かたちのない(機械技師と幸運児) 機械技師トレイシー・レズニックは機械人形を操る技術を持ち、荘園の試合(ゲーム)にあたっては解読速度と手持ちの機械人形を用いたトリッキーな戦法、そして、「最後の試合」が終わるときまで試合で損壊しようが死ぬこともなく荘園に戻され、その中での共同生活を強いられる招待客(サバイバー)の面々の中では、幾分高飛車な性格で知られていた。
例えば、荘園の中の共同生活に適応しているようなサバイバーの一人である庭師のエマ・ウッズから、イベントの飾りについて相談を受けると、「……それってさ、全員が参加しないといけないの? 荘園主の命令?」と、彼女は怪訝な顔で返す。それに対して、「荘園主さんからは、何も言われていないけれど……みんなでやったほうが、きっと楽しいの!」と、絵本の登場人物か何かのように楽しげに答えるエマに向かって、トレイシーがさらに返す言葉というのは「そのイベント? にさ、私の時間を占有する価値があるの? 説明して。」である。
とはいえ、最終的にはイベント開催にあたっての「労働力」として彼女は機械人形を貸し出すし、イベントの中で何らかの機械仕掛けが必要なのであれば、それこそ技術屋の腕の見せ所だと言うように自らを売り込みに来ることもあるのだから、何だかんだ彼女は人が良い方ではある。ただ、高飛車な物言いをして、自分にとってあまり価値のない他人――歯車の動き一つの重要さを理解しない、並一通りの愚か者――の言葉を跳ね除けることがある、というだけのことだ。
一方、彼女やその他大勢のサバイバーのように(おそらく)荘園に招かれ、今はそこで暮らしている幸運児には、この荘園に至る以前の記憶がない。荘園を訪れるサバイバーたちの目から見ると、過度に簡素が過ぎるように見える長袖Tシャツとジーパンという匿名性の高い出で立ちは、彼の性格や生い立ち、社会の中の身分というものを何ら反映するようにも見えず、そういった背景のない彼にはそれらしい役職や、自己紹介をするような時に述べる職歴もない。
ただ、何も持たない彼は何かと幸運の女神に好かれているようで、あらゆる場面を運良く切り抜ける才を持っていたことから、自分の名前らしいものも記憶にない彼ら、誰からというわけでもなく自然と「幸運児(ラックボーイ)」と呼ばれるようになり、それが荘園の中での彼の名前となった。
彼は試合のフィールドに設置されたボックスから出てきたアイテムを使いこなす程度の器用さを持ち合わせていたものの、歯車の名前やひとつひとつの動き、組み合わせによる効果の違いを知るわけでもなく、ただ「こういう風に操作すれば動く」ということがわかるだけの、“並一通りの愚か者”に当て嵌まる側の存在であることを自負していた。特別な何かができるというわけではないということは、彼のコンプレックスでもあった(とはいえ、彼はそれと同じだけ、幸運は人間の生存にとって重要な要素であるとも理解していた)。
故に、壊れた機械人形を小脇に抱えて試合から帰ってきたトレイシーが、自分が着ている濃灰色のTシャツの裾を掴んでくるとき、彼が覚えるのは困惑だった。
それがたまたま、医師エミリー・ダイアーや彼女に心酔しているエマに協力を依頼されて荘園内の清掃活動に勤しんでいるようなときであれば、「一も二もなく手が必要な時に、目の前にいたのが自分だったのだろう」とも理解できなくもない。しかし、幸運児の部屋の前にまで来て、突然の来客のノックに応じた幸運児が「はーい」と在室を知らせながらドアを開けようとするよりも先にドアをガチャリと開け、黒い機械油に汚れている頬を雑に手の甲で拭いつつ、小動物めいた丸い目で彼の眼鏡のブリッジを見遣り、「暇?」と簡潔に問いかけてきたトレイシーに驚いた幸運児が何か言うよりも早く、彼の手首を掴むと言うにはささやかな力で握って歩き出す様に、幸運児は全く納得の行く回答を出せていなかったし、彼女からその理由を明かされることもなかった。
トレイシーは時折、そうやって、作業場のように改造している荘園での自分の部屋に幸運児を連れ込むと、いつものごとく作業の補佐を命じた。
それもまだ招待客の人数が少ない内は、機械いじりの経験を持たない面々の中で、ある程度器用そうな相手を選んだのだろう(当時から荘園にいる面々の中で、機械や工学に明るい面子はいない。単純な「手先の器用さ」だけで人を選ぶのならば、“慈善家”と名乗っていたピアソンが適任だろうと幸運児は思ったものの、歯車の一つ一つが重要になる彼女の作業行程において、ピアソンの「悪い癖」を考えると、次点の自分に話が回ってきたというのは納得の行く話だった。)と思えたが、今や専門家が加入した荘園の中で、未だに自分に声がかかる理由が、やはりよくわからない――というのが幸運児の思うところだった。
トレイシーが言うには、この手の分野で一番知識と技術があると思われる囚人とは“専門性”が合わないらしい。それなら何かと器用なポストマンの彼はどうなのかと幸運児が提案してみると、「あの人喋らないじゃん、よく知らないし」と、トレイシーはうんざりしたように言った後、いたって鋭いことの多い物言いの割に無垢なほど丸い目をわかりやすく歪ませながら、「あんたがやりたくないなら、はっきり言って」と一言。
そう言われると、幸運児は何も言えなくなった。何をとっても並一通りに人の良い彼は、手を貸してくれと言われてそれを無下に断ることが苦手だった。こうも睨まれていると思うと尚更だ。露骨に機嫌を損ねたらしい彼女を相手に、「い、いや」と、幸運児は狼狽えながら返す。
「レズニックさんを手伝うのが、嫌なわけじゃないんだ。ただ僕は、こういうことはもっと器用な人に頼んだほうが良いと思っただけ……」
そうしておどおどと視線を泳がせた幸運児に、スパナでネジを緩める手を止めていたトレイシーは、大げさなため息を吐いたかと思うと、「それやめてって、何回も言ってるよね。」と、若干刺々しい声で言う。
「それって?」
そこに返された気の抜けたような幸運児の返答に、彼女は舌足らずに拙い舌打ちさえした。
「“レズニックさん”っていうの、やめて。言ったよね、“トレイシー”って呼んで。」
幸運児は人見知りをする方ではないが、しかし他人と親しい間柄になるような性分でもない。付かず離れずといった距離感が彼にとっては心地よく、殊に何かと過去に問題を抱えた人物の多いここで、その態度は彼の処世術にもなっていた。
「そ、そうだったね ごめん、トレイシー」
しかし、そのように呼べと言われるのだから仕方がない。(女性相手に名前を呼び捨てなんて、ちょっと僕、馴れ馴れしすぎない?)とは思うものの、幸運児として他に嫌な理由というのは、特になかった。
そうして兎に角、幸運児が間違えずに従ったのを見ると、トレイシーは機械人形を見るときの目――少なくとも、彼女にとって「愚かな」他人を見るときよりかは波立っていない、透明な眼差しを向けて、「うん」と、柔らかいと言うほどでもないが、先刻の不機嫌が抜け落ちたような返答をする。
「……それで、僕は何をすればいい?」
「そこに箇条書きにしてあるから、作業を番号順に読み上げて」
「あぁこれね、うん、わかった」
父親の声をまだ覚えていると思う、たぶん。トレイシーに明確な自信はなかった。時計を操作したところで実際に流れている時を支配することは出来ず、頭蓋骨の内側にだけ存在する形を持たない記憶というものの存在は、この上なく不確かだ。
それでも、試合にあたって機械人形に音声機能を搭載するときには、できるだけそのように近づけた。トレイシーはいつか、それに命が宿ることを――否、そこに命を宿らせることを画策している。金のことしか考えない愚かな凡人どもによって止められた父の時を今一度、父が認めてくれたこの才能で呼び戻すのだ。
トレイシーは才知に富んだ若き職人であり、人間の肉体には複数のばらつきがあって、神が作り給うた被造物の癖になんて適当なんだ、というようなことを常々思っている。金属こそが何よりも真摯で、一番頼りになる友人であることをトレイシーは知っている。その友人はまだ流暢に喋ることができないが、いずれ彼女が新たなアイデアを得る時には、その問題も解決されるだろう。その友人が自ら考え、彼女に意見し、魂を持つまでには、どれ程の発明を経る必要があるのか……その果てに、機械人形も死を経験するのだろうか?
トレイシーは目を閉じ、鉄の友人の声に、記憶の中だけにある父親の声になるたけ似せたそれに似ている声色に、耳を澄ませる。その男は記憶の中にある父とは比べ物にならず、どちらかというと鉄の友人の挙動らしい頼りなげな調子で箇条書きの順番を読み上げていたものの、トレイシーが今や完全に手を止めているのを見て取ったのか、「トレイシー、疲れたのかい?」と人の良さそうな調子で問うてくる。
「朝と昼は食べた?」
続けて聞かれた質問は何ら珍しくもなかった。幸運児は、トレイシーの日頃の集中力の副産物である不摂生について、ある程度把握していたからだ(彼の他には、彼女が時折貧血で倒れるのを見かけたサバイバーや、その度にきまって運ばれる先になる医師が概ね把握している。ダイアー医師は常々規則正しい生活をするように彼女に言い聞かせようとしているが、トレイシーはあまり聞く耳を持っていない。)。時刻はじきに15時を過ぎようとしている。
「食べてない、たぶん。」
その問いかけに、トレイシーが指示をする時や思考をまとめる時よりも幾分柔い子供の声で返すのを、幸運児は(疲れのせいで、ちょっとぼーっとしているんだろうな)と、大して気にした様子もなく立ち上がると、「サンドイッチとか貰って来るよ」と続けながら部屋を後にする。
「うん、お願い」
極めて正気で頭脳明晰な彼女は、そうやって閉じたドアに向かって(ありがとうお父さん)と言ってみるほど、思い込むこともできなかったが。