汗のしたたる あれ、まずいかもしれない。くらりと揺れた視界にそんなことを思って、でもそれをどうにかする術があるわけでもない。踏ん張ったところであまり意味がなくて、地面がゆっくりと近づいてくる。
「っ、アベンチュリン?」
でもそこに身体がぶつかることは終ぞなかった。落ちた先はあたたかな腕の中で、しかしその体温が今は毒で。
母星だって熱い場所だった。気温は多分ここよりも高くて、それでいて冷房などといった文明の利器も存在しなかった。だから大丈夫だろうと高をくくっていたのが運の尽きだったのだろうか。
「……はぁ。熱中症の危険度には気温だけではなく、湿度や輻射熱も関係する。ここは四方が海に囲まれているのもあって湿度が高いんだ」
レイシオのありがたいご高説が遠くで聞こえているのに理解ができない。何か、言わないと。だって彼とはここに仕事で来ていて、多分今後も一緒に仕事をすることがあるはずだ。なのに体調管理のひとつもできず、そのための対策も助言も聞き入れられないとなれば、それは彼の嫌いなバカアホマヌケと同義だろう。それだけは回避しなければ。なのにどうして、口が動かない。
「意識はあるか、アベンチュリン」
「……ん、」
「ならいい。立てるか?」
そう言われて試みてみるものの、地面がスライムみたいにぐにゃりとへこむ感じがする。実際そんなことはないのだろうが、それくらいには平衡感覚が崩れているらしい。駄目だ、自分がまっすぐ立てるイメージが一切沸かない。
「ごめ、」
「いや……いい。抱えても?」
こくん、と頷くだけでもぐらりと頭が揺れた。本格的に一歩も動けなくなってしまって、そんな情けない身体を彼の腕が持ち上げる。筋肉質なレイシオの腕の中は暑くて、でもあたたかくて、そこから香る彼らしからぬ汗の香りに何となく安心した。
「軽度の熱中症だ。気分は?」
「……さいあく」
「だろうな。吐きそうならそこのごみ箱を使ってくれ」
ホテルの中は程よく空調が効いていて、熱くなり過ぎた身体を冷やしてくれていた。そしてフロントからもらってきたのか、小さな冷却材が四つ。首元や脇、鼠径部に配置されたそれらが効果的に身体の温度を下げていって、さっきまであった気持ち悪さはようやくなりを潜めてくれた。汗で張り付いた髪が酷く煩わしい。
レイシオは風呂に向かったらしい。今日の仕事は終わっているし、こんな汗まみれの男を一人抱えてここに運んだのだ。潔癖な彼は、そんな汚いものを抱えた後の身体のままでは満足に休めないだろう。それでも仕事のパートナーだからという理由でここまでの処置をしてくれたのだし、感謝しなくては。信用ポイントをどれくらい払えば足りるだろうか。
「……ぅ、みず、」
口渇感が酷い。唾液が粘度を増してまとわりつく感覚がして、それを洗い流したくて身体を起こした。途端にぐらり、と頭が回る。あ、まずい。さっきおさまっていた気持ち悪さがまたぶり返して、それをどうにかしたくて身体を丸めた。
「アベンチュリン?」
「っれ、しお、」
「気持ち悪いのか? ……一度横にする。右に倒すぞ」
あれ、レイシオがいる。風呂に行ったと思っていて、それが終われば自分の部屋に戻ると思っていたのに。でもそれなら自分の部屋で入ればいいのではないだろうか? それに、汗を流したにしては戻ってくるのが早すぎる。身体に触れた手はさっきよりもずいぶん冷たくなっていて、でも身体が近くなったせいで感じる熱はいつも通りだ。ゆっくりとベッドに落とされ、仰向けに戻されていく。
「みず、」
「……あぁ、なるほど。少し待ってくれ」
起き上がったせいでずれてしまった保冷剤を戻されて、その一言で手が離れた。戻ってきた彼の手には水のボトルが握られていた。起き上がらなければ。せっかく彼が持ってきてくれたのだし、それを無駄にするわけにはいかないだろう。でも今起き上がったらさっきの二の舞になるのは目に見えていて、そうなると結局は彼の迷惑になるのではないだろうか。そんな思考と身体のだるさが相まって動けない。どうしよう。何か、言わないと。
「アベンチュリン、こちらを向けるか?」
「う、ん」
「口を開けて。ゆっくり吸うんだ。……そう」
「ん……」
言われたとおりに顔を傾ければ、差し出されたのはストローだった。レイシオが持ってきてくれたボトルから伸びるそれは、吸い上げれば水が口内を満たしてくれる。少し、また少しと口の中を潤わせては飲み込んで、それを何度か繰り返せば気持ち悪い口渇感もいくらかましになった。
ストローから口を離せば、すぐにそれが遠ざかっていった。そしてざぶ、という水の音。布を絞る音がして、白いそれが視界に入った。ぴとり、と冷たいそれが頬に触れる。
「れいしお、」
「気持ち悪いなら言ってくれ。拭くだけだ」
汗で貼りついていた髪を払って、額や首元の汗が拭われていく。はだけさせられている胸元、それから脇。事務的なのに優しさの滲んだ手つきと、近いから分かる彼の汗の香り。
レイシオは、自他ともに認める潔癖だ。だから一日に何回も風呂に入っていたのを知っているし、一緒に仕事をする時だって愛用しているボディソープの匂いがほのかに香る程度だった。なのに今は汗だくな自分のケアを放り投げて、甲斐甲斐しくアベンチュリンの世話を焼いてくれる。彼にとっては悪臭であろうそれを洗い流すより前に。
「……どうした?」
「ん……きもち、いい」
はふ、と息を吐き出せば赤色がぱちりと瞬いた。そして「そうか」と一言落として、また優しい手つきで体中が拭われていく。かなり無防備な状態だ。今ここで彼に悪意があればこの身体を暴くことも、いっそ殺してしまうことも簡単だろう。レイシオじゃなかったらきっと部屋から追い出している。それくらいの危機管理は、できている。それがレイシオに向かないのは、熱中症とともに脳が溶けてしまったからなのだろうか。
それでもいいと思ってしまって、だから心地いいと目を閉じてしまって。汗の匂いに交じってほのかに香るあたたかな香りを感じながら、ゆっくりと意識を手放した。