鶴の恩返しそれは、いっそう冷える日の晩のことだった。男はぱちぱちと火の跳ねる囲炉裏にあたり、夜の静けさに耳を傾ける。しとしとと降る雪の音に混じり、ふと、人の足音が聞こえてきた。雪をふみしめる音に耳を澄ますと、それは家の前で止まる。そして、
「ごめんください」
歳若い声が、戸の向こうから聞こえてきた。この雪深い山奥に人が来るはずない。化生の類かと、男は腰を上げる。
右手にこの世のものではない力を込めるが、反して声は柔らかく。
「ごめんください。道に迷ってしまいまして……何方かいらっしゃいませんか…?」
本当に困っているような声色だ。俗世と切り離した生活をする男も、鬼にはなれず。散々迷った挙句、警戒しながらも戸の閂を外した。戸を横に引く。
そこに居たのは白だった。雪かと見紛うほどの白。頭から足の先まで透き通るばかりの真っ白。
一際目を引いたのは、薄い唇に乗った椿のように真っ赤な紅。それと、
「あ…!」
嬉しそうに男を見た、夜空のように煌めく黒い瞳。思わず目を奪われて、化生の事など頭から抜け落ちていた。
固まる猟師に、ほんのりと頬に桃色を散らし、歳若い男は力なく微笑んだ。
「夜分遅くにすみません。道に迷ってしまって…一晩だけ、泊めていただけませんか…?」
その言葉を素直に受け止められるほど、漁師はお人好しではなかった。
頭のてっぺんから爪の先まで。不躾かとは思ったが眺める。それに男は居心地悪そうに愛想笑いを浮かべていた。
そして、猟師の目線が足元で止まる。
「その足で山を越えるつもりだったのか」
「え?」
「下駄。良くここまで来たな」
男の足元は赤い鼻緒の下駄であった。些か雪の降り積もるこの山を越えるには心許ないもの。それ以前に、麓からこの猟師の小屋まで昇ってくる事さえ危うい。
指摘された男は、あ。と今気付きましたと言わんばかりの表情を見せた。それから、酷く慌て始める。
「あ、あの、これはその、に、逃げてきて…」
「何処から」
「ぇ、あ、ぅ…」
コロコロと変わる顔色。最早取り繕っても遅い所まで来ていた。
だから、猟師は大きなため息を吐き出し、男と目線を合わせた。
「お前、化生の類だろ」
途端。男の黒水晶のような目が見開かれる。
それが肯定の意味だと悟った。
「お前にやる食いもんなんてねぇから帰んな」
そのまま扉を閉めようと手をかけたが、慌てた様子の男が腕に触れた。ヒンヤリとした、まるで雪を押し付けられたような感覚に、思わず動きをとめた。
「ち、違うんです…!ご飯とかじゃなくて…!」
「じゃあ、何だよ」
「あ、あの…」
問われると、男は再び視線をさ迷わせる。要領を得ない彼に、気が短い男は懐に手を入れた。そして、取り出したのは、バチバチバチッ!と雷光を放つ札だった。
「帰んねぇなら死ぬぞ」
「ッ…!!」
札は明らかに自身に効力を発揮するものだと、男は後ずさる。
「あの…」
「帰れ」
今度は低く唸るような猟師の声が、男を威嚇した。
それに、ぎゅう…と胸元で手を握りしめた彼は、泣きそうな顔をして背を向けた。
雪山に消えていく背中。男が真っ白い事も相まって、直ぐに溶けるように消えていった。
そこでやっと猟師は肩の力を抜いた。懐に札を仕舞い、扉を閉める。閂を入れて、囲炉裏の近くに腰を下ろした。
「はぁ……」
自然と零れたため息は、化生に訪ねられた事に対する苛立ちか。それとも、最後に見た男の表情のせいか。
パチ…と火が跳ねる。夕暮れのような橙色の光に照らされた猟師は、心にずくりとしたものを残して、夜を過ごした。