My suger muffinオーブンの前で仁王立ちし、数分にいちど中を覗き込んでいたら、匂いにつられてテセウスがやって来た。
「そんなに覗いてたら日焼けしてしまうんじゃないか」
「心配ありがとう。大丈夫だ」
お前の皮肉にはもう慣れたよ、と言うと、皮肉のつもりはないんだけどなぁ、と返ってきた。両手にミトンをしたままである事に気づき、さりげなく外してテーブルの上に置く。俺は今、誰がどう見ても浮足立っているように見えるだろう。実際、焼き上がるのが楽しみであることは事実だった。小麦が焼ける匂いの元をたどってきた犬、もといテセウスにそれを勘づかれないよう、オーブンから適度な距離を取り他愛のない会話の端を投げかける。
この家に来てからというもの、元々の趣味――趣味というには粗末な、最低限度の生活の一部、からの成長――である料理を良くするようになった。最初は酒のつまみや軽い朝食くらいだったのが、だんだん手の込んだものを作り始めるようになった。自分でもなぜこんなに頻繁に料理をしているのか分からない。ただ、新鮮な野菜の瑞々しさだったり、母国にいた頃は飽きるほど食べていたマッシュポテトのまろやかさだったりが、なんとなく昔より強く感じるようになって、理由も明白になっていないまま、本能に近い何かでキッチンに立つことが多くなった。
自分がとりとめのない只の一人間であることに、落胆も歓喜もしない。本来の自分が何かしらの拍子で表に出てくるようになっただけで、それだけのことと言い聞かせはしながらも、無視のできない存在が今も俺に精悍さの交ざった柔和なほほ笑みを向けているのだった。
「そろそろ焼けた?」
「そうだな」
ふたたびミトンを手にはめ、オーブンを開ける。たちまち香ってくるほのかな甘い匂い。深呼吸をしてからUmm,と唸ったテセウスが次の拍子に言って見せた言葉に、俺は耳を疑った。
「きみのほっぺたみたい」
「は?」
「このマフィンだよ」
「……俺の頬のどこがマフィンみたいなんだ」
思わず腰に手を当てて深くうなだれる。そんな俺をよそにテセウスは笑って、そして悪びれもせずに言った。
「惚れた弱みってやつかな。やたらおいしそうに見えるんだ」
「そんなの困る」
「困る? なぜ?」
「今からこいつを食べるっていうのに、もう口の中が甘くなった」
「はは」
悪いな、本心なんだ。
正面から屈んで落とされたキスも、こいつの言葉も、何もかもが甘い。今は祝福の鐘が鳴るときか? ――いや、そうじゃない。俺はお前のそういうところが手に負えなくて、だから気を紛らわせるために料理をしているんだ。
それでもお前をおもって作っているから、お前好みの味になってしまう。この矛盾はどうにもならない。
甘いものに慣れ、矛盾を愛して生きていくとは、かくも難しい所業なのだった。