大概にしろ それはあくまで癖、のようなものなのだと思う。一歩近づくと、一歩離れる。それは物理的なものであり、それでいて概念的なものでもあった。つまりは近づこうとしても近づけないのだ。その距離はずっと変わらずに、縮むことがない。
「教授?」
こてり、首をかしげてこちらを見上げるような仕草はあどけなささえ感じさせるのに、その瞳だけは酷く冷徹だった。触れればこちらが怪我をするような危うささえあって、踏み込むことだって躊躇われて。
「どうしたんだい」
「いや」
そう思っていたのはいつのことだろう。ちか、ちか。下から見上げるその瞳が瞬くようで、しかし不審がられないようにその手元の資料に視線を戻す。これは数日後に共に赴く星のもので、そこの文化文明や政治に関する情報を確認していたのだ。レイシオの傍に、彼を寄りかからせるようにして。
最初はそうはいかなかった。この距離まで近づくことを許されるわけもなければ、そもそも触れることだって無理だっただろう。そんな素振りを見せようものなら、この間に太く深い溝が出来上がっていたはずだ。同じ画面をのぞくなんてそれこそ、絶対に有り得なかった。
「ねぇこれ、ほら」
写されていた資料は音もたてずに消えていき、そこに写されたのは彼の部屋であろう写真だった。その中心にはルアン・メェイの創造物が文字通り転がっていて、彼のブランケットの上で夢の中へと旅立っている。
「ちょっと早く目が覚めたんだけどさ、ベッドの下見たらこれで」
まるで溶け出るように、ケーキから伸びている三つの小さな生き物たち。彼の家に明け渡した当初は、借りてきた猫にすらなれずに部屋の隅に固まって震えていたというのに。今ではここまで気を抜けるようになったのかと思うとなんとも感慨深い。それをレイシオが感じるのは、些かおかしな話かもしれないけれど。
「んふ、可愛いよねぇ。あ、こっちは食いしん坊な子ががっつきすぎてお皿ひっくり返しちゃったとこで」
スライドされて出てくる、小さな生命体の写真。ぱらり、ぱらり。ひとつひとつの写真を事細かに語る彼を盗み見れば、その視線は画面に釘付けだった。こちらに向けられる気配もない。しかしその話を聞いていると信じきっているらしく、もっと良く見ろと言わんばかりにかかる体重も端末との距離も近くなった。
「ね、レイシオ」
そしてついに最後の写真まで行ったのか、その画面をスライドさせても新たな写真は出てこない。そしてぱ、と彼の顔が、上げられて。
「っ、!」
ちょん、と鼻が触れ合う。彼に分け与えたレイシオと同じシャンプーの匂いがして、その上で彼がよく使う香水と、それから。
「ぁ、ごめ、」
それを判断する前に、慌てたような彼が身体を離した。白い肌ではその血色が変わるのはよく分かる。レイシオも、人のことは言えないかもしれないが。しかし彼ほど顔色が変わるようなこともないのだ。いや、彼だってそう顔色をころころと変えるような人では無いが。ない、だろうか。あくまでも仕事の時は、そうは思ったことがない。
「ちょっとはしゃぎすぎたね、えっと……そう、今度の遠征の話に戻ろうか」
「他に何を? ある程度の情報共有も、擦り合わせも終わったと思うが」
「……君、さぁ」
遠くなってしまった瞳が、ちかちかと瞬くようだと思っていた瞳が、今度はじとりとその色を変える。恨めしそう、不満そう。苛立ちか憤怒だろうか。どれも近いようで、なんだか違う気もする。
「じゃあ、なんでまだここにいるんだい」
頬が赤くなっている自覚はあるらしい。端末を置いたその両手が隠すようにその頬を覆っている。そんなことをしても、手袋をしたままの黒い指の間からそれが見えてしまっているんだけれど。
「君がまだ話を続けていただろう」
「いや、もう脱線してたし……君だって暇じゃないだろ。僕が浪費していいような君の時間なんてないんだから」
「僕は君から彼らの話を聞くのは嫌いじゃない。そもそも、彼らを君に預けた責任の一端は僕にある」
だから彼から報告を受けるのは当然だろう。確かに距離が近くて、顔を上げた彼がそれにようやく気付いたのだからあれは無意識での距離感だったのだと思うが。しかし最初から強固に堅牢に築かれていた壁が少しずつ瓦解しているのは、レイシオとしてはいい傾向だとも思うのだ。警戒心がなければ生き抜くことは難しかった過去があるのは分かる。でも今はもう、奴隷ではなく『アベンチュリン』なのだから。
「……君、まさか技術開発部でもこんな与太話に付き合っているのかい」
「まさか。あそこで話しかけてくるのはほとんどが救いようのないバカアホマヌケだけだ。耳を傾けるだけ無駄だろう」
「ふぅん。……これ、別に資料送ったんだから直接会う必要はなかったんじゃないか?」
「効率を取っただけだ。メッセージや通話でのやり取りを繰り返すより、直接会って会話した方が早い」
「今日ここ以外には? 技術開発部には顔を出したのかい」
「いや? 今日の予定は君との打ち合わせだけだが」
たまたまそう決めたこの場所で、彼のそんな壁がだんだん薄く、そして低くなっていることを感じることが出来たのだ。いい傾向だろう。彼にそんな自覚がなくとも、それは事実としてレイシオへ情報を与えてくれる。
なのに彼の口から零れた声に、言葉に、首を傾げることになるのだ。無意識も大概にしろ。それは、彼に言うべき言葉であると思うのだけれど。