mimosa(泥庭+弁護士) 黄色く細かい綿埃めいた花が、しなだれるような枝先に向かっていくつもの連なっているそれには、ミモザという名があるそうだ。ピアソンにとっては、敢えて注目したこともない花だった。とはいえ、ミモザは都市の生活環境のなかではいたって身近な植物であり、日当たりのいい屋敷の南側の生垣や、こじんまりとして感じのいい庭の入口の門などに覆いかぶさるように生えて、春先には黄色く感じの良い花をつける。単純にそれらが、およそ都市の貧民街の中にすっぽりと納まっている、ピアソンの生活半径の内側に存在しなかった、というだけのことだった。
あんたがよく手入れをしている例の中庭にそれが生えているのを見たことはない、などとピアソンが言ってみると、ミモザの花のついた嵩張る枝葉を腕に一抱えするほど持ちながら屋敷の廊下を歩いていたところで呼び止められていたエマは、僅かに面倒臭そうに、しかし、あからさまに皺を寄せたと見咎められない程度に眉頭を寄せながら、「……裏の林に生えているのよ」と言った。未だ姿を見せることのない荘園主の手紙によってほうぼうから呼び寄せられ、その後荘園に閉じ込められた招待客(サバイバー)らが仕方なく共同生活を送っている屋敷の裏手に、鬱蒼と広がっている林のことだ(定期的にそこから荘園の外へ脱出できないかを試す連中が現れるが、成功したという話はひとつも聞いたことがない)。
「な、何、何か、つっ、つか、使うのかい」
ひたすらに声をかけてあわよくば引き留めようという魂胆ばかりで、実のところ彼女の答えにはたいして興味のないことが、落ち着きなく動いては、垢の染みたような色をしているカマーベルトを嵌めた自分の臍の前で擦りあわせられている骨張って毛の絡んだ手指や、しきりに泳ぐ目線からも露わになっているピアソンの様子を、エマは怪訝に見るでもなく、「リースを編むの」と、呆気なく答えた。
「……な、何で?」
そこからさらに向けられた、殆ど馬鹿にしたような冷笑混じりの男の声での質問に、エマは敢えて目くじらを立てるでもなく――そもそも、対等に扱ってほしいと望むような相手ではない――「だって、きれいでしょう?」と、にっこり微笑みながらそう返した。
軽やかな微笑み交じりに返された言葉に、言葉を投げかけたピアソンの方が黙りこくった。女の手遊びだと嘲笑ったのを、それを咎めもしないであからさまに受け流されたのは、まるでこっちが体よくやり過ごされているようで気に食わないし、あっさりと微笑みを向けられ、返す言葉を思い浮かべられなかったのもそうだった。
「……で、もういいかしら? ピアソンさん」
ミモザを抱えたまま自分の部屋の前まで戻ってきたエマは、黙りこくりはしたものの大人しく退散してくれるわけでもなく、彼女の後を一歩遅れてひたひたとついて来た薄汚い男を振り返る。すると、それまでまるで自分が呼びつけられていると思って疑っていないようにエマの背後を付いてきていた男はおろおろと目を泳がせながら、「い、いや、クッ、クリーチャー、は、その、て、手伝おうか、と、お、おお、思って!」と言うのに続けて、嵩張るだろうから大変だろうというような、いまいち的を射ないことをしどろもどろに言い出した。
「お気持ちだけで結構ですの」
それにきょとんと目を丸くしていたエマは、おろおろと揺れている男の頭を見ていたかと思うと、笑う時と同じだけ呆気なく切って捨てる。
「……!」
そうしてばっさり切って捨てられたピアソンが絶句している間に彼女が部屋に引っ込むと、しばらくして、ドアを蹴りつけるひどい音が響いたものの、苛立ちを隠しもしないその足音は、すぐに遠ざかって行った。たぶん、近くの部屋の人が顔を出してくれたんだと思うの、と、エマは思った。あの人は周りの目をやたら気にする人だから、他の人の目があるところで、早々下手なことはしない。エマはちゃんと知っているの。
彼女にとっての主治医であり、“大切な友人”でもあるエミリーのためのリースを編み終えると、片手で持てる程の量の枝が残った。
ミモザは春の訪れを告げる花で、黄色い綿のような花が集まって咲いてしなだれる姿が可愛いとエマは思う。だから、少し余った分を使って、スケアクロウさんを飾って差し上げるのもいいんじゃないかしら、というようなことを思いながらも、エマはそれを遠い昔の日付になっているニュースペーパー(遥か昔の日付のものであれば、それは屋敷の中にいくらでもあった)で包むと片手に持って部屋を出て、食堂を横切って階段を上り、その先にある部屋のドアをノックした。
習い性から息をひそめ、僅かに開いたドアの隙間から来訪者を確認したピアソンは、左右で色の違う両方の目をぎょっと瞠った。そして、最初の注意深さとは裏腹に開け放つようにドアを開くと、「ウ、ウウウ、ウッズさ、ん、あんた、っな、なな、何で、ここに?」と、緊張に戦慄く唇で、しきりにつっかえながらそう言い出す。一度試合に呼び出されたからか、先刻彼女から“侮辱”されたことへの怒りは忘れている様子だった。
「これ、余ったからあげるわ」
スケアクロウさんは優しいから、余ったお花でも喜んでくれるかもしれないけれど、花束にするにはちょっと足りないし、彼には彼のために準備したものをお渡ししたいの。でも、だからって捨てるのはかわいそうだから。はいどうぞ、と、続けて片手で持てるサイズのところに手を添え、両手でそっと差し出されたささやかな花束を反射で受け取ったピアソンが、何か――庭に行かないかと、下手くそ極まりいっそ定型文のようになっている口説き文句を言ってみるなり、部屋まで来たんだからあんた、「花が余った」ってのはただの口実だろう早く中に入れよそんであんたの“花”を見せてくれ、などと、不躾に言ってみるなり――兎も角、言葉らしいものを発声するよりも先に、エマは継ぎの当たった緑のエプロンの裾を揺らしながら、すたすたと廊下を歩いて遠ざかっていく。
あの女やっぱり、この俺様に気があるんだろう、というぐらいのことをピアソンは思って、受け取った花を片手で握ったまま戸口に突っ立って、遠ざかる彼女の麦わら帽子と、自分の手の中にある“余り”のミモザを見比べてにやにや笑ったりもしたものの、実際、花なんかを渡されたところで困る、というのが、彼の正直なところでもあった。
部屋に花を活けるという発想もなく、しかし、「あの女が私に気がある」という証明にもなるこれを、おめおめ部屋にしまいこんでほったらかしておくというのも惜しいと思ったピアソンが、その些細な花束を握ったまま廊下を出て、玄関(出入口の扉は、今も固く閉ざされている)のホールをうろついていたところ、試合に呼ばれたところか、そこから一旦解放されてきたところか、たまたますれ違ったライリー――荘園主から送りつけられでもしなければ、自分のために誂えられたなど思い付きもしないような、まるで年甲斐もないブレザー制服の、まだ新しく生地の固いストライプ入りのネクタイの締め心地が心なしかきつく、首元をしきりに気にしながら歩いていた――が、思わず足を止めて、ピアソンの手元を二度見していた。
日頃ライリーは、見るからに下層階級出身者でありながらふてぶてしく“慈善家”と名乗るピアソンを心底見下しているし、ピアソンは自分を見下す他人を悉く憎み嫌っている。故に、この二人が鉢合わせると、普段であればもう少し穏やかならぬ言い合いになるか、或いは完全に無視をし合うかというところだが、花の上手い使い方を考えあぐねていたピアソンにとって、今ばかりは好都合だった。
ピアソンは茫然と足を止めていたライリーに向かって「お前、これが何か知っているか」と聞いてみる。絶句していたライリーは、苛立ちからか神経質に早くも眉頭を痙攣させながら、「ミモザだろう……」と呆れかえった声色でため息を吐くように言い返した後、「何でお前、そんなものを……」と、腐って虫の湧いた花束を見るような、生理的嫌悪と痛ましさを足して二で割った具合の眼差しを、厚いレンズの奥からピアソンの手元に向けた。
「こ、これはさ、っか、彼女、彼女が、う、ウッズさんがさ! これを、ク、クリーチャーに! 寄越してきやがったんだこれを、イヒヒッ、役にも立たないし、なんの足しにもならねえ、ハハ、っお、“女らしい”贈り物だよなぁ……」
いかにも自然な風を装って吹聴したがる具合の、叫ぶ程ではないが丁度耳障りな程の大声でそう言う、脂下がった面を晒した薄汚れた風体の男が片手で振り回すように握っている分、花そのものの持つ、春の日だまりのような、目を和ませる具合に暖かな黄色が、かえって目立つように見えた。
ライリーが敢えてそれに目を留めたのは、彼の最愛の、そして今は亡き妻が、その花を好んでいたことを思い出したからであるが、その上でドブネズミが不潔極まる糞をひりだしているような、こんなグロテスクな光景に鉢合わせるぐらいなら、眼鏡をこの場で叩き割っていた方が遥かにマシだった。何でも、あのスウィートガールが花を差し入れたらしい。そうじゃなきゃ、ものの美しさを理解する脳なんかないに決まってるゴキブリが、花なんかを見せびらかす気持ちなんか起こすわけがないだろうな。お前ら本当にお似合いだよド畜生。底辺同士の前戯は、部屋の中でやってくれ!
どうやら相当気分が高揚しているようで、薄気味悪い笑い声を差し挟みつつ見当違いな上に気の早い惚気話をするピアソンを、ライリーが怒りのあまりそこからヒビが入りそうな有様の眉間を片手で揉み解しながら露骨に避けて歩き通り過ぎようとしたところで、この場から彼が離れたがっていることを、ただでさえ浮かれているピアソンがそれとなく察するということは一切なく(浮かれて居なかろうと、相手の都合を慮ることのないタイプだ)、いかにも乞食めいた風体をしている男は、惚気ながら後からついてくる。
そうやって「花がいかに役に立たないか」についてだらだらと喋り始めたピアソンに「それは確か食用にもなったぞ」と、ライリーがさも有用なアドバイスのように言ったのは、それ以上付き纏われたくなかったからだ。それを砂糖漬けにするような話を過去に彼女が言っていたことを一瞬思い出した、というのもあるが、ゴキブリの沸いて出た花を見てそんなことを思い出すなんてことは、かつて存在した愛の記憶に対する冒涜だ。なかったことにしよう。
ライリーが目の前を飛ぶ羽虫の群れを退かしたがる具合に片手を振りながら、いっそうの早足で廊下を歩き去るのをわざわざ追って因縁をつける気分でもなかったピアソンは、自分の浮かれた足取りを一旦止めてみると、加減も考えず握りしめるせいで、早くも心なしか項垂れている枝に、高揚した気分からいくらか上気した顔を近づけた。そして、芳香というには微かな春の花の匂いを、下品な程鼻を鳴らして嗅ぎ、それから、綿埃のような黄色い花が密集している枝先を齧ってみる。
すると、すぐに綿毛を噛んだような触感が口に広がり、それが喉に詰まるよりも先にピアソンは咳き込むと、顔をいたく顰めながら花弁に塗れた舌を出し、ぺっぺっと噴き出した。あのクソ弁護士、嘘つきやがった! こんなもん食える訳ねえだろ!