花弁の形を模すように埋め込まれている。どこかの屋敷から盗み出してきたものだった。長らく空っぽになっていた中身には、同じように別の屋敷から「頂戴」してから長らく置きっぱなしにしており、単純にまだ換金が済んでいなかったものから、いつだったか彼女に見せてやって、でも気に入られなかったのをそのまま放り投げていた宝石類やアクセサリーを適当に(それこそ、机の上に積もった吸い殻なんかを、手で払い落とすようなやり方で)箱の中に放り込んだ分、ある程度の重みはあったものの、彼の貧相な片腕では引きずる程の斧よりは、遥かに軽いものだった。
「か、解放してやる。」
押し付けるように渡された箱を受け取り、怪鳥がそれをまじまじと見下ろしているのを横目に見遣りながら、ピアソンは吐き捨てるように言った。
「す、好きな、好きなところでさ、自分の、すす、好きなように、す、すればいいさ……。」
この女に、遅かれ早かれ出て行かれるだろう、というのは、技師を呼んで足を直させた時点で、ピアソンにも分かっていた。今は、今までにない程好きなように屋敷を出歩き、それで満足して与えた鳥籠に戻っているが、その内、他所に新たな場所を見つけるか、それとも気の向くままに、(いつだったか、お屋敷に忍び込んできた俺を相手に、そうさせたように)適当な奴に寄りかかってかどわかされるか。いずれにせよ、どうせ、近いうちに、空になった鳥籠を眺めるだけの日が来ることを、彼はいたって冷静に理解していた。こうやって考えてみればむしろ、今に至るまで、およそ機能していない鳥籠と部屋の鍵程度で、怪鳥をこの屋敷の敷地内に留め置いているらしいことが、奇跡に等しく思われる程でさえあった。
以前は兎も角、この生身の女なのか、それともただのよくできた人形なのか、未だによくわからないこれが最早、彼を好いているようにも思えないことも、ピアソンは(長らく目を背けてはいたものの)自覚していた。所有物でしかないくせに、大人しく主人に従うでもなく、俺のことを愛するでもなく、身勝手に振舞って、クリーチャーをこの上なく苦しめるこいつを懲らしめ、「所有物」が取るべき態度を理解させるため、宝石箱なんかよりも斧を持ち出してきて、ここでこいつをバラバラにしなかったのは、今日がたまたま、そういう荒事をするのにふさわしい体調ではなくて、俺がこれ以上、この「問題」にかかずらう気分でもなくなったということだ。クリーチャーの辛抱が今一つ足りず、そしてこいつの運が良かった。それだけの話だろう。
「じ、自由を、く、くれてやった、お、おお、俺様にさ、感謝しながら生きるんだな、アハハ……」
ピアソンが口角を片方だけ引き上げ、乾いた笑いを漏らしたところで、怪鳥は状況を呑み込めていないのか、件の宝石箱を両手で持ったまま、ピアソンの顔をじっと見つめてくる。トロ臭いやつだ。ピアソンは苛立ったように顔を顰めて、「ク、クリーチャーの気が、かっ、変わらないうちに、それ持ってさ、さっさと、さっさと失せろ。」と続けながら、手でしっしっと追い払おうとする。
怪鳥は、まるでそれまで何も聞こえていなかったかのように、ぼんやりとピアソンの顔――彼女から穴のあくほど見つめられている内に居心地の悪さを感じたのか、すっかりそっぽを向いて、今は半ば目を伏せている男の頬――を見つめていたかと思うと、その場に屈んで、自分の素足の横に、渡された宝石箱を置く。
そして何食わぬ顔でピアソンに向き直った彼女に、しっしと払う仕草をひらひら続けていた手の平を捕まえられ、その両手で握られると、ピアソンは何を思うよりも先に喉仏が動き、きゅ、と、惨めな程小さな音を立てて、静かに息を詰まらせた。ピアソンの節が目立ち指は長いが、噛み癖のせいで極端に爪の短い、お世辞にも綺麗とは言い難い手に、衒いなく触れ、そのまま握ってくる彼女の手指はほっそりとして、球体関節のところばかりそれらしく固い他は、まるで生身めいて柔らかく、血の通うような気配を見せながら、少しだけひんやりとしていた。その両手がピアソンの手を包むように握り、喫煙や飲酒といった悪癖のせいだけでなく、怯えるように震えている彼の骨の浮いたの手の甲を、そっと撫でていく。
高い位置にある尖塔型の窓から暮れかかる日光が差し込んできて、ドアの影に入り込んだ周囲の暗がりが、いっそう黒く塗りつぶされる。その中で、片方だけ桃色の花弁に縁どられながら、くすんだ金色をした彼女の目はそれ自体が光りを放つような明るさでピアソンに焦点を結んでいた。首を小さく傾ぎながら彼の顔を覗き込んでくる彼女は、今となっては遠い昔、ピアソンがたまたま忍び込んだ屋敷で、最初に、懐中電灯で照らして、鳥籠の中を覗き込んだ時と全く同じ、奇妙で煽情的な衣装とは似つかわしく無いようで案外似合いの、格好が毒々しい分かえって初心にすら見えるほど稚く、まるで少女のような顔をしていた。
それが、社交辞令程度に微笑んで礼を言うのも、ピアソンの胸に突き刺さっている程の記憶を、ただの過去として振り返るようなことを言うのも、或いは、冷たいばかりの目で見据えて来ながら、何か皮肉めいた恨み言を言ってくるのも、聞きたくない。ピアソンは頬を張られでもしたかのように顔をそむけながら思い切り顰め、力いっぱいに瞼を閉じる。なんて汚らわしくて、卑しい、恩知らずな女だ! お前の望み通りに、私はお前を解放してやったのに、どうして恩人である筈のクリーチャーを、こうも苛もうとする? 握られている内に体温が移って、段々と暖かくなる女の白く柔らかい手で握られるのがまるで、針で皮膚という皮膚を突き刺されているような痛みにも似て、ピアソンはそれを振り払おうとしたのだが、握り込んでくる力が存外に強く、振りほどけない。
「私の一番欲しいものが、自由だと思う?」
手を振りほどこうと身じろぐピアソンを見て、小鳥の囀るように笑いながら、いかにも若い娘らしく可愛らしい声で、彼女はそう言った。およそ予想していなかったそれらの言葉に思わず目を丸くしたピアソンは、そこでようやく冷や汗の滴る程の顔を上げると、ぽかんと口を開いたまま、茫然と怪鳥を見た。ようやく彼女の顔を見つめてきた惨めな男の間抜け面に、怪鳥は満足気に目を細めながら、口を開けてケラケラ笑った。
***
両脚を取り戻した怪鳥は、あまり趣味のいいとは言えない件の屋敷に残った。それからしばらくすると、青髭はいよいよ家に閉じこもって、街でその姿を見ることもなくなり、屋敷に雇われていたものたちは、皆暇を出された。
近隣の街では「青髭は死んだのではないか」という噂も囁かれたが、件の屋敷に人の出入りや生活の気配は見当たらない一方で、奇妙な気配が残っており、屋敷の敷地に近づくとどこからか、何かに見られているという不安を感じないでいられる者はいなかったので、結局青髭がいなくなった(らしい)からといって、その敷地に敢えて近づこうとするものは誰もいなかった。彼がこれまで重ねた所業によって、青髭の代わりに、何か「よくないもの」がその土地に住み着いたのだろう、と、特に信心の深い者の間では、そのような話になっていた。
その屋敷に長らく雇われ、そしてその他の雇われ人と同様に暇を言い渡された元庭師は、暇を言い渡された後に一度だけ、その敷地内に不法侵入をしたことがあった。何年にもわたって心血を注ぎ、手塩にかけていたいわば彼の作品のようなその庭を気に掛けていた彼は、長年連れ添った仕事を失った悲しみからさらに太り、いっそう自由と小回りの利かなくなった体で、辛うじて塀の破れ目を抜け、敷地内に潜り込み、敷石の合間から恐ろしいスピードで繁茂する植物に足を取られながら、自分のかつての職場に向かっている途中、かつての庭と建物を遮る痩せた茨の絡んだ柵――それは以前であれば、季節ごとに見事な薔薇を咲かせ、庭師の自慢のひとつでもあった――越しに、人影を見た。簡素な車椅子を押しながら上機嫌に歩く、例のやたら開けた羽毛のドレスに、奇妙な冠を被っているところまで、全く様子の変わらない娘と、少し草臥れた様子で車椅子に座らされ、押されるがままになっている青髭だった。気配を気取ったのか、彼女は金色の目で庭師が潜んでいる茂みのあたりを見つめたかと思うと、ベージュに近いリップで縁どられた薄くも艶っぽい唇で弧を描くと、くすくす笑いながら足を止める。そして、急に足を止めた彼女に、(何かあったのか)と聞くように振り返る青髭に、彼女は耳打ちをするようにも、口付けをするようにも、顔を寄せながら傾けた。
彼らがその通路をゆっくり時間をかけて通り過ぎ、彼女の相変わらずの裸足の足音と、ささやかな程の車輪の音が聞こえなくなるまでの間、庭師は茂みに潜んで息を殺し、彼らの気配が過ぎ去ったのを見てからは、どこからか彼の動向をじとりと睨んでいる奇妙な視線を振り切るように、腕を目一杯に振り回しつつ一目散に来た道を戻り、息を切らしながら敷地外に脱出した後は、それきり屋敷には近づかなかった。
かくして、以前は悪趣味な程手入れされ均等に刈り込まれていた植木は伸び放題となり、どこからの風で種が運ばれてきたのかもわからない蔦は、屋敷の外壁を青々と這いまわる。時折、元庭師のように過去の職場を懐かしんだものや、廃墟であれば以前の持ち主のお宝が多少なりとも残っているのではないかと睨んだ泥棒の連中などが、そこから侵入しては帰ったり帰らなかったりした塀の破れ目や隙間といった空間は、後から生い茂った草木によって程なくして食い潰され、やがて例の悪趣味な屋敷全体が、生い茂る草木の緑に呑み込まれていった。 (おわり)