雨を願って ホームルーム終了後、帰り支度をするクラスメイトを後目に、ぼんやりと窓から外を眺めていると、廊下の方から元気な声がした。
「失礼する!」
顔を見なくても誰かわかる。きっとホームルームが終わっても動こうとしない僕を気にかけてくれたんだろう。胸がくすぐったくなる。
ゆっくりと声のした方に顔を向けると、そこには司くんがいた。隣のクラスの人間が入ってきたというのに、周りのクラスメイトは気にも留めていないようだった。司くんがうちのクラスに来るのは珍しいことじゃないからだろう。
「類、帰らないのか?」
「あいにく、傘を持ってなくてね」
そう言って再び窓に視線を向ける。窓からはしとしとと雨が降る様子がよく見えた。ガラス越しに、司くんも窓の外を覗き込んだのがわかった。
「今日は晴れだと天気予報で言っていたんだがな。……類、だったら」
そこで彼はぴたり、と言葉を止めてしまった。何かを言いかけてやめるなんて、司くんにしては珍しい。首をかしげながら振り返ると、司くんは背中から降ろしただろう通学鞄に視線を落としていた。不思議に思って尋ねる。
「司くん?」
「……いや、オレも傘を持っていないことを思い出した」
(おや?)
その言葉に疑問を抱いたが、それは胸の中に留めておく。せっかく彼と一緒にいられる時間ができそうなんだ。つまらないことを言ってチャンスをつぶすのは愚策だろう。
「それなら、このまま教室で雨宿りといこうじゃないか。今日は練習も休みだしね」
僕の言葉に司くんは頷いた。
「そうだな。隣、邪魔するぞ」
律儀に断ってから僕の隣の席に座る。会話をしているうちに周りのクラスメイトはほとんどいなくなっていたようだ。静かな教室に雨の音が響く。
僕は何とは無しに司くんのことを眺めていた。彼は鞄から本とノート、筆箱を取り出すと、机の上に並べた。本の表紙には英語のタイトルが書かれている。
「それ、ショーの原作本?」
「ああ。読書の秋と言うし、この機会に挑戦してみようかと思ってな。……なかなか苦戦はしているが」
そう言いながらノートを開く。ノートにはびっしりと英単語と日本語が書かれていた。調べた単語やらを書き留めながら読んでいるのだろう。彼がうんうんとうなりながらも懸命に本を読んでいる様子が見えるようだ。司くんらしいな、と思わず笑みがこぼれる。
「わからない部分があったらいつでも聞いてくれていいからね」
「ああ、もちろんその時は頼らせてもらうぞ!」
彼の返事に満足して、僕も読書でもしようか、と鞄から本を取り出す。
「類のそれはなんだ? ずいぶん分厚いが」
「工学系の専門書だよ。残念ながら学校の図書室には無かったから、大学の図書館まで行くことになったけど」
司くんの疑問に答えると、彼は驚いた様子で目を丸くしながら言った。
「大学の図書館!? オレでも入れるのか?」
「……興味があるなら今度一緒に行ってみるかい? 結構おもしろいよ」
できるだけさりげない風を装って、内心は緊張しながら彼を誘う。司くんは少しだけ間を置いたあと、笑顔で答えてくれた。
「うむ、何事も経験だしな。案内を頼みたい」
「お安い御用さ」
にやけそうになる顔を隠すように、僕は本を読むフリをして下を向いた。……これはデートに誘えた、ということでいいんじゃないか。向こうはそう思っていないかもしれないけど。
司くんと付き合い始めたのは一ヶ月前のことだ。公演が終わったあとの更衣室で、
『今日のショーも最高だったな!』
そう言って笑う夕日に染まった彼の顔を見た時、ぽろっと気持ちがこぼれてしまった。演出もなにも無い僕の告白に、けれど彼は顔を真っ赤に染めて、オレもだ、と返してくれた。そうして、僕達はいわゆる恋人同士になった。
だけど、それから恋人らしい出来事は特に無く。司くんの態度も友人だった時とあまり変化は見られなかった。
司くんの気持ちを疑う気はこれっぽっちもない。あの日の夕日に染まっただけじゃない、赤く染まった顔とうるんだ瞳は、確かに僕のことを好きだと雄弁に告げていたから。
(そもそも僕達はショーが最優先だしね。そうそう甘い時間なんて過ごせないとは思っていたし)
でも、もう少しだけ恋人として自分を求めてほしい、せめて手をつなぐくらいはしたい。そう思ってしまうのはわがままだろうか。
(とりあえず、一緒に出かける約束が出来たんだ。今はそれを喜ぼう。それに、)
司くんは傘を持っているはずだ。寧々に聞いたことがある。以前、ワンダーランズ×ショウタイムの買い出しの最中、突然雨に降られた時に折り畳み傘を持っていたと。普段は大雑把なくせに妙に準備がいい、とは寧々の談だ。
それにも関わらず、彼は傘を持っていないと言った。もしかして、僕と一緒にいたいと思ってくれたんじゃないだろうか。……希望的観測だけれど。
ふと外を見ると、雨雲はだいぶ風に流されてしまっていた。通り雨なんだろう、きっとすぐに止んでしまう。
それでも、いつまでもこの雨が止まなければいいのに、と願ってしまった。
***
僕のそんな願いもむなしく。
その後もぐるぐると巡り続けていた思考は、司くんの声によって中断された。
「おお、止んだな。また降らないうちに帰るぞ、類!」
その声につられて窓の外を見る。司くんの言葉通り、雨はすっかり止んでしまっていた。ガラス越しに見えた司くんの様子にこの時間を惜しむような気配はなく、少しだけ恨めしい気持ちで彼を振り返った。そのくらいは許してほしい。
「なんだその顔は」
「いや、司くんは司くんだなあと思って」
「む。よくわからんがバカにされたことはわかったぞ」
不満そうに口をとがらせる彼に苦笑する。
「そんなことないよ。どちらかと言うと自分のロマンチストっぷりに呆れてるかな」
「お前は演出家なんだからロマンチストで問題ないだろう?」
そんなことを話しながら、さっさと帰り支度を済ませた彼と、のろのろと帰り支度を済ませた僕は並んで教室を出る。人のいない廊下は静まりかえっていた。先ほどまでの彼の様子から、諦め半分な気持ちで気になっていたことを聞く。
「ところで司くん。君は折り畳み傘を持ち歩いていると思ったけど、今日は持っていないのかい?」
「知ってたのか。それが今日は忘れてしまってな。この前休日に使ったあと通学鞄に戻すのを失念した」
「そっか……」
あっさりと答えた彼にごまかすような様子は見られなかった。これは本当のことだろう。下を向きたくなるのをぐっとこらえる。
「……惜しかったな。傘を忘れなければ」
その声は普段の彼の声から考えるととても小さな声で。だから、僕に聞かせるつもりは無かったのだとわかった。けれど、僕の耳はしっかりとその声を拾ってしまった。
「惜しかった? 何か早く帰りたい訳でもあったのかい?」
まさか僕に聞かれたとは思わなかったのだろう。司くんはびくり、と体を跳ねさせて答えた。
「い、いや、そういうわけでは」
「……僕は君と一緒に有意義な時間を過ごせたと思ったけどね」
「ああ、オレもそう思っている! ……なんでもないんだ、忘れてくれ」
早口で告げると、彼はうつむきながらに足早に僕から離れてしまう。けれど、一瞬だけ見えた彼の耳は赤く、その事実が僕の気持ちを上向かせた。少し先を行く彼を見ながら頭を働かせる。司くんが傘を忘れなければ――。
そうして、ある可能性に思い至った。頬が緩むのを止められない。ぴたり、と足を止め、彼に声をかける。
「司くん」
声が自然と弾む。
「……なんだ」
彼はしぶしぶという様子で振り返った。
「今度放課後に雨が降りそうな日、僕は傘を忘れると思うんだ」
「なんの宣言だ、なんの」
そう答える彼の顔はしかめっ面だったけれど、紅潮した頬は隠せていなくて。今度こそ自分の考えが間違っていなかったことを確信する。
「だから、その時は君の傘に入れてほしいな」
その言葉に、彼はいよいよ顔を真っ赤に染め上げ、ぷい、と前を向いてしまった。僕は早足で彼の隣に並ぶ。ふたりとも無言で歩き始める。しばらくしてからだった。
「……仕方がないから、入れてやる」
と、彼の小さな声が聞こえたのは。