廃棄済みのサンプル(傭兵とオフェンス) ラグビーというスポーツの第一人者に他ならない(筈である)己の名誉の起死回生をかけて、悪名高いその荘園からの招待を受けた――といっても、彼自身はその悪名について知らなかったのだが――ウィリアム・ウェッブ・エリスは目を覚ますと、自分が砂浜の上に倒れていることに気がついた。もしも、昨晩の記憶(昨晩は間違いなく、荘園で自分にあてがわれた客間のベッドに横になった)が無かったのなら、直前まで客船に乗り込み船旅なんかを楽しんでいたところ、就寝中にその船が難破して海に投げ出され、幸運にもここに流れ着いた、というような格好だった。要は着の身着のままということだ。背にした砂浜は太陽に熱されて心地よい程に暖かく、突き抜けるような青空を背景にギラギラと輝く太陽の日差しは、冬場のヨーロッパの寒さ暗さに慣れた目には、あまりにも眩しい。
(これはきっと、出来の良い夢を見ているのだろう)と思い込むことにしたウィリアムが、さて寝直そうと思ってもう一度目を瞑ると、頭の上から「おい」と、彼に呼びかける男の平坦な声があった。呼びかけられたことへの反射としてウィリアムが目を開けると、フードを目深に被ったその男(ウィリアムはその顔に勿論見覚えがある。同じゲームの参加者として招待されたという傭兵だ。名前は確か、ナワーブ・サベダー)の、逆さまな顔が目に入った。彼はいつのまにかウィリアムの頭の直ぐ側に立っており、そこに立ったまま、彼を見下ろして来ていたのだ。
「生きてたか。」
相変わらず話す言葉の抑揚は平たい(彼は見たところアジア人で、多少違和感のある英語を話すことについて、ウィリアムに違和感はなかった。むしろ彼は、それにしては上手く英語を話す方だと感じられる。)ものの、その分かえって裏もない言葉通りの意味らしく、「良かった」と続けたその男から差し出された手を借りて起き上がったウィリアムがついでに辺りを見回してみると、他の参加者もまた、彼と同じように、着の身着のまま、何なら波にでも揉まれたのか少しぼろぼろになった姿で、砂浜に打ち上げられていた。
島の大きさは、歩いて一時間足らずで全周できる程度、形としては楕円形をしており、以前は誰かしら居住していたらしい。島内には破壊されずに放棄された小屋が複数残されており、それぞれの小屋の中には、一通りの生活物資が揃っていた。何らかの事情で、家財をそのまま放棄したのだろう。前の住人が仕込んだまま去ったものと推測される魚の干物を齧りながら「肉が食べたい」とウィリアムが零すと、彼に同行して残された家財から使えそうなものを探していたナワーブは、その手を止めずに首を竦めながら「鳥肉だな」と返した。島の規模的に、猪といった大型哺乳類の存在は期待できないらしい。あの猪も一緒に浜に打ち上げられていればよかったが、ウィリアムが改めて一通り浜を見て回っても、それらしいものは見当たらなかった。
「この島は地球上のどこに位置しているのか」という議論を、島の浜に打ち上げられたサバイバーの面々にそれぞれ持ちかけたとき、ウィリアムは確かに、それが重要な議題であると信じていた――何せ、脱出にあたってどの方角に向かえば良いのかという情報は重要だろう――が、それを持ちかけられた残りのサバイバー二人は、まるで声を揃えるかのようにして「無意味だ」と断定した。
「ここに羅針盤があるなら、話は別だが。」
ナワーブの方はそれきり口を閉ざし、セルヴェの方はさらに続けて「あの狂った男の荷物になんかに、入っているかもしれんな」と、それにしても大して期待していない風に吐き捨てていた。ウィリアムはそれを受けて、(やはりこの二人は仲が良いのだろうか)と、その不思議な符号に驚いたような顔をした後、少しだけ表情を曇らせた――あのマジシャンは危険だ。ナワーブには、いずれそのことを知らせる必要があるだろう(ちなみに、二人に話を聞いて回っていたウィリアムの後をずっとついてきたので無視をするのもばつが悪く、社交辞令的にウィリアムが意見を聞いてみた相手である冒険家は、その質問を待っていたと言わんばかりに、これまで自分が踏破した「夢の国」までの漂流譚をとうとうと語り始めた。)。
夕方になると、それまで散々青々と美しく輝いていた海は瞬く間に黒黒と渦を巻き、おどろおどろしい音を立てて生暖かい風が吹き始めた。さらに、鉛のような色をした分厚い雲が空に蓋をするように立ち込める。この不気味な前兆は、曰く「経験豊富」な冒険家の目以外にも(まず嵐になるだろう)と思われたため、四人はひとまず集落の中でも、比較的屋根が壊れていない(ように見える)手狭な小屋二つにそれぞれ分かれて、そこで雨風を凌ぐという話になった。
では、ここに四人いるサバイバーをどうやって二手に分けるのかという方向に話が進んだとき、渦中のウィリアムは(師匠殺しとは二人きりになりたくない!)という強い希望を持ちつつも、それをあまり表立って口にするべきでもないだろう(試合前から何かとサイドを作り、やたらに敵対するべきじゃない。それに、あの男と結託している奴がこの中にいたとき、この告発はとんでもない悪手になり得る)という判断から、彼は口を噤まざるを得なかった。何せ、ここでどういう態度を示したことで、俺が掴んでいる事実をあのマジシャンに気取られるか、わかったものじゃない――故に、雨を凌げそうな小屋を見繕ってきたといい、「ひとつの小屋に男四人でぎちぎちと密集する必要もないだろう」という話を持ちかけてきた傭兵から名前を呼ばれた時に、彼はそれに救われたような心地にもなった――この男はマジシャンと共謀している疑いがあるとは言え、犯人と同室になるよりいくらかマシだ。それに、消去法で第一候補だったあのやたらとおしゃべりな変人と、四六時中同じ部屋というのも気詰まりだとも思っていたところだった。
「意外だな」と零しつつ、ウィリアムが彼の上背にはかなり窮屈な藁の小屋の入口を潜って埃っぽい内側に入ると、先に小屋の中に入っていて、暗がりの中でも何故かフードを外さないナワーブが「何がだ」と返してくる。
「いや……君は、あのマジシャンと組むのかと思っていたから。」
直截に返されたナイフのような質問を前に、友好的な演出をしつつ、それを躱すためにおどけて笑う、というには、ややから回った調子で続けるウィリアムの顔を、ナワーブはアジア人らしい特徴があり、ウィリアムの目からすると表情を読みにくい――そうでなくとも、彼は感情表現が豊かとは言い難い男だが――暗がりで白目の目立つ暗い色の目でじっと見てきたのだが、それにたじろいだウィリアムが「な、何だ?」と不安げに続けるのには、何も返事をしなかった(彼としては、島内の調査に邪魔にならない人物と組みたかった――ナワーブを何かと敵視するマジシャンは間違いなく妨害を仕掛けてくるだろうし、歩くスピーカーのような冒険家は論外だ――という事情があったが、ウィリアムはそれを汲むに足る情報を持たなかったし、ナワーブとしてもその事情は、別段共有する必要もないことだった。)。
夜半頃から始まった雨は、ヨーロッパでは有り得ないような猛烈な勢いを保ったまま、長々と続いた。ナワーブはそれを「熱帯の気候」と評したが、それ以上この天気に対して何かを評する――文句を言ったり、逆に感銘を受けてみせたり――ということはしなかった(故に、ウィリアムはこのドレッドが緩むようなうんざりする湿気のあるこの島の気候について、敢えて黙しているナワーブに会話を持ちかける気にもなれなかった。彼とどの程度情報を共有しても「問題ない」かは、今少し観察する必要があるだろう。)。
彼はたびたび、訳も共有せずどこかに出かけては、ずぶ濡れになったフードを乾かしに戻り、小屋の玄関先で遠慮がちに焚いたささやかな焚き火の上に細い枝で作った覆いにフードを立てかけたかと思うと、換えのフードを被ってまた外に出ていくというあり様だった。小屋の中で焚き火の監視役を言いつけられていたウィリアムは、砂の中に埋めるようにして保管されていた瓶詰めのピクルス(のようなものだ。得体のしれない野菜の酢漬けだが、味はそこそこ近い)を齧りながら、小屋に残されていた図鑑を捲っていた。驚くことに、この小屋には本棚があり、簡素な印刷ながら、図鑑が並べられていたのだ(普通こういった地理的に隔絶された場所に、そのような文明的なものが置かれているなど考えられないことだった。とはいえ、まあそういうこともあるのだろうとウィリアムは納得することにしたが。)。ウィリアムは暇にあかせて時折その図録を捲り、眠気を誘われたらその場で筋トレを始めるというローテーションを繰り返して、単調な日々の中でもスポーツマンらしく、資本である己の肉体を鍛えていた。
その雨が降り止んだのは、降り始めから数えて三日目の晩だった。ウィリアムが久方ぶりになる外出の開放感に動物的な本能から心を踊らせながら、まるで穴蔵のような埃っぽい小屋の扉を開けると、空は満天の星空で、それは天体にあまり関心のない彼も、思わず感嘆の声を上げるほど見事なものだった。他に誰かがその場にいたのならば、ウィリアムは声を大きくしてはしゃぎもしたかもしれないが、その場には誰もいない。あの気の狂った冒険家でも賑やかしにはなるだろうと思い、気が大きくなったウィリアムが残る二人が宿にしていた粗末な小屋を覗いても、そこには誰もおらず、暗がりが広がっているばかりだった。
一人ストイックに筋肉を鍛え上げることにも、無目的に図鑑をまくることにも飽き飽きしていたウィリアムが、雨に洗いつくされすっかり爽やかなほどの外気に誘われるまま足を伸ばし、満天の星空の下穏やかに寄せ返す音を聞いているとそれすらも美しいように思えてくる波の音(それは、常のウィリアムには無い感傷だった。屈強な肉体を持つ彼は、あまり詩情を解する方ではない。)を聞きながら、海岸線沿いにぶらぶらと歩いていると、近場の藪から、何かを言い争う声が――といっても、聞こえてきたのは激昂したマジシャンの怒号だけだったが――聞こえ、彼は咄嗟に物音の方へ駆け寄る。
藪の中には、袖の破けた燕尾服を着た例のマジシャン(髭が伸びてずいぶんむさ苦しい顔になっている)と、それと比較すると小柄に見える人影があり(すぐにはそれが誰であるか、ウィリアムにはわからなかった。目深に被っているフードが夜の藪の中で、カモフラージュとして上手く機能していたからだ。)、その人影と相対するマジシャンの手には、かすかな光を反射して、銀色に光る何かが握られている――刃物!
目に見えた危険を察知したウィリアムは考えるよりも早く前に、踏み出し刃物を持つその男に飛びかかった。彼にとってはそれが最大の防御であり、それこそが彼を彼たらしめる勇敢な、そして愚かな性質にほかならなかったからだ。彼はナイフを手に他人を脅している(に違いない)殺人者の懐に入るとそれを薙ぎ払い、グロテスクな根の張り方をしている熱帯の木に向かって、殺人者を打ち付けて無力化した。ラガーマンのタックルを不意に受けたマジシャンは、瘤の目立つ木の根に頭を打ち付けて白目を剥いており、それは、ある程度非文明の夜の暗さに慣れた目でも、ひたすら暗く蒸したような藪の中で、ぬらぬらと浮き上がって見えるほど目立った。
兎に角、脅威を前に打ち克ったウィリアムは刃物を向けられていたその人影――その頃には、ウィリアムもその影がナワーブだろうという検討がついていた。ここには四人以外に誰かがいる気配はないし、フードを被っているのは、その中でも一人だけだ――に対して、「あんた、大丈夫か」と言い掛けてから、自分の片腹にひどい痛みを感じて顔を顰め、どこかにひどくぶつけたかと思いながら目線を下にやると、先刻マジシャンの手の中で光っていた銀色が、彼の脇腹に深々と突き刺さっている。ウィリアムは自分の身体に起こったことながら、大層驚いて目を見張った。それが、彼が覚えている最後の場面だった。
***
次の場面で、ウィリアムは乾かした植物で葺かれた、粗末な屋根の裏側を見上げていた――島にあるどこかの小屋だろう。身体は粗末な板の上に寝かされている。
(何だ。俺は、生きているのか?)
声にならない驚きに息を呑みながらウィリアムは弾かれたように身体を起こし、まず自分の脇腹を確認する。裸の上半身に、血や黄色っぽい汁でひどく汚れされた包帯を巻かれており、それはあの負傷が夢ではないことを知らせてくるものの、それにしては痛みがなかった。不審に思ったウィリアムは、包帯の中に指を差し込み、さらに、軽く捲って内側を覗いてみる。するとそこには、確かに傷跡らしいそれがあった。あったが、そこでは柔らかい肉の色をした線のような、殆ど塞がっている傷跡が口を閉じているばかりで、意識して目を凝らさないと、最早それが傷だともわからないような、ほんの古傷に成り果てている。
あの時は、確かに(刺さった!)と思った。しかし、もしかするとあれは、目の錯覚かなにかで、ひょっとして、ナイフは脇腹を掠めただけだったのだろうか? しかし、それにしては包帯が汚れている説明がつかない……。
「……起きたか」
怪訝そうに顔を曇らせながら、傷(があるべき場所)をじろじろと観察していたところで不意に後ろから声を掛けられ、ウィリアムは「うわびっくりした!」などと騒いだが、小屋の出入り口に扉の代わりにかけられている簀子を捲って入ってきたナワーブは、やはり動じていない風に見えた。
(よくわからないやつだ……)
ウィリアムはそう思いつつも、どこかから戻ってきたらしく声をかけてきた彼を見、自分の身体に巻かれていたお世辞にも綺麗とは言えないが、巻き方としてはかなりしっかりしている包帯を見て、それから、使われた形跡のある台所、炉の上に掛けられた鍋、小屋の床に申し分程度に敷かれ、ウィリアムの身体を床板の冷たさから多少なりとも引き離していたボロ板(どこかの小屋の扉か壁だろう)と、脇に置かれていた使用済みの器、木で削られたスプーンのようなもの、さらに、自分の身体にかけられていた(どこから調達してきたかはわからないが、おそらくは)幌布等、諸々の状況を改めて目の当たりにしてから「……き、君が、助けてくれたのか。」と放心したように言った。
ナワーブは、例の「アジア人らしい」目でウィリアムを見遣ると、その質問には答えないまま、彼が寝かされている板張りの近くにやってきて床に直接胡座をかいて座り、ウィリアムが先程自分の手で緩めていた包帯の内側に、ウィリアムに大した断りも無く指を入れて、それをさらに緩めながら、彼の脇腹に残る薄桃色をした傷の閉じ目を覗くと、「傷も治るのか……」と、少し驚いているような調子ながら、やはり淡々と言った。
ナワーブ曰く、この島は、やはり荘園の主が管理する(或いは、過去に管理しており、今は放棄されている)熱帯の無人島らしい。ウィリアムに焚き火を任せ雨の間中島内を探索していた彼は、島のほぼ中心部にある陥没穴の内側に、何らかの施設を見つけていた。そこには何らかの実験道具や地下水を利用した薬草の栽培跡地、複数の記録文書(しかしそれは熱帯という気候の性質上、そのほとんどが朽ち果てていた)、そして、多くのサンプルが薬品棚の中に残されていた。その洞穴から戻る道中冒険家の死体を発見し、さらには刃物を手にしたマジシャンと遭遇したところで、ウィリアムが現れたのだという。
ウィリアムは急にスケールの変化した話について行けずにぽかんと口を開けていたものの、ナワーブが口を閉じると辺りに沈黙が訪れ、彼の口からそれ以上の情報は出ないだろうと、回りきらない頭で把握したところで、「た、助けてくれたことには、変わりはないだろ」と、改めて切り出すと、はにかみながら「サンキューな」と続けた。
「お前は、ほとんど死んでたんだ。」
しかし、それに返ってきたナワーブの言葉は、ウィリアムが想定していた、どの返答とも違っていた。
「薬品棚に置かれていたサンプルの中に、人魚の肉というものがあった。お前が読んでいた図鑑にあっただろう。『それを食ったものは不老不死になる』という伝説がある。」
ナワーブはまだ、何かを喋っていた――「正直、受けた傷が治るかどうかは賭けだった。」というようなことだ――が、ウィリアムの耳に、最早それは入ってこなかった。使われた形跡のある台所、器、木から削り出したようなスプーン。
「お、俺は…………」
食べたのか、いや、食べさせられたのか? お前が俺に食べさせたのか。どうしてそんなことを? いや、理由はもうこの際どうでもいい。俺の身体は、今、どうなっている? ウィリアムの頭を巡る疑問はあまりにも多く、彼の一つしかないうえ驚きに強張っている口では、それ以上何も続けられなかった。彼が自分の命の無事を、目が覚めたときほど安直に喜ぶ気にもなれないというのは、最早間違いがなかった。不老不死。そんな大層なものあるものか。だが、実際に腹の傷は塞がっている。ナワーブも「ほとんど死んでいた」と言っていた。じゃあ、なんで俺は生きている?
「なん、何で……食わせたんだ? 俺に?」
改めて浮かんできたその疑念に緊張か困惑から表情を固く強張らせたウィリアムが口にしたその質問に、ナワーブは大して表情を変えず、やはり黙したまま、何も答えなかった。
彼の質問に、強いてナワーブが答えを出すのであればそれは、「手段があったから」だ。他人を守るために危険を顧みずに突っ込んできた愚か者の蛮勇は、これまでに彼が喪ってきた数多くの「仲間」の有り様に少し似ていた。これ以上、仲間を弔いたくはなかった。しかし、愚かで勇敢なやつはだいたいが短命だ。夏の蛍のような奴らばかりだ。わかっている。
腹を不衛生な刃物でこじ開けられた、ウィリアム・エリスの脈は段々と弱くなっていった。まだ生きているのに腐り始めた傷口が、時間が経つにつれて酷く臭い始めた。ここは無人島だ。荘園で行われていたゲーム、もとい、あの実験にかかわるものであろう研究施設は、既に遺棄されている。人の往来があるかもわからないし、仮に研究者なんかが、都合良くここに来たとして、どういう意図があってかこの島に送られた(それか、ここにある施設と同じように、この場所に遺棄された)俺達を相手に、医療的な処置をするかは甚だ疑問だ。
選択肢は二つあった。ここでこいつの苦しみを終わらせてやるか、入手した奇妙なサンプルの一つを使ってみるか。これまで喪った仲間は大勢いる。仕事柄、それは仕方がない。だが、誰にも死んでほしくはなかった。これで駄目なら、後で「楽にしてやる」ことも、できなくはないだろう。端から食用にするために持ち帰った穀類のサンプルと一緒にして火にかけて、それを粥状に炊いた。器によそい、スプーンのようなもので口元に持っていってやると、まだ自発的な嚥下はできるのか(流石に体力がある)、高熱を出して呻いている形に彼は口を動かして、それを飲み込んだ。
しかし、それが齎しかねない結果は、何もわからず眠っていたのだろうこの男の同意を得たわけでもないし、とても受け入れがたいことだろうということも、ナワーブは理解していた。どうしてそんなことをしたと詰られれば、(自分もどうかしていたんだ)などと言わざるを得ないだろうと、ナワーブが黙り込んだまま一人自省をしていると、それまで震えながら絶句していたウィリアムが、今度は困惑や恐れというよりも、怒りにうち震える具合の声を出す。
「お、まえ、は、食わなかった、のか?」
起き抜けに突然、頭に一発食らったような衝撃から、困惑や恐怖、驚きと綯い交ぜになって処理しかねていた感情の落とし所を怒りめいたところに見つけかけたらしいウィリアムは、眉頭を不穏に寄せながら、戦慄く唇で震えながら続ける。
「俺ひとり、おかしくなってしまって、お前は……」
彼の非難するような目を前に、ナワーブは(なんだそんなことか)と意外そうに眉を上げると、ウィリアムを寝かせていた板張りの脇から立ち上がって、すたすたと台所に置き去りになっていた鍋のもとに向かい、その中に半分ほど残っていた粥に浮いているその白身を摘む。
「いや!」
ナワーブが鍋の中身を覗く仕草で、まだそこにそれがあることを察したらしいウィリアムがいっそう大声を上げ、さらに続けて「あんたは食う必要なんてない! ナワーブさん、俺が、俺がどうかしていたんだ。あんたは俺を助けてくれた。だから、食っちゃだめだ!」と続く言葉を無視して、指でつまんだそれを、ナワーブがまるでつまみ食いでもするような頓着の無さで口にいれたのが、はっきりと見えたらしい。落胆とも恐怖とも取れるような嘆息が、後ろから響いてきた。
結局、人魚の肉による「不老不死」というものが、どういうものなのかはよくわかっていない。それはウィリアムの肉体には、「外傷の治癒」という形で現れたものの、それを口に入れた時のナワーブは、見たところそもそも無傷だった。サンプルとして研究所に保管されていたという人魚の肉が齎す「不老不死」が、どの程度の――例えば、本当に外傷とも病気とも無縁に、それこそ永遠を生き続ける恐ろしい体に転じたということなのか、或いは、外傷を無効化するだけで、身体はその内に内側から劣化するものなのか。仮に劣化するとすれば、どの程度のスピードで、それは進み得るのか――そして、そもそもあれしきの量(つまり、薬品棚内にサンプルとして保管されていただけの量)で、不老不死なんかに足るものなのか。多少代謝がゆるやかになり、寿命が伸びる程度でしかないのではないか――と、ウィリアムは思うことにしている。その方がまだ、精神衛生に良いからだ。
ウィリアムが仮置きしたその結論に対して「実際に死んで、生き返るかどうか見てみるのが早い」と、ナワーブは何でもないことのように言ったが、ウィリアムはそこまで思い切りのいい性質ではないため、「そんな気持ち悪いことはするな」と言って止めた。何せ、不老不死であるにせよそうでないにせよ、いつまでもここにいるわけにはいかないので、木材を調達し、筏を作ってここから脱出する必要がある。もし生き返るかどうか試してみて、それで、生き返らなかったらどうする? 人手が減って、脱出がより難しくなる。そう言ってナワーブの提案を取り下げさせようと説得するウィリアムに、ナワーブは、やはり何を考えているかわからない顔で「……まあ、そのうち分かるか」と言った。ウィリアムは「絶対にやるなよ」と釘を差したが、それに返事はなかった。
明くる日、立っているだけで額に滲んでくる汗をしきりに拭いながら、筏の材料にするために小屋から持ち出した鋸で椰子の幹を切っている最中、藪の中で何らかの根に頭を打ち付けて白目を剥いていた男のことをようやく思い出したウィリアムが「師匠殺……いや、セルヴェ・ル・ロイは」と言いかけると、その頃には幾分慣れた手つきで鋸を操るようになっていたウィリアムを横目に、先刻落ちた椰子の実を小脇に拾い抱えていたナワーブは、何事もなかったかのように「死んだ」と言う。
「あ、あれを、食わせなかったのか?」
「ああ、あいつが生き返ると、話が面倒になる……それにこの状況じゃ、手品は役に立たないだろ。」
「……じ、じゃあ、あの変人は」
「ああ、カート・フランクは……俺が見つけたときには、もう死体だったからな。」
だが、この状況で、あいつは結構役に立っただろう、惜しいことをしたかもしれない……などとぼやいたナワーブに、ウィリアムはそれ以上質問はしなかった。あと少しで幹を切り倒せそうだったので、作業にいっそう集中したかったし、その頃になると、彼も自分が蘇生させられた理由について、「この状況では手が(それも、ある程度の出力は常に期待できる、この比類なきスポーツマンの手が)必要だったから」ぐらいのものだろうと理解していた。(あの時は気が動転していたのだから仕方がないと、自己弁護の余地があるとも思っているが、)自分の八つ当たりで、ナワーブが例の肉が入った粥を口にしてしまったことにら、若干罪悪感すら感じているほどだった。