2: a priori Ⅰ
自分より遥かにちいさい身体の知恵の神にしこたま叱られる夢を見たカーヴェは、再び、真っ白いキャンバスのような世界で目を覚ました。
あまりにもショック過ぎて、最後の方は殆ど思い出せない。夢の中の出来事など、そんなものだ。ただ、悲しげに目を伏せたナヒーダが、アルハイゼンからの言伝だと教えてきた言葉だけははっきりと覚えていた。
「思い起こせと言われたって……ん?」
頭を掻くカーヴェの目の前に広がるのは、遠い昔に過ぎ去った筈の光景だ。視界に入る手は、直線もろくに引けないだろう程未熟に見える。握る、開く。思考と共に滑らかに動く白い手。
カーヴェは自分の現状を確認し終わるのと殆ど同時に、家を飛び出していた。目指すは教令院のあるスメールシティだ。それしかない。
何もかもが崩壊してぐちゃぐちゃになってしまう前の、美しい自然の中を駆ける。未発達の体は想像以上に不便だったけれど、手の中にはいつの間にか、鮮やかな神の目があった。当たり前だ。かつて神の目線を射止めたカーヴェの願いは変わっていないのだから。
カーヴェは自分がこれまでにした、ありとあらゆる選択を後悔し続けてきた。後悔していないこともある。同じ状況になれば、また同じ選択をするだろうとも思う。でもやっぱり、後悔は後悔以外の何物でもないのだ。
そんなカーヴェに。大人になった後の、知識も後悔も全部背負って、あの甘くも最悪な学生時代からやり直せというのか。
やってやる。カーヴェはまだ、間違っていない。あの頃完成させられなかった二人の研究で、カーヴェから大切なものを奪い去っていく教令院のやつらを、高みから引きずり降ろして……カーヴェは今度こそ、アルハイゼンの幸福を守るのだ。
……しかし、決意したはいいが、一体どうするのが最善だろう。カーヴェの手の内には相変わらずぼんやりと光る草元素の神の目があるが、裏を返せば“それしかない”。今のカーヴェは妙論派の栄誉卒業生ではなく、まだ何も成し遂げていない、ただの無名の少年でしかない。
とりあえず何とかして、教令院の中枢に近付かなければ。そのためには、教令院に入学し、優秀な成績で卒業しなければならない。まあ、成績の方は、特に何をしなくとも、カーヴェならどうとでもなる。
あと、できるだけ早くカーヴェの最大の武器であるメラックともう一度会いたい。それから人脈と戦力を整え、クラクサナリデビ様を救出しよう。鳥籠の中に閉じ込められている時間は、短い方がいい。
決意を抱えながら学者たちを観察していたカーヴェの目に、人混みの中を器用にするすると歩く小さな影が止まる。瞬きする間に見逃してしまうのではないかというくらい、小さく幼い、影のような少年だ。柔らかな銀糸。前髪は目元をすっぽり覆う程長い。人目に晒された耳。彼は確か幼い頃に一度、体験入学のために教令院へ来て、それで、つまらないと言って帰ってしまった筈だった。
ああ、今日がその日だったのか、と。カーヴェは納得していた。
太陽は真上を越え、少しずつ沈み始めている。
そのとき自身の頭に浮かんだ一つのアイデアは、カーヴェにとって、とても魅力的なものに見えた。
カーヴェが好奇心にも似た決意と共に歩き出せば、カーヴェの存在に気付いた教令院の人々の間で強いどよめきが巻き起こる。そこにあるのは、あのような幼い子供が何故、知恵の探求者の証である草元素の神の目を持っているのか、というくだらない疑問だ。それらの愚問をすべて無視して足を踏み出す。すると、カーヴェの進行方向に道を作るかのように、人混みが真っ二つに割れた。
しかし、聡明な少年はそんな周囲の動揺に何の興味も向けないまま、教令院から去ろうとしている。
カーヴェはその目になみなみと失望を浮かべる彼の、その手を捕まえて。
「僕と一緒に入学しよう! 僕なら君に新たな世界を見せてやれる!」
まるで太陽が近付いてきたことに初めて気が付いたかのように目を丸くしながら振り向いた少年――カーヴェが彼をはじめて見つけたときより、ずっと幼い見た目をしたアルハイゼンに。カーヴェは、力強い主張をぶつけた。
夢というのは元来、支離滅裂なものだ。故に、そこでは、想像力の許す限り、どこまでも不条理であれるのだという。
カーヴェは想像したことがある。もっと早くアルハイゼンと出会えていたら。アルハイゼンと喧嘩別れせず友達のまま、最後まで一緒に研究することができたら。
既に自意識を確立した後のアルハイゼンは他人のために自分を曲げるということができない人間だ。そしてカーヴェもまた、これまでの人生の中で培ってきた自身の生き方を変えることができない。二人の世界観がそもそも違っている以上、いつまでも同じ方向を見続けることはできなかった。
だからこれは、カーヴェな自分勝手な欲で、気の迷いで――最大の過ちだった。
「何なんだ、きみは」
……ところで、こんな馬鹿みたいな初対面だったから、当然アルハイゼンにはこれでもかと警戒されていた。恐らく、彼の聡明さを過剰に持ち上げようとする無能な学者たちからの世辞の数々に辟易していたというのもあるかもしれない。ぎろりとカーヴェを睨みつけてくる、遠慮を知らない猛禽の目。
たった半日、されど半日。教令院は、研究施設と捉えるなら、研究者に必要な環境がテイワットで一番整っている場所であるといえる。しかし教育施設と考えると、最悪といってもいい位酷い場所だった。カーヴェのような人間にとって教令院は、苛烈な権力闘争で若い才能の目を潰し、名誉欲と金銭欲が渦巻く、醜い世界のように思われた。教授陣は頭が固く、カーヴェのように新しい考えを持つものを受け入れない。その上彼らは、建築を、依頼主や利用者のためではなく、自分の才を証明するための手段として用いている。
カーヴェは自分のこれまでの経験を総動員し、何とかアルハイゼンに気に入られようと、あの手この手の話題で彼の気を引いた。
その結果。
「――立地条件、それから利用者の諸分布によって、機能性を追求するべきか、快適さを追求するべきかが決まってくるんだ。設計は現状と理想の架け橋になるためのものだ。美しいだけで使えない建築なんて、ただの置物と変わらないじゃないか。機能美こそ設計者が求めるべき真の美しさだ。使いものにならない建築なんて、建築士の怠慢だとしか思えない」
「なるほど……。興味深い観点だ」
「それに、既にできあがっている部分とのバランスという問題もある。見た目の快さと利便性を両立できているものだけが、優れた芸術と呼ばれるべきだ。……つまり、初期の教令院はあらゆる社会階層の人間が集まることが当たり前だったからこそ、家庭で勉強できない人々が長時間ここで過ごせるよう、快適さを重視した設計になっていた、と歴史的に推測することもできる」
「しかし今はあまり快適とは言い難いようだが。むしろ権威的に見える」
「ああ。だから今の姿は、これまでの改築担当者たちが学院設計の本質というものを理解せず、己の存在を誇示するような蛇足を増やし続けたり、重要なものを省いてしまったりした結果だよ。ほら、さっき僕が君に言った柱の位置なんて、その最たるものじゃないか。明らかに後から追加されたものだと分かる不自然さで、まったく美しくないだろ」
「確かに、椅子を動かすときに少々邪魔だと感じた」
「ある程度の背丈がある成人男性にとってはあまり気にならない欠点でも、今の僕らにとってはただの余分な柱でしかない。こんなところに柱を配置せずとも大樹の成長と共に低下した建物の耐久性を復活させる方法はいくらでもあっただろうに、その方法を見つける努力を怠ったんだ。彼は己の功名心と見当違いの金銭的配慮のために軽薄な手段を選び、最も長い時間この施設を利用し続けることになるだろう幼少の学生たちのことを考えていなかった」
アルハイゼンが開いていた本を横から覗き込みながら、その内容に対して、カーヴェはそこにあるものとは異なる見解を提示した。
「故に、その本の著者である自称“一流建築デザイナー”は、僕から見れば二流、いや、三流以下だ。その美的主張も空理空論ばかりで、まったく信用に値しない。……どうだ?」
カーヴェの話を聞き終えたアルハイゼンは、本をぱたり、と閉じると、カーヴェの方に顔を向けた。
「教令院の授業は、本に書かれていることをただ徒に口に出しているだけのくだらないものばかりだったが……きみの話を聞いているのは多分、有益だ、と思う」
「それはよかった!」
まだ幼いだろうアルハイゼンに、ちょっと勢い良く話しすぎてしまったと思ったが。やはりアルハイゼンには卓越した理解力があり、思考も柔軟だ。
カーヴェが笑顔を見せれば、アルハイゼンは丸い頬を赤らめ、柔らかく笑った。明らかに、生身の人間と関わることに全く慣れていない様子の彼が。ひどく愛おしかった。
「……アルハイゼン。きみは?」
「僕?」
「うん。きみの名前を知りたい」
「ああ、名乗ってなかったか。僕はカーヴェ。建築家だ」
「建築家?」
「あっ、いや、……これからなるんだ」
そうだった。まだカーヴェは一学生、ですらない身だ。
慌てて言い訳をすれば、アルハイゼンは、ふにゃり、と目元をさらに崩す。
「きみは、ここで出会った誰より、ずっと大人みたいだ。もう何年も建築に携わってきたと思わせられるほど、卓越している」
鋭すぎる指摘に、どきり、と心臓が跳ねたけれど。アルハイゼンが向けてくる、素直な憧憬の目はくすぐったい。成長しきった後のアルハイゼンは、カーヴェのことを常々子供だと言って憚らず、尊重なんかまったくしてくれなくなってしまうので。
現実味がなくなりそうな程柔らかい、アルハイゼンのまだ小さな手をやんわりと握る。甘く蕩けたキャンディのような表情をした彼の、複色の虹彩の中に映ったカーヴェの影は、見慣れない顔をしていた。
「なあ、アルハイゼン。一緒に教令院に通おう」
「……いや、俺は」
驚いて手を引っ込めようとしたアルハイゼン。しかしカーヴェはその手を離さず、彼が躊躇しているだろう理由を、一段ずつ除いていく。
「授業なんて真面目に受けなくたっていいよ。君、分かるんだろう。最低限のレポートさえ出せば賢者たちだって文句は言えないさ」
カーヴェはどうしても、またアルハイゼンと同じ景色を見たかった。
「……そんなことを言っていいのか?」
「いいんだよ。僕たちにはそれだけの力がある」
現書記官の仕事はカーヴェが知るアルハイゼンのそれよりずっと……言ってはなんだが、“杜撰”だった筈だ。アルハイゼンが書記官に就任してから、質の良くない研究に、何故か多額の予算が出るということが減ったことは、恐らく事実だろう。
「僕もこれから教令院に入学するつもりなんだ。確かにロクな奴がいないけど、一番設備が整っているのも事実だからね。僕と一緒に研究しよう。僕たち、きっといい研究ができる」
「いい研究?」
アルハイゼンは己の好奇心に惹かれるまま、無防備に首を傾げた。
「真理に対する世界中の人々の認識をすっかり変えてしまうくらいの、大きな研究さ」
カーヴェの語る曖昧で途方もないビジョンに、アルハイゼンは何かを感じたのだろう。目を伏せ、瞳を小さく揺らした後、「うん」と承諾の声を放ちながら、大きく一度だけ頷いた。
それからカーヴェとアルハイゼンは、二人で教令院に申請書を出しに行き、その後の入学試験も軽々とパスした。当然だ。カーヴェの方が少しだけ高かった試験結果を見せながら「困ったことがあったら、先輩の僕に何でも頼ってくれ」と胸を叩いて言えば、アルハイゼンはふてぶてしく「同時入学なのだから、先輩も何もないだろう」と答えながらも、口角を上げていた。
カーヴェはアルハイゼンが別学院の授業にも出席していたことを知っていたから、二人分の傍聴資格を申請し、アルハイゼンが興味を示したあらゆる講義に二人で出席した。講義はどれもつまらなかったけれど、アルハイゼンと同じ体験をするのは、どうしようもなく甘美だった。……アルハイゼンと離れたくない、彼を失いたくない、という気持ちがさらに深まっていくのがわかった。
「カーヴェ」
「帰りたくない……アルハイゼンと一緒にいたいんだ」
今更アルハイゼンとの時間を放棄して元の住処に戻る気にもなれなかった。要は、今更の別居に耐えられなかったのである。
日に日に自分の家に帰りたがらなくなっていくカーヴェに。アルハイゼンは呆れたような、しかし親愛の情が仄かに滲む顔をして、小さく溜め息を吐いた。
……ズルズルと長くなっていく別れのための時間に、カーヴェを引き剥がすのも面倒になったのだろう。
その日、アルハイゼンは初めて自分からカーヴェの手を取ると、彼と祖母が二人で暮らす家に連れて帰った。
「ただいま」
「おかえり……あら」
「お、お邪魔します」
アルハイゼンの祖母は、自分の孫が突然連れて帰ってきた同年代の少年の姿に目を丸くしてから……カーヴェの事情を聞くと、滞在を認めた。
それからカーヴェたちは、それぞれの所属学派を示す目印の他は同じ制服を着て、同じものを食べ、同じ家に住んだ。部屋は別々だったけれど、こっそり同じ寝台で眠ることもあった。まったく同じ講義を取るカーヴェたちは、教令院でも、二人で時間を過ごした。同輩は年上ばかりだが皆幼すぎて話が合わない。だからカーヴェはもっぱら、アルハイゼンとばかり過ごしていた。そして、二人で共に経験したすべての物事について、お互いの意見を共有し続けた。
二人は次第に、他の学生や教授たちからも、いつも隣の席に座っている年若い二人組、と認識されるようになっていった。