欲と矜持 頭の中でぐわん、ぐわんと何かが踊っている。なんだろうこれ。ブラックアウトしていた視界は未だに曖昧なままで、でもここで膝を折ってはいけない、ということだけは分かっていて。
「……僕がSubなのは隠してないけど、それにしたって出会い頭にGlareとCommandっていうのはさ。ねぇ?」
「っな、なん、『kneel』!」
「学習能力は皆無か。うーん、君はカンパニーの取り引き相手としては、あまり相応しくないらしい」
足に力が入らない。今すぐにその足元に跪きたいと本能が叫んで、それを理性で押し込める。仕事中だ。仕事はしっかり、ちゃんとこなす。それが『彼』との約束であり『彼』からの、命令。
「くるなっ! くそ、くそっ」
『stop』。また放たれるCommandに、彼の言葉を頭で反芻しながらやり過ごす。Commandではないただの言の葉。ただの優しい、こちらを気にかけるだけの彼の声。
「さてと。僕は次の仕事があるんだけど……君たち、『おもてなし』を頼むよ」
「承知しました!」
会合という名の交渉の場は既に終わっている。この客からすれば、相手がSubの時点で全ての要求が通ると思っていたのだろう。カンパニー幹部、隠していない第二の性。その時点で、一筋縄ではいかないというのが少し考えれば分かるだろうに。
とはいえアベンチュリンだってそれなりに限界だった。前とは状況が違う、というのが大きい。数週間前に限界を超えたのかサブドロップを起こしてしまって、それ以来DomからのCommandに過剰反応するようになってしまっているのだ。その時たまたまこの身体を拾ってしまったビジネスパートナーである『彼』に、今も治療と称した言葉を貰って凌いでいる。
第一心理大学の校門をくぐり抜けて、教室棟を抜けて学術棟へ。その一角のラボを目差して、もうそこしか目に入らなくて、すれ違った人が誰かも分からないままに一目散に足を動かす。もしかしたらもう走っていたのかもしれない。ただこんなにも派手な服を着た得体の知れない誰かに、声をかけるような奇特な人がいなかっただけで。
「っおい、ノックを……ッ!?」
そして扉を開いた先にその人はいた。白衣を纏った大きな体躯、真っ直ぐに伸びた背筋。その上に乗っているような小さな藍色、紫色。
「れぇ、しお」
「……せめて呼べ。おかえり」
「ん、ん」
扉を開けてその勢いのまま、彼の背中へとたどり着く。はふ、とようやく息ができる感覚。彼の、レイシオの匂いがする。声がする。それだけで酷くざわついていた本能がなりを潜めていく。
「顔をあげられるか」
「ゃ、だ」
「……アベンチュリン」
『look』。拒否したのに、無情にも告げられるCommand。酷い人だ。酷くて、やさしい人。どうして顔を上げたくないか分かっているくせにそんなことを言うのだ、彼は。
「……れいしお、」
「Good。見てくれてありがとう」
ぼろり。とめどなく溢れてくるその雫を、大きくて暖かな指がすくい上げていく。見せたくなかった。だってアベンチュリンは『アベンチュリン』であり、弱みを見せればすぐに足元をすくわれてしまう。だから見せてはいけなかった、のに。けれど彼はそれを見せろと言うのだ。
「何があった? say」
「客に、こまんど……」
「なるほど。具体的には何を?」
「にーる、とか、すとっぷとか……すとりっぷ、とか」
ぴくり。頬に触れていたレイシオの指が反応する。怒られる。ちゃんと言わないと。それには応えていない、彼だけだって。でもなんで、言わなければと思うのだろう。だってレイシオはただ見かねて助けてくれただけで、これは義務的なもののはずで。そうじゃないとこんなのは絶対に有り得なく、て。
「それに従わずに、ここに来てくれたのか?」
「う、ん」
「そうか」
ありがとう。そんな言葉が耳朶を打つ。あぁ、駄目になる。じわじわと心の奥の方へと染み渡っていくそれが本能をむき出しにさせて、理性を溶かして。褒められたそれに身体が歓喜しているのが分かる。
「それは僕の『言葉』を守ってのことか?」
声がもう出なくて、だから必死にこくこくと頭を上下させた。くらり、くらり。頭が揺れる。そんなアベンチュリンの頭に触れた手がそれをやんわりと制して、一対の赤と視線が絡んだ。ふ、と彼の表情が、和らいで。
「Good boy、アベンチュリン」
「ぁ、」
ーーーーーおち、た。頭の中でぐわん、ぐわんと何かが踊っている。なんだろうこれ。視界は白と黒に点滅していて、でもそれが決して不快なんかじゃない。足が折れて、身体が動かなくて、だってそうしたいと思ったから。だから。
「れいし、ぉ」
「……自主的におすわりができてえらいな。何か不調は?」
「きもちぃ、」
「ならいい」
落ちそうな顎を彼の手に支えられて、触れる場所の全部が気持ちいい。なんだろう、これ。空を浮いているみたい、海を泳いでいるみたい。全部が溶けて、彼のものになってしまったみたいな。
「そのまま身を任せて……そう。ゆっくりでいい。ゆっくり、ゆっくり……ここまで戻ってこい」
ゆっくり。つまりゆっくり、彼の元へ。はふ、と声のないままに音が落ちた。それと一緒にもう意識さえ保てなくて、でもそれが決して怖くなんかなくて。
「おかえり、アベンチュリン」
そして目が覚めてから最初に聞く声でまた安堵するのだ。ただいま。その声がまだ溶けているように感じるのは、きっと気のせいではないのだろう。