解散(オフェンスと傭兵) 12月XX日 俺たちは荘園を脱出することに成功した。「狩人」が俺の強烈なタックルを喰らって悶絶している間に、ナワーブがゲートを抉じ開けたんだ。俺たちはそこから脱出した。
二人での脱出は、「引き分け」の扱いになるらしい。「ゲームの勝者」には賞金が与えられるという話だったが、そのせいか、俺たちに賞金の話は回ってこない。そもそもこの「試合」が、何を以て終わりになるのかもよくわかっていない。悪夢のようなあの試合は、本当に終わったのだろうか? ゲームが行われたフィールドに戻ったら、今もまだ、あの狩人がうろうろしているような気がして、俺もナワーブも、「賞金がどうなったか確認するために荘園に戻ろう」とは言いださなかった。
とはいえ、本来四人揃えて開始になるところ、ペナルティだ何だと難癖をつけられて(あの野蛮な人が失踪してから荘園主はあろうことがセルヴェ・ル・ロイを外から呼んできて、その間中俺たちを待たせたくせに!)俺たちの試合は二人で始まったのだから、そこから二人で脱出したのなら、それこそ賞金に値するような好プレーではないか、と、ウィリアムは思っている。
何せあの馴れ馴れしい狂人は、例のマジシャンの罠に嵌められて、ゲームを始めるよりも前の段階で殺されてしまっていたし、セルヴェ・ル・ロイ――師を殺すことに何の躊躇いもないあの男――も、同じようなものだった(だって仕方がなかった! あいつに殺される前にあいつを殺さなきゃ、俺たちだって死んでいただろう。)。
「ペナルティ」としてのゲームが始まった時、チームの面子はこの俺ことウィリアム・ウェッブ・エリスと、後は傭兵のナワーブの二人きりで、まあ何とも心許ない感じだったが、嘆いたところで、せめてあの馴れ馴れしい男が生き返って参加してくれるわけでもない (セルヴェ・ル・ロイに目覚められると身の危険に繋がるので、彼に関してはそのまま寝ててもらっていて構わない。)。
俺はもうこの際切り替えて、絶望的にフェアじゃない状況にせよなんにせよ、兎に角、目の前の試合に集中することにした。ナワーブもきっとそうだろう。あいつは頭が良い――セルヴェ・ル・ロイの罠を見破り、逆にあの恐ろしい男をカマに掛けたんだ。
その時、あんたがもしもチームメイトだったなら、間違いなく司令塔になっただろう――という賛辞を俺が贈ると、常に薄汚れたフードを深く被っているあいつは、何を考えているのか読みにくい平たい顔、アジア人らしい細い目で俺を無感動に見遣ると、「はは、」と息を漏らした。冗談を笑ったのか言葉が気に触ったのかよくわからなかったので、俺が「気に触ったなら謝る」と簡単に付け加えてみると、ナワーブは、気安く肩を竦めるでもなく突っ立ったまま、「気にしていない」とだけ言った。
それから暫くして、続いていた無言の時間に、(やっぱりあれは気に障ったんだろうな)と俺が理解している頃に、あいつはふっと口を開くと、「お前は、兵士に向いていない」と、唐突に言い出した。
「エリス、お前は良いやつだよ。だから、兵士には向いていないと思う」
そう言ったあいつはにこりともしなかったが、口角を僅かにひくつかせていた。お前、それで笑っているつもりかよ! ウィリアムはその時に、この男を――ナワーブ・サベダーと名乗るアジア人の傭兵を、仮初であれ“チームメイト”として、信用することにしたのだ。
冷静になって考えればおかしな話だ。数刻前にセルヴェ・ル・ロイの血が付いた包丁を洗って乾かした手で俺はあいつの肩を叩き、「ウィリアムでいいぜ」と続けて言ってやった。
「サーネームで呼び合うなんて、まどろっこしいことはなしにしよう」
例の荘園から脱出する時、ナワーブは「狩人」のチェーンを絡めつけられた足首を痛めていたし、いずれも荷物を取りに戻る間もなく、殆ど着の身着のままの格好で逃げて来て、俺たちには先立つものも食料もない。
行く宛てもなくしばらくのあいだ森を歩いていたら偶然見つけた木こり小屋に入り込んで、木の床の上に適当な石を並べ、その上から組んだ薪を燃やしながら、一旦霜を凌ぐことにした。
その木こり小屋の中には先客が残していったものか、一通りのキャンピング用品が残されており、小動物の歯型がついていることに目を瞑れば十分食用になるビスケット(俺は謹んで遠慮したが、ナワーブは何も気にする様子もなく齧りついていた)に、いくらかの肉の缶詰(これには俺もご相伴に預かった)。そして、方位磁針があった。
ネズミの食い掛けのビスケットを頬張った口元をボロ布を巻かれた腕で拭っていたナワーブは、掴んだ方位磁石を何度か揺らして磁場の狂っていないことを確かめると、思わず零すといった風に「助かった」と言った。これでこの森を抜けられる。ここさえ抜ければ、ナワーブの“仕事仲間”と落ち合えるらしい。何でも、あいつが荘園のゲームに参加した理由は任務の遂行で、任務遂行の暁には荘園の外で仕事仲間と落ち合う話になっているんだそうだ。
「お前、上手くやったんだなぁ」
ウィリアムが茶化すような笑い方を意識してそう言うと、ナワーブはそれに頬を緩めもせず、「お前の協力が不可欠だった」と返してくる。
ナワーブの、ともすれば仏頂面に見える表情の読みづらさは、彼の面相の割には流暢な言葉遣いを、いちいち真摯な言葉のように響かせた。名誉を重んじるスポーツマンであるウィリアムにとって、仲間からの賛辞は一つの報酬でもある。まあ、それ以外の先立つものも重要ではあるが。
「お前は俺を操るのが上手いな」
そう言いながらウィリアムがおどける具合に肩を竦めると、ナワーブは少し心外だ、と言いたげに、眉頭をぐっと寄せていた。
彼らが木こり小屋に潜伏したその夜はぞっとするような満月で、照らし出された森の中はさながら昼間のように明るくなったことが、かえってウィリアムを不安にした。
“俺たち”は、正当な手段でゲームを“クリア”した。結果は勝利としてカウントされはしないようだが、それにしたって、追手が掛かるような覚えはない。しかし、ゲーム開始前の「ペナルティ」というアナウンス、そしてゲートの外に出ても執拗に歩みを止めることのない、大男の身体に鹿の頭を継いだ、おぞましい「狩人」の姿――それを思い出すにつけウィリアムはぞっと身震いをし、粗末な木こり小屋が作る僅かに暗い影の奥へと身体を収めようと躍起になった。
ともすれば臆病にも映るだろうウィリアムのその態度を、ナワーブは嗤いはしなかった。彼もまた「追手」のことを考えているのかどうか、ウィリアムにはわからなかった。敢えてそのことを口に出すと本当に追手がかかるような気がして、ウィリアムはその話をナワーブには持ちかけなかったし、ナワーブはそもそも口数の多い方ではなかった。
しかしその夜のナワーブは、ウィリアムの持つ不安を持っているとは思えないような態度であった。彼は随分リラックスした様子で、木こり小屋の屋根が作る影の中に身を隠しながら、常に被っている例の薄汚れたフード――その頃には、流石のウィリアムも、あれはカモフラージュ目的のものだろうと理解していた。筋骨隆々として見事に鍛え上げられた肉体を持つウィリアムと比較すると、なんとも小柄な体系のナワーブの姿は、少し茂みの中に入ると途端に木の葉に紛れ、文字通りに「見えづらく」なる――を目深に被りながら、視線は常に上にあった。それは、遠くにあるやもしれない敵の気配を索敵しているのではなく、ただ空を眺めているように見えた。
やがて風が吹き、銀と金の混ざりあった見事な色をした月明かりが、風にがたつく小屋の扉の間から一筋入り込んで、ナワーブのアジア人らしい低さの、平たい印象を与える鼻梁を照らし出す。
「……おい、ナワーブ」
東洋風の男の顔立ちを、正面から一太刀浴びせるように月光が照らし出している。その静謐に近い光景に耐えきれなくなったウィリアムは、若干うんざりした声色でナワーブを呼んだ。彼は美術館に落ちる静寂の類を耐えがたいと感じている類の性質だった。よくわからない絵を見て、よくわかったフリをすること程くだらないものはない。
それに、こんなに不気味な月明かりを浴びて微動だにしない男を見ていると、今にもこの男が、例えば狼人間にも姿を転じそうで、一層不気味に感じられた。こういう不気味なときは、何か俗っぽい、くだらない話をするべきだ。好みの女のタイプでも聞いておくのが適当かと、ウィリアムが歯切れ悪く考えていたところに、「ナワーブというのは、」と、普段通りのどこか抑制したような規律正しい英語――軍隊風の抑揚だ、と、ウィリアムは感じている――で、ナワーブが口火を切った。
曰く、名として名乗ったナワーブというのは、ヒンディーの連中が使う言葉で「副官」ぐらいの地位を意味し、姓として名乗っているサベダーというのは、陸軍の連中が使う階級の名前らしい。
何で今そんなことを、と言う代わりに、ウィリアムはさも今ピンときたと言いたげな調子で「偽名、というか、そうだな、通り名みたいなもんか」と相槌を打った。この不気味な夜に絵画のように黙り込まれてしまわないのであれば、それは何であれ、話題としてはちょうどよかった。
ナワーブ(というのは、たった今この男の名前ではないと明かされたが、ウィリアムはこの男が「ナワーブ」であるということしか知らないので仕方がない)は、ウィリアムが気安く話に乗ってきたのを見ると僅かに口角を上げ、「俺の名前は、」という平凡な名乗りに続けて、彼の名前を名乗った。その発音は彼の故郷の言葉であり、英語圏出身者であるウィリアムには、耳馴染みのないその響きを口で繰り返すことも難しい。
困惑したように首を傾ぎながら絡まった音を反芻するウィリアムを、ナワーブはあっけらかんと笑った。そこには、名前を正しく発音できないウィリアムを相手に彼は気分を損ねた風もない。ナワーブはそのように、さっぱりとした笑い声をひとしきり上げた後、「寝る時間にしよう」と、また脈絡もなくそう言った。
他人の混ざり物のない笑い声によって多少気力を取り戻したウィリアムは「お前は親かよ」と言ってナワーブを小突いたが、ナワーブは言い出した就寝時間を譲ることもしなかったので、そこまで粘る理由もないウィリアムは、じきに月明かりの届かない物陰を選び、そこに蹲って寝る姿勢に入った。
翌朝、ウィリアムが起き出した時に、既にナワーブの姿は見えなかった。すっきりと晴れた朝のうちは、あいつは小動物を狩りにでも出ているのか(いかにもやりそうだ)と思いウィリアムも大して気にもかけていなかったが、昼を過ぎても戻らないのを見ると、流石に何かあったか(或いは、あいつは俺を置き去りにして、仕事仲間と合流することを選んだか)と思い始めた。
「ナワーブ」と発音に苦労しない呼び名を呼び、小屋の周囲を見て回っても雪の上に足跡らしいものは無く、中には雨露を凌ぐ程度の一部屋しかない小屋をひっくり返すように探し回ったところで、ナワーブの落としていったようなものは何一つ、それこそ、ボロ布一切れさえ見つからなかった。
そこにあるのは、ウィリアムが昨日食べて殻をそのままにした肉の缶詰と、ナップサックの中に乱雑に詰め込まれたキャンピングセット。それはまるで最初から、この小屋には、自分以外の人間も、存在していなかった、というような――ぞっとしない想像に、ウィリアムは顔を顰めた。
考えてみれば、雪の降りしきるような季節に、地図もない郊外の森の中で置いてけぼりを喰らったのだから、もう少し絶望的な気分になったっていいものだが、ぞっとするような月の出ていた昨晩、あの男が口にしたその名前の持つあまりにも聞き馴染みのない、聞いたそばから頭に染み付かずに忘れていくような音の連なりは、ウィリアムの中で著しく現実味の無いもので、成る程あの男は夢まぼろしのような存在だったのだろう(どちらかというと、暗い影とか言った方がしっくりくるような、陰気な顔立ちをしていたが)という具合の言葉が、ウィリアムの肚の裡にしっくりと収まっていたので、彼は現状を認識したところで、ただ顔を顰める程度のことで済んでいた。