ファウストによせて(タビコとヴェントルー) 育ってしまえば押しも押されぬ古き血の吸血鬼、日蝕の大鴉、六枚羽ことヴェントルーも、吸血鬼というひとつの生物である以上、幼少期というものがある。病弱な子供であった彼は、比較的体調の良い時にも、調子よく迂闊に外出なんかしてそれ以上体調を悪くすることのないように、できることといったら、本を読むことぐらいだった。当時人間の手による娯楽で、数え尽くせぬほどの退屈と孤独に塗れた幼心を慰撫した経験が、力を持つ吸血鬼の一角として名を連ねる現在において、彼が保持する人間に対する中立的な態度に寄与していない、と言い切ることは難しい。
『ファウスト』という戯曲がある。それは、若かりしヴェントルーの心に響くようなそれであったかといえば、そこまでではなかったような覚えもあるが、それにしたって、ある程度話の筋を覚えているからには、何らかの感興を惹くところがあったのだろう。
大方のあらすじはこうだ。誘惑の悪魔メフィストフェレスがファウスト博士の魂を巡り、神を相手に賭けをする。神は博士が善なる道を歩む方へと賭け、メフィストフェレスは異なる方へ――ファウストが誘惑のまま道を踏み外す方へと賭けた。翻って下界において、学問と研究の日々に絶望していたファウストはメフィストフェレスの誘惑に乗り、悪魔に魂を売り渡す代わり、現世でのあらゆる快楽と悲哀を体験することを望む。かくして若返りの霊薬を得たファウストは、町娘と恋をし、その家族を皆殺しにした挙句ついにその娘さえ失い、皇帝に仕え絶世の美女を妻に求めて、子供をもうけその子を亡くし、その一方で戦争を勝利に導き広大な所領を得るが、ある切欠によって視力を失い、あとは何だったか、何やかんやあって、兎角その魂は最後、あわや悪魔の手に掛かるという寸でのところで、最初の妻の祈りのよって天の国へ救済される。評判になるような戯曲にありがちな展開ではある。
遠景に見える山の輪郭が白み、東の空は幕の徐々に開くように蒼く明るんでいる。夜明け前のことだった。ヴェントルーがその晩開かれていた古き血の会合から冷やかされつつ少し早めに抜け出して、何をしているのかというと、ハロウィーンで浮かれ切った人間の出迎えだった。事もあろうに「靴下」の仮装(というか、着ぐるみのようなそれ)を着て、その下に果たしてどこまで着こんでいるのか着ぐるみの上からでは伺い知れないが、兎に角惜しげもなく脚を露出している女は、三角橋の上を低く飛べと言う。
上空を吹き渡る風は微かに冷たく、しかし、冬と言い切るには夜露の気配を含み湿った夜風の名残が、頬を切るように通り過ぎていく。一刻前までは、冬の入の気配の中で冴え渡るような様だった夜空は、夜明けを前にすっかり精彩を失っている。野暮ったく重々しいばかりの油絵の具に似た夜闇は、まだ淀みながら暗くはあるが、その果てにある眩い程の日の光の気配に胸焼けをする心地を抱いたまま、ヴェントルーは簡素な橋の上を低く飛んでやる。それも、青き血を持つ日蝕の大鴉ことヴェントルー・ブルーブラッドを捕まえて、自家用ジェットどころか、羽根の生えたタクシーとでも思っているのか、至極気軽に、電話一本で呼び出してくる人間からのリクエストによって!
こじんまりとした橋の上に渡された白い鉄骨の上をスレスレに飛んでやると、彼を呼びつけたモグリ退治人の女は、ヴェントルーの鉤爪を掴んだまま両脚をぶらつかせ、鉄骨の上を走るフリをしては仰け反って、何がそんなにおかしいのか、まるで品のない笑い声をげたげた上げていた。早くも徹夜が響いているのだろうか? そうでなくとも、性癖を追い求めるあまりギルドを追い出され、実質失職に近しい状態にあったこのタビコという女は、無謀というより、むしろ危険好みな性質があった。
彼女に物質(ものじち)を取られているヴェントルーの利害としては、この女にはとっととくたばってもらった方が良いのだが、しかし、この古き血の吸血鬼が太刀打ちできず、いくら吸血鬼をどうにかする訓練を受けている退治人とはいえ、ダンピールですらない、生身の人間――性癖のために失職を厭わない変態であることは、考慮に入れるとしても――がくたばるのを待っているというのも、「人間に良いように使われている」ということでただでさえ悪い外聞が、さらに地まで落ちていくのを静観するようなものだ。自分が靴下を奪回する目処を立てるまではピンピンしてもらわねばという義務感覚から、ヴェントルーはタビコから申し付けられる家政夫の仕事にも精を出した(彼が元々真面目な気質を持っているというのもあるが)し、一辺倒にもてなすばかりの料理スキルを披露するだけでなく、人間の体に則した栄養学を学び、タビコの食事に応用した。このように、ひとまず内側からの彼女の健康はヴェントルーの管理下に置かれているとして、問題はタビコの危険好みであり、外傷に関しては如何ともし難いということだ。
「あまり暴れるんじゃない! 落としたらどうする」
足元に捕まりながらぐらぐら揺れる人間に向ける、やや切羽詰まって声高な叱責に続けて、「これだから人間を連れるのは嫌なのだ……」と独りごちた大鴉の、鱗に覆われた鳥足を握り、流石に優秀な退治人ということもあり、危なげなく自重を支えるタビコはついと顎を上げ、なにかと嵩張る六枚羽の姿を見上げると、ゴウゴウと向かってくる風の中でも届くほどのくっきりとした声で「おまえ、他の人間を連れることがあるのか?」と言う。
「まさか!」
それに続けて、「古き血の吸血鬼、このヴェントルー・ブルーブラッドを捕まえて、タクシー代わりを許される人間等いるわけがない!」と、ともすればヒステリックに喚く大鴉の姿に、タビコは満足気ににたりと悪趣味な笑い方をし「そうだろうな」とにたにた続ける。その悪趣味に満足気なにやけ面に気付くと、ヴェントルーはそれきり黙り込んだ。
そこで、『日常的に畏怖しろとは言わんが、少しは我が輩が強大な吸血鬼であることを意識しろ』とまで続けないのは、彼らの関係がそもそもタビコを主とする主従関係であり、物質さえ取られていなければ、この程度の退治人、甚振ってやる程の余裕さえあるのだという、ヴェントルーの自負ゆえである。
彼らの関係は、「支配するものされるもの」と言う他なかった。あろうことか、彼女は彼の支配者である。なればこそ、古き血の吸血鬼であるが故に多くの制約を受け、彼自身もいたって生真面目な性質であるヴェントルーは、あろうことか! この生身の人間の女に囚われているのだ。
吸血鬼ヴェントルーは人間社会に対する態度こそ中立であるが、強大な力を持つ吸血鬼であることには変わりなく、何より、「人間社会に対する態度が中立である」ということは「進んで人間社会と対立しない」というだけで、「人間に危害を加えない」ことを意味しない。本来は、人間の面倒を進んでみるような性質の吸血鬼ではないのだ、物質さえ取られていなければ。
ヴェントルーは彼の支配者について、そう多くのことを知らない。知る必要がないからだ。知るべきではない。物さえ取り返せばそれでいいのだ。それさえなければ、この古き血のヴェントルーが屈辱的な支配――人間の生活スタイルに合わせて給仕のように夜ごと働き、時に屈辱を受けた証であり今の生活に甘んじることのないようにと履いている左右で不揃いの靴下を「踊り食い」と称して口でひん剥かれ、挙句スラックスの襟元や、ベルトを締めている腰元から手を差し入れられ脱がされるまま脚を弄られるといったセクシュアルハラスメントを受ける謂れはない。
「お前の靴下を奪った時に全てが変わった」と、タビコは誇らしげというには猥りがわしく口角を歪め、頬を紅潮させながら言ったことがある。いつだったか、ある日の夕食時だ。付け合わせのホウレンソウとモッツァレラのラビオリをフォークで捕まえようと突きまわしながら、あの女はそう言った。
フォークが皿に接地してカツカツと音を立てるのを二度までは聞き流したが、三度目の「カツン」を聞くにつけ我慢ならず、ヴェントルーがそれは食事の作法として如何なものかと苦情を付けようかと、ただでさえ皺の寄りがちな眉間に一層の皺を刻みながら思案したところで、フォークの先は無事ラビオリを捕まえ、口に運ぶ。続けて「うまい」と零される言葉に溜飲が下がって、ヴェントルーは自分が何を注意しようとしたかを忘れる。
この女は美しい所作をするという程ではないが、およそ食材ではない衣類を頬張るところを除けば、ヴェントルーの我慢ならない程に下品な仕草をする女ではなかった。
メインのほろほろになるまで煮込んだ牛すね肉をスプーンで崩し、ブラウンシチューと共に口に運び、音も無く食べる。基本的な所作はヴェントルーがこれまで――この女に物質を取られ、この家に三日と置かず足を運ぶような隷属の憂き目を見るまで――気まぐれにもてなした上等な人間や同胞の者ともそう遜色がない。むしろ時折、「必要もなく野放図に振舞い、無礼を働くこと」を、生真面目に実行しているようにも見えた。
口に放り込んだ肉が少し熱かったのか、水を飲む勢いでワイングラスを開ける。タビコが酒に呑まれて酔っぱらうのを、ヴェントルーは見たことがない。仮にこの相手が吸血鬼でも、「お前それはちょっとどうなんだ」と言いたくなるような享楽趣味の女だが、案外その辺りは「身体が資本の稼業だから」などとストイックなことを言うのかと思えば、単に酔わない体質だというだけらしい(別段酒に酔っぱらっていなくとも、四六時中、悪酔いして理性を失ったとしか思えない行動をしていると言えばそうだと、ヴェントルーは思うが。)。
「酒は、お前が家に来てから飲むようになったんだよ」
ヴェントルーの質問に返した答えから続けて、タビコは言う。
「私はな、大いに真面目な退治人だったんだ」
タビコは口を動かしながらバターを載せ溶かしたふかしジャガイモをナイフで切り分け、それを、「お前の靴下を奪った時にな、へはいああわった(世界が変わった)」と、動かしている最中の口に放り込むと、「うまひ」と咀嚼しながら喋る無礼を働いてから呑み込んで、「お前には感謝しているんだぞ、ヴェントルー。思うままに生きる世界は美しいものだ」と、ヤギのように横幅のある目を細め、笑いながら首を竦める。顎先のラインで散切りに切り揃えられた赤っぽい茶髪が揺れている。
(私はお前の伴侶、召使、あるいは奴隷になって、お前に仕えよう。お前の望むままに救い、望むもの全てを与えよう。)
その一節の続きをヴェントルーが思い出したのは、タビコが救急搬送された先の病院でのことだった。はぐれ退治人でありギルドに所属しない彼女の緊急連絡先に指定されていたのが、タビコが契約した副回線の携帯電話であり、それはヴェントルーが彼女に言いつけられて持ち歩かされているものだった。彼奴(きゃつ)に靴下を狙われた哀れな同胞が、ともすればその生の中で初めて見たのやもしれない人間の変態に慄き、外階段の踊り場からコウモリに変化して飛び去るのも構わず、そのまま飛び出した挙句、吸血鬼か人間の変態かどちらが通報されたのか真偽は不明であるが、現場に居合わせた吸対の人間が言うことには、そのまま空中に飛び出した奴は、まさしくギャグマンガの体勢で宙を掻きながら「あっやべ」とか何とか零したかと思うと、言うに事欠いて我が輩の名前を絶叫しながら、真っ逆さまに墜落したらしい。
下に停められていた違法駐車のボンネットに墜落したからまだ良かったものの、運よく受け身のような格好になっていなければ、そのまま首の骨を折ってあの世に行っていてもおかしくなかったと。
「何故我が輩の名を叫んだのだ」
たまたま他に患者のいないタイミング、かつ吸血鬼の来客ということで配慮されたのか、赤い西日がカーテンに遮られて薄暗いばかりの病室の中、蒼白に近しい顔色の額――吸血鬼の顔色としては別段珍しくもない――にヴェントルーが手を宛がい、おそらくは間抜けの極まるその現場で、己の名を出されたことの恥ずかしいやら何やらで顔を上げていられないと言いたげに俯き、肩を丸めながら問うと、伊達に肉体労働で生計を稼いでいるわけではないのか、中空で受け身の姿勢を整えたはいいが、流石に六階からのフリーフォールには耐えきれなかった様子で、固定された腕ごと包帯で固められ、天井から吊るされている状態で病床に横たわっているタビコは、頬に大きなバンドエイドを貼られた顔のまま、今日の楽しかったことを報告する子供じみた明け透けな笑い方で「お前を呼べたら便利かなって思った」と言い出す。この調子では、次からお前も靴下狩りについて来いと言い出しかねない。
「我が輩は断る」
「何をだ?」
「…………」
同胞を退治する真似は好かんし、お前の変態行為の片棒を望んで担いでいるわけではない……と続けかけた言葉を腹に仕舞いながら、すっかり俯いていたヴェントルーは、呆れ顔で吐いた溜息分の息を吸い込むついでに顔を上げた。
「お前は吸血鬼になるべきだ」
「さもなければ我が輩の身が持たん」と続けるヴェントルーに、タビコは苦いものを噛み潰したように眉を顰めながら「断る」と、にべもなく切って捨てる。
「生身の人間に打ち倒された時に、お前たちは一番いい顔をするんだ」
地上六階から車のボンネットに向かって落下したにしては奇跡的に、しかし満身創痍であることに変わりはなく管に繋がれ、白い病床から身動ぎも難しい格好で「この楽しみは、生身の人間でしか味わうことができないんだ」と、タビコは眉根に皺を寄せながら不満げに瞑目し、一人でにウンウンと頷いている。もし腕に包帯を巻かれ吊るされていなかったのなら、腕組みもしていただろう。
「それぐらいのこと、お前はとうにわかっているものだと思っていたが」
そう言って不満げというには透き通るような、無表情めいた面持ち(日頃の悪趣味な笑い方が抜けると、この女はどこか無機質な顔立ちをしている)で不思議そうに問いかけてくるタビコを前に、ヴェントルーは敢えて何も深いことを考えず、「お前の滅茶苦茶に付き合わされる方の身になるべきだ」と語尾に舌打ちを滲ませるような調子で返した。
人間と吸血鬼は異なる種族であり、生身の人間は脆く、その命火は当然短い。それは、さながら火花のようなものだ。この女が望む生き様こそがそれであろう、と、ヴェントルーはとうに承知している。
(私はお前の伴侶、召使、あるいは奴隷になって、お前に仕えよう。お前の望むままに救い、望むもの全てを与えよう。)
百年以上前、ヴェントルーがまだ幼く、その身体が今よりも遥かに弱かった頃、暇つぶしに幾度か読み返すこともあった戯曲の一節を思い返す。
(ただしそれが全て叶った後、お前は地獄で私に尽くし、私に仕え、私を支えるのだ。)
このド変態から傅かれる等、想像するだけで鳥肌が立つぐらいだ。ヴェントルーにとって彼女は、理不尽な支配者でしかなかった。それに傅かれる等、ぞっとする程似合わない。しかし、以前までは何であれ、人間の社会というものに御されていたこの女の箍をすっ飛ばしたのはおそらく偶然であり、しかし、それは我が輩である。ヴェントルーは、その点についても自覚的であった。
この女が元は真面目であることを知れば知る度、力量の差を知っていながら自分に向かってきた、愚かな赤毛の女の蒼白した恐怖の顔を思い出すにつけ、ヴェントルーは、ため息を吐きたいような気分にもなった。責任を取ってやろうというのではない。型に嵌った生き方で永らえようと、退治人なんて職を選んでいる時点で、その命火の長さはたかが知れている。『何故そんなことを言うのか』と聞かれるようなことがあれば、なんとなく、とでも返せばいいだろうと思っていた。
「お前が言う冗談はつまらんなヴェントルー」
がっかりだ、と、大して気持ちも籠っていない風に続けながらタビコはこれ見よがしにハァと深いため息を吐いたが、それが肋骨に入ったヒビに触ったのか「っぁいたたた……」とそこばかりは女らしく、僅かに感極まるような高い声で呻いたかと思うと、何故かいい笑顔で(彼女は甚振る側に回る方を余程好むようでいて、変態行為に邁進して受けた傷を「名誉の負傷」と言って憚らないところもある。)、「ヴェントルー、そこに置いてあるあれ、あれ取ってくれ」と、先程失望したような身振りを取ったのもさておき、包帯でぐるぐる巻きにされていない方の腕を伸ばして、宙を掻くように指を動かす。
ヴェントルーは彼女が手を伸ばした先、病床の脇に置かれた彼女のコート――その内側にずらっと、その日の「戦利品」が吊るされているおぞましい上着――を一応手に取り、しかし、それを言われるままに寄越してやるのもなんだか癪だと言う程の心地で、尖った爪と長細い指、筋の目立つ吸血鬼そのものといった風の手でコートを握る。そうやって不自然に硬直するヴェントルーに、痺れを切らしたタビコが「ウッ あ~ ヴェントルー!! 早く寄越してくれ ほら、いい子だからさぁ、意地悪言ったのは悪かった。だからさ、ほら!」などと、流石に傷が痛むのもあってか控えめな声で騒ぎ立てるのを横目に、ヴェントルーはさらに数秒間、むくれたように黙りこくっていた。