2024.4/15・襟尾純誕生日小話 《約束の生まれた日》
張り込み用に押さえた雑居ビルの簡素な一室で、二人の刑事が肩を並べカーテンの影から外の様子を窺っていた。クッションの薄いパイプ椅子がぎしりと音を立て、白シャツ姿も爽やかな若い方の男が口を開く。
「いまのところ目立った動きはないですね……」
勤務中の襟尾巡査部長は、当然といえば当然だがしごく真面目な面持ちだ。被疑者が潜伏しているとのタレコミがあった安アパートに出入りする人影に、注意深く監視の目を向けている。隣で同じく窓の外に注視していた津詰警部が「そうだな」と軽く相槌を打った。その声に常と異なる覇気のなさを感じた襟尾はチラと上官の横顔を盗み見る。
張り込みというのは刑事の職務の中でも特に地味でツラい仕事の一つだ。時により車中からであったり、いつでも動けるよう物陰に潜み野外で立ちっぱなしという場合もある。今回は室内待機なのが幸いだが、ある程度の自由が利くと不思議なもので今度はひたすら時間の流れが遅く感じ、延々睡魔との殴り合いが続く。
(もう4月か……、そろそろ藪蚊も出る季節だし外じゃないのは助かったが……、)
津詰は横目に並ぶ部下を一瞥する。
(……暑いんだよな、こいつの隣)
どうもこの襟尾という男は成人の標準よりも体温が高い気がするのだ。常に軽装なのもけして機動性を重視してのことだけではないだろう。現に冬場の張り込み時にはちょっとした携帯懐炉のように並ぶとほんのり暖かく、ここだけの話し最近めっきり寒さに弱くなったと感じる津詰としては重宝したくらいだ。
(面倒臭いことになるのは目に見えてっから、本人に教えるつもりは絶対にねえけどな……)
そのかわり夏場は暑い。とても暑い。襟尾の方から絶えず熱波が押し寄せてくる。去年の夏は過酷だったと思い返す津詰の表情がアンニュイに陰った。
だいぶ脱線してしまった思考を慌てて現実に引き戻した警部は、ううん……と小さく唸る。どうも今日は朝から《何か》を忘れているような気がしてならないのだ。けれども仕事に私情を挟むわけにはいかない。散漫になりがちな集中力を幾度も束ね直しては捜査に向き合う。座面の薄いパイプ椅子のせいかそろそろ尻が痛くなってきた。
「―こりゃあ、長丁場になっちまいそうだな」
襟尾の隣で双眼鏡から顔を離した津詰はトレードマークのサングラスを外すと目元を指で揉み、脇のデスク上に無造作に転がっている目薬に手を伸ばした。
「……あー、沁みやがる」
両目をショボショボさせながら溜息を吐く上官の姿に、横顔を向けたままの襟尾が呟く。
「年取ると色々乾燥して大変ですね、ボス。干乾びたら困るので、ついでに水分なり昼飯なり補給しててください。ここはオレが張ってるんで!」
この基本好青年然とした部下にはどうもこういう部分がある。惜しみない善意の中に時折混ざる、ほんの一匙希釈されたような毒の気配……。
(こいつのコレは……、ほんと、何なんだ……?)
その匂いを察したとき、津詰はいつも決まって妙な気分になるのだ。単純に腐されたと腹を立てればいいのか、まだ青い部下の怖いもの知らずな態度に苦笑しつつ頼もしく思えばいいものか……?そんなことを考えながらも部下の提案にありがたく乗ることにした津詰は、昼飯用に買っておいたあんパンの包装を開け噛りつく。
照りのついた焼き色が食欲をそそり、ヘソ部分に埋まる塩漬けの桜の風味が餡子の甘味をより引き立てて美味い。あんパンはやはりつぶ餡が好ましいと内心舌鼓を打ちつつ、津詰はひとり張り込みを続ける襟尾の横顔をぼんやり眺めた。
「真面目に働く部下の姿を眺めながらとる食事は格別美味しいでしょう?」
表情を崩さぬ部下の口からまろび出た言葉はマイルドな皮肉だ。
「―ごほっ!……おう、急に刺すもんじゃねえぞエリオ?その部下につぶ餡飛ばすとこだったじゃねえか。スイカの種みたいに……!」
「ほら~、乾燥しすぎて咽ちゃってるじゃないですか!もう、ボス、ちゃんと牛乳も飲んでください。カルシウム摂取も大事ですからね?」
「いま咽たのは乾燥のせいじゃねえんだよなあ……」
ブツブツ言いつつ牛乳パックにストローを挿した津詰は大人しく口をつける。
「……今日のボス、いつになく上の空ですけど、何か悩み事でもあるんです?」
今度は咽る一瞬前で飲み下すことに成功した津詰は余裕さえ漂わせながら部下を見た。もっとも、表情は困惑一色だったが。
「―え、上の空だったか?……そんなに?」
「《心ここにあらず》って感じですかね。たとえば、なにか大切なことを失念してるとか……」
「なんでわかるんだよ……ッ!?」
思わず椅子から立ち上がり大声を出してしまった津詰は慌てて口に手を当てる。珍しい上官の姿に一瞬驚いた顔を向けた襟尾だったが、くしゃっと子供っぽく笑うと窓に向き直った。
「……当たっちゃいました?―まあ、オレはいつもボスのこと見てますから、このくらい朝飯前ってとこですかね!」
なぜか得意気な部下のつむじを見下ろしていた津詰はバツが悪そうに再度椅子に腰を下ろすと自棄のように呟く。
「何か……、多分それなりに大切な何かを忘れてる気がするんだが……。それが何だったか思い出せねえんだよな」
「オッケー、ボス!《忘れてるってことを忘れてない》だけマシなんじゃないですかね?切れてますよ!」
「おい、エリオ。……それは脳の血管かどこかがってハナシか?」
「ボス……、その先はオレの口からは…………、」
言葉尻を濁し、かすかに眉を顰めた部下の眼差しがスッと鋭くなる。
「エリオ……」
「ボス……、たった今誰か被疑者宅に訪問しました。目撃証言による共犯者の人着とも一致します。どうしますか?」
緊張を孕んだ襟尾の声に津詰もたちまちベテラン警部の顔つきに戻った。
「―どうってそりゃ、行くぞエリオ……!」
「オッケー、ボス!!」
それまで長閑一辺倒だった現場に緊張がはしる。二人の刑事は別の場所で待機する仲間たちと素早く連絡を取り合うと事件解決に向け行動を開始した。
◇
あの後の急展開であれよあれよという間に大捕り物劇へとなだれ込み、それに関連する諸々の業務を終え、刑事二人がようやく帰途についた頃には、時刻はすでに午前零時を迎えようとしていた。
冬の寒さも温んだ4月の夜は気怠く、一仕事終えた疲労感もどことなく心地好い。闇夜から時折、満開の季節を過ぎた桜の花びらが数枚どこからともなく飛来する。
「すっかり遅くなりましたが……、今日の内に山場は越えられて良かったですね」
張り込みとデスクワークとですっかり凝り固まってしまった肩回りを擦りながら襟尾が欠伸混じりに呟いた。
「そうだな」
気の抜けた風な相槌を打つ津詰の顔を見た部下は何事か思い出したらしく悪戯っぽい目で問いかける。
「―そういえば、ボス。忘れてたことっていうのは結局思い出せたんですか?」
「……あっ!」
言外に「しまった……!」(すっかり忘れていた!)が滲み出ている上官の反応に、襟尾の印象的な二重がスッと細められた。
「はいはい、耄碌耄碌。ついに忘れてたことすら、忘れちゃってたんですねえ……」
部下からの、痛ましいものを見るような同情の眼差しに津詰は何も言えず唇を尖らせる。
「―だってよ、まじでなんだったか思い出せねえんだもん……」
そんなこんなで連れ立って墨田署を出た二人は歩くうち、お互いの帰路が分岐する地点に差し掛かった。何の気なしにいつもの流れで一緒に飯でも食うつもりでいた津詰は、数歩先を歩いていた襟尾が突然立ち止まったことに怪訝な眼差しを送る。後に続く上官に向き直った部下は明瞭な声で挨拶した。
「―では、ボス、本日はお疲れ様でした。また明日、29歳になった襟尾純巡査部長をどうぞよろしくお願いします!」
効果音が聞こえそうな姿勢の良さで敬礼をしてみせた襟尾はそのまま踵を返し立ち去ろうとする。
「……は?29……?―え、お前もしかして今日誕生日だったの?おま、そういう大事なことは先に言え!いつも余計なことはペラッペラ喋るクセして……!!」
咄嗟に腕を掴みまくし立てる津詰の剣幕に真ん丸く目を見開いた襟尾だったが、恐る恐るといったていで目の前の上官に確認した。
「―あの、もしかして、ですけど……。ボスが今日失念してたそれなりに大切なことって《ソレ》……で合ってますかね…………?」
「はあ?……あー、そうだな。それだ!……多分な」
きまり悪そうに頭を掻く津詰の返答を受け、神妙な顔で一度ぱちりと瞬きした襟尾が直後ふにゃっと脱力した風に笑う。
「そう……ですか。覚えててくれたんですね……。いや、結果的には忘れてましたけど。―大丈夫です。オレ、もうそれだけでお腹いっぱいなんで……!」
「んなわけねえだろがよ……。お前だって昼にアンパン食ったきりじゃねえか!―いや、そうじゃねえな。前もってわかってたんなら、こっちもそれなりに祝ってやれたかもしれねえのに……。―いやいや、俺が忘れてただけなんだから、お前にどうこう言うのは筋違い……ってやつ、か?」
津詰はなにやら一人でブツブツ悩んでいる。察するに、過去に妻や娘の記念日関連でやはり相当拗れた記憶があるようだ。そしてかつて痛い目は見ていても、いざとなるとてんで駄目であるらしい。この方面の学習がそもそも期待できないタイプの人間なのだ、この津詰徹生という男は……。
「でもボス、誕生日プレゼントをくれるって気持ちは嬉しいですけど、今日もうあと数分もありませんよ?」
このままでは埒が明かないと判断した襟尾はさり気なく助け舟を出す。部下からの言葉に慌てて刑事らしい仕草で腕時計を確認した津詰はさらに焦った様子でスーツのポケットを探りだした。
「ええ?―あと三分?まじか!……ええと、なにか…………、」
その姿が可笑しくてつい微笑ましく見守っていた襟尾だったが、ふと何か妙案を思いついたらしくぱっと顔を輝かせた。
「あ、それじゃあタイムリミットも迫ってることですし、この際オレから強請ってもいいですかね?」
「お、おう……。世間一般の常識の範囲内で頼むぞ?」
襟尾からの提案にあからさまに顔を引き攣らせた津詰が身構える。
「オレの常識の範疇でですね!お任せください!」
「いやいやいや、それは不安しかねえが……!?」
胸を張って答えると、一瞬真顔になった襟尾は真っ直ぐな眼差しで津詰の顔を見つめ、告げた。
「―次の、来年のオレの誕生日には絶対飯奢ってくださいね!」
部下の静かだが明瞭な声に不意を突かれた津詰は、一呼吸置いてから間延びした返事をする。
「へ?……来年の話しかよ?鬼が笑うぞ……?」
「いいじゃないですか、鬼に笑われても。その際には、再来年の誕生日に奢ってもらう約束を取り付けますから」
「ええ……?そりゃ一体どういうことだ?」
「一年先のボスの予定、その日だけはオレが貰っちゃうんで、忘れて他に予定入れたりしないでくださいね?」
「この先オレが順調に昇級して階級が変わったり、またボスが別部署に異動になったり、退職したり、耄碌しちゃっても、その日だけは一緒に飯食いましょうよ!」
「まてまて、不敬なうえに情報量が多い……!」
「約束ですよ」と屈託なく笑う部下の姿をしばらく無言で眺めていた津詰は一つ嘆息すると頭を掻いた。ゆったりと襟尾の隣に歩み寄る。しばらく逡巡していたが意を決した風に口を開いた。
「……あー、エリオ」
「なんですか?もしかして帰り道がわから……、」
「ああ……いや、そういうのはもういいからよ。やっぱさ、腹減ったからこの後どっかで飯食って帰らねえ?」
「いいんですか?―あ、これで奢りの約束果たした~とか逃げる気だったら断固追及しますからね?オレは!刑事生命に懸けて……!」
「そんなモンに刑事生命懸けてんじゃねえよ……!―安心しろ、ただの俺の奢りだ」
「それならご一緒します!」
ついさっきまでの殊勝な態度から一転、「どこの居酒屋にしますか~?オレ、実はやっぱりすっごく腹減ってます!」などと能天気にはしゃぎ始めた部下の軽やかな足取りを横目に、津詰は津詰で何やら感慨深いものを噛み締めていた。
(こんな職業柄で、オマケにこんな生き様だしよ。それこそ、いつどこでおっちぬかなんてわからねえし、―正直、そうなったとしても仕方ねえなと考えてたんだが……)
ふと視界を過った白い影を目で追うと、横に並ぶ部下の黒髪に張り付くのが見える。何気なく手を伸ばし指先で摘まんだ桜の花弁をすぐ温い風が連れて行く。花びらの軌跡を見送った襟尾が満面の笑みで振り向いた。
なんとなく、部下というより柴犬みたいだな……とちょっと怒られそうなことを考えた津詰も釣られて微笑を浮かべる。途端、笑顔だった部下の表情が固まりぎこちなく顔を逸らせた。歩き方もどことなくぎくしゃくしている。
(……なんだ?)
小首を傾げた津詰を置いて行くように急に速度を上げた襟尾の背に「―で、どこの店にするんだ?」と声をかけるも、いつものようなハキハキとした即答が返ってこない。色々不思議な部下だと肩を竦めた津詰はこんな夜もまんざらではないと思い始めている自身に気付くとそっと息を吐く。
(こりゃ当分、くたばってる暇ねえなあ……)
―桜は散り、春は往く。また次の春が廻ったら、どんな美味いものを食いに行こうか。二人で。何となく憂鬱に過ぎるだけだった春に降って湧いたようなささやかな約束。胸の奥にじわり温かな感情が灯る気配に津詰は顔を上げ部下の背を眺める。
「……そうだ。―おい、エリオ!」
「はい?―で、どの店にしましょうか、ボス。もう、いつものここでいいです?」
よく立ち寄る居酒屋の暖簾を見上げていた襟尾が津詰の呼びかけに振り向いた。
「誕生日、おめでとう」
赤提灯に照らされたせいだけではなく、部下の顔が目に見えて赤く染まる。
「―もう、ボス!ほんと、そういうところですよ……っ!?」
なにやら急に怒り出した襟尾の背を店の戸口に押し込んだ津詰は笑いながら後に続いた。店内に女将の朗らかな声が響く。薄っすら煙草のけむりで曇ったカウンターに二人並んで腰かけた。広いとは言えない店内は生憎とほぼ満席で、詰めた際に触れた肩越しに襟尾の高い体温が染みる。
―ふと、暑い夏が来るまでもう少しだけこの距離に甘んじてもいいかと津詰は思った。
《おしまい!》