Waltz for Debby(庭師遡及衣装妄想 庭師と初期組) あくまで姿を見せない荘園主は、気まぐれに招待客(サバイバー)に衣装を贈る。荘園主の気が向くと、ある朝リボンのかかった箱がサバイバーの部屋の前に置かれていることもあれば、ナイチンゲールと名乗る大柄な女性――仮面舞踏会さながらのマスクで目元を隠し、両肩から大きな翼のようなマントを垂らしている。気品がありながら豊満な胸元、コルセットで引き絞られたウエスト、鳥籠さながらのクリノリンの下には――猛禽類のような、どころか、そのものといったところの、鱗が隙間なく敷き詰められた両脚――から、「荘園主からの贈り物です」という言伝と共に渡されることもある。
今朝、エマ・ウッズの部屋の前に置かれたプレゼントボックスの中に入っていたのは、シルク地のイブニングドレスだった。晩餐会の絞られた灯りの中で一際映えるであろう鮮やかなビリジアンブルー、右肩は大きく開いて、若々しい首元を覆い隠すものは何もない。右肩には、ちょっとした枝葉を交えた花束を思わせる、可愛らしいカナリヤ色のコサージュ。細身の体のラインを魅力的に引き立てるマーメイドラインに、腰元を横切る白いリボンが可愛らしい。
さらに箱の底には、この衣装のために拵えたのだろうとはっきりわかる様々な装飾品があった。ビリジアンブルーの差し色が目に鮮やかな白いハイヒール、黄色く一つ一つが細かな花々(ミモザをモチーフにしたのだろう)を編んで作った冠のような髪飾り、花柄レースのチョーカー、サファイアに近いブルーの宝石が嵌めこまれた揺れるピアス、花柄の刺繍が施されたフォーマルバッグの持ち手はチェーンだ。
それが「遡及」と呼ばれるシリーズの衣装である旨が、箱の蓋の裏にタグ付けされていた。もしも荘園に来ない未来があったのならば、きっとこういった衣装に袖を通したのだろう、という趣向のもと、荘園主がデザインをしているのか、はたまた他の誰かがデザインをしているのか……その内訳は誰も知らなかったし、そこにそこまでの興味を持つ者もいなかった。
日の出とともに目を覚まし庭の一通り手入れを済ませてきた後に、自分の部屋のドアの前に置かれたプレゼントボックスを見つけたエマは、一旦両手に抱えてそれを部屋に持ち込み、箱を開け、内側に納まっているイブニングドレスに目を丸くして、箱の裏にぶら下がった「遡及」のタグに気付く。そして、突如現れた美しい衣装を目の前に、知らず知らず詰めていた息をはあっと、感嘆めいた溜息のようにこぼしながら、少なからず土に汚れていた自分の軍手を外すとジーンズのバックポケットに引っ掻けてから、自分宛に贈られた遡及衣装、そのイブニングドレスの、滑らかなシルク地を恐る恐る撫でた。
もしも自分に、「荘園を訪れることがない未来」があったならば、ということを、彼女はこれまでに考えたことがなかった。彼女の人生は常に、彼女の預かり知らないところでその調子を乱し、狂わされていたからだ。彼女自身に選択の余地はなかった。少しも無かった。何故なら、リサがほんの子供だったから。
けれど、もしも、あの病院から逃げおおせることが出来たのなら。もしも、先生がリサを見捨ててどこかに行ってしまうことがなかったら。もしも、お父さんがリサを孤児院に捨てたりなんかしなかったら。もしも、お母さんが、私たちを――お父さんとリサを捨てて、出て行ったりなんかしなかったら。もしもリサに、お父さんとお母さんがいて、ずっと一緒にいて、お父さんの工場のお仕事が上手くいっていて、リサがほんの小さかった頃までみたいに、家族みんなで仲良く暮らして、お庭のあるお家に住んで、お茶会を開いて、晩餐会にお呼ばれして、そんなことが、そんなことがあったなら……
「エミリー先生!」
エマの弾む声にエミリーが振り向くと、普段通りの格好――破れ目にツギを当てた緑のエプロンに、日頃の労働に適した簡素なシャツに細身のジーンズ、軍手にブーツ、少し擦り切れた麦藁帽子をしっかりと被っているエマが、にこにこご機嫌に笑いながら立っていて、「荘園主さんに栗を貰ったから、今から焼くの。おひとついかが?」と言って、エミリーの返答を待たずに一歩二歩と近寄ってくると、両手で彼女の手を取って、きゅっと握る。
その後ろで、栗の下処理を手伝わされ、今は手に栗の入ったボウルを持っているライリーが露骨に顔を顰めていたものの、敢えて声を上げて不満を訴えることはなかったので、エミリーはそれに気付かないまま、エマの誘いに乗った。試合の再現が目前に控えているわけでもなく、別段断る理由もなかったのだ。
晴れた空に秋めいた薄雲の棚引く空模様だった。若干肌寒さのある庭で火の番をしていたピアソンは、エマが戻ってきたことに気付くと、焚火から顔を上げつつ「あ、ああ、あんた、これさ、」と何かを言いかけたものの、彼女がエミリーの手を取ったまま、ライリーを従えるように戻ってきたのを見るとあからさまに顔を顰め、それまで自分が何を気に掛けていたのかを忘れた。
火の中に栗を入れて待っている最中、特段弾むような話もなく、エミリーに話しかけているエマだけが一人で楽し気にしていた。
不愉快極まる顔を眼前に二つも並べられたライリーは、何となればこんな場所に居合わせるぐらいならば、さっさと自分の部屋に戻ろうかと考えていたものの、成り行きでナイフを持たされ栗剥きを手伝わされた最中、指に二、三つ切り傷を作っていた上、風向きの関係で丁度焚火の煙を浴び、シャツをすっかり燻された辺りで気が変わっていた。
これから手ぶらで部屋に戻っても、一方的に損をさせられただけで終わるだろう。どうせろくでもないことになるのなら、この顛末を見届けてやってからでいいだろう。毒を喰らわば何とやらという奴だ。特段することもない荘園の生活の中で彼はこの頃、「地獄での再会」を果たすまでの長い長い暇の時間に、いっそ辟易すらしていた。試合に出るのにも寝て暮らすのにも、書庫の本棚をしらみつぶしに読んでいくのにも、限度というものがある。どうせクソ塗れの気分であることに変わりはないのだし、今は火でも見て時間を潰すかという気分になっていた。
エマと隣り合って立ち、彼女に手を握られるままになっているエミリーは、今に栗が破裂するのではないかと若干ハラハラしながら、普段よりも幾分明るい様子で、今朝の庭の様子について話し続けるエマを相手に、丁寧に相槌を打っていた。
彼女らが仲睦まじく会話をしている様を、ピアソンは時折じとりと横目に睨みながら、むっつり黙り込んだまま、植え込みで拾った木の棒を使って、焚火――エマの後をつけて彼が庭に入った時には既に着火されており、彼女はピアソンがやってきたのを見ると「丁度良かった!」と弾む声で言って、火を見ていてくれるように彼女の方から頼んだのだ。その時聞いたところによると、火種は枯れ葉と藁、そして、彼女の部屋にあった「いらないもの」らしいが――をつついていると、先端が何かに引っかかった。何だと思って手前に引っ張り出してみると、飾りは全て燃え落ち、元の色がわからなくなるまで煤けたハイヒールの無残な姿が目に入る。
「っお、おい、これ……!?」
ともすれば怯えるように上擦った声を上げたピアソンはそこで、彼女が栗の下処理を終えて庭に戻ってきた時に、何を聞くべきかを思い出したのだ。『一体何を燃やしてるんだ』と聞こうとした。何せ、焚火からは妙な臭いがしたから――エナメルが溶けるような。
「なんでもないの」
いつの間にかピアソンの隣にやってきていたエマは、彼の手から枝をそれとなく取り上げると、平然とそう言いながら、ハイヒールの残骸を火の中に押し戻す。「何かあったの?」と言うエミリーは、エマが枝で押し戻したそれには気付かなかったようだった。エマはその問いかけに答えるようにして、もう一度「なんでもないわ!」と、今度はエミリーに向かって微笑みかける。
「私ね、いらないから燃やしたの。だって、そうなるかもしれなくって、でも、本当にはならなかったことは、最初から、無かったことと同じだもの」
そうやって緑の目を細め、柔らかく微笑む可愛らしい患者が続ける要領の得ない言葉に、エミリーは感じの良いように微笑みを返しながらも、うっすら首を傾ぎ、しかし、ここで敢えて「どういうこと」かを問い直すべきか否かを考えていた。
より直接的な物を見ているピアソンは、もしここで燃やされているものが、荘園主から庭師宛てに贈られたシルク地のイブニングドレスだと知っていれば、(金になるようなものを燃やすなんて!)と悲鳴を上げただろう。しかし、彼が実際に見たものといえば靴の残骸程度だったため、(いらないっていうんだから、まあ売りに出せないぐらいのものだったんだろうな)と思考を自己完結し、敢えて口を動かすこともない。各々が黙りこくっている内にパチンパチンと、弾けるというには控えめな音が火の中から聞こえると、煤の臭いに混じり、栗の焼ける甘く香ばしい匂いが漂い始めた。