知識不足と失念「あれ、星とは何が違うんだい?」
細い指が空に浮かんだそれを指し示した。雲がほとんどない夜空に浮かんでいる、美しく大きな月。そしてそこで思った。そうか、彼はあれを知らないのか。
「……月、だな」
「つき?」
「星との違いといえば、あれが惑星であるということだろうな」
「惑星……って、なんかを起点にぐるぐる回ってるってことかい? あれが?」
「そうだ。月と呼ぶものは、月という名称を付けた星を起点としている。つまりこの星で月と呼ばれる惑星は、この月を起点にして回っている惑星、ということだ」
「へぇ」
ぱちん、と美しい虹彩を携えた瞳が夜空へと向けられている。そこに浮かぶのは大きな、それこそ他の星ではあまり見られないほどの大きな月。その明るさもさることながら、肉眼でもその模様が見えるくらいにはよく見える。
「そういえば、確か街中でポスターが結構あったよね。これがこの星の観光名所とかなのかな……夜だけの観光名所、ってどうなんだろう? レイシオはこれに価値があると思うかい?」
この星には仕事で訪れていた。アベンチュリンがあてがわれるのだからつまりこの星は不良債権を抱えていて、その返済のための手段を講じるために派遣されたのだ。それに加えてレイシオが呼ばれたのは、ひとえにこの星の自然環境に価値があるかを見極めるためだった。そして今もその仕事の最中なのだ。今日の昼間に到着して、明日はこの星を管理する権力者との会合で。それまでに相手側が気付いていないこの星の価値を見つけ出し、交渉にの材料として持ち込まなければならない。
「『月』というのは基本、この星が中心とする恒星の光を受けて反射する。だから満ち欠けがあり……今日はおそらく、最も大きく見える日なのだろう」
これを、一部の星では『満月』という。そう言えば隣で耳を傾けていた彼は、興味があるのかないのか分からない声で「へぇ、」と言った。しかし視線は月から外されることがないのだから、ただ眺めることに夢中になっているだけなのだろう。その横顔を盗み見て、満足して、レイシオも月へと視線を向ける。
「価値があるかどうか、という点においての回答としては『使い方による』だろうな。前提として、ここまで大きな月を見るのは僕も久々だ。だが毎日これが見える、というわけでもないだろう」
「ふぅん……これの希少価値を高められれば、って感じかな。レイシオが久々だって言うくらいなら価値がないわけじゃないんだろう?」
「そうだな」
ここで話す言葉はほとんどが今の仕事に関係するものだ。戦略的パートナーとしての仕事をこなしつつ、そこには乗せられない感情を抱えながらもう一度、彼を見た。相も変わらず熱心な視線は大きな月へと向けられていて、これが仕事のためなのか、それとも単に珍しいから見ていたいというものなのか、レイシオには判断ができない。
「……まだ見ていたいのなら、もう少し厚着することを勧めるが。夜は冷える」
「それ本気で言ってるのかい? 教授なら、ここよりも砂漠の方が昼夜の温度差が激しいことくらい知ってるだろう」
からり、笑って彼が言う。そして笑ったから月への興味が逸れたのか、その視線がレイシオへと向けられた。そして、かち合った。レイシオがアベンチュリンを見ていたから、月を眺める彼の横顔を、彼が月を眺めるのと同じように見ていたから。だからその視線がこちらに向けられただけで絡み合ったのだ。
「っ、」
息をのむ。月明かりを瞳に反射させた彼は、昼間に見るのとは別で酷く美しい。色素の薄い肌と髪がまるで光っているみたいで、少し赤みがかった血色がよく映えて。そこに浮かび上がる瞳は、どこにも存在しない希少な宝石のようで。
「……レイシオの目は、恒星? みたいだね」
「な、にを言っている」
「思っただけさ。あはは、思ったよりも近くてびっくりしたなぁ」
距離を取ってまた彼が笑う。今度はレイシオに対してその笑顔を出し惜しみすることなく晒すのだ。この表情を見れるのが、彼が心を許した相手だけであることを知っている。だからこそ酷く愛おしく感じてしまうのだ。ビジネスパートナーというだけではない感情を、向けるべきではないそれを。
「あぁでも……レイシオの瞳が恒星なら、その光を受けられる月はとっても綺麗なんだろうね」
これで彼がそれこそ月のようである、と口にしたらどんな顔をするのだろう。そんなあからさまな口説き文句を口にするつもりなど毛頭なくて、でも普段よりも許された距離で、そんなことを言われるのは正直、予想外でもあって。
「でも確かにこの格好のままだと寒いね。もう中に入ろうか? 博識学会のベリタス・レイシオを長時間外で同伴させて、そのうえ体調を崩させでもしたら僕も面目がたたないし」
「そこまで軟弱な身体をしているつもりはないが」
「そりゃ、君は確かに強靭な肉体を持ってるかもしれないけど。ただの比喩だよ、ほら入ろう」
かつん。靴音がして彼のコートが後を引く。それを目で追って、扉を開けて待つ彼に少し何かを言いたくなって。
「……月が綺麗だな」
だから彼から視線を外して月を振り返って、そんなことを口にした。もちろんその意味を分かったうえで、だ。とはいえ月の存在を知らなかった彼がその意味を知っているわけもないと判断して、つまりはただの自己満足。彼に届かない、ただの凡人の戯言である。
―――――と、思っていた。
レイシオは失念していたのだ。客との会話のためにとかいつまんだ知識ばかりを入れてきたアベンチュリンの頭の中は、酷く偏った知識が多いということを。そしてレイシオと話をする際はそういった小説ではなく学術的な方へと話がシフトするせいで、その知識が頭の中にあることが露見しなかっただけだということを。
彼に視線を戻して、その白い肌が先ほどとはくらべものにならないくらいに真っ赤に染まっているのを見て。そこで初めて自分の失態に気が付いた。しかし気が付いたところで時間を戻すなんて不可能である。結局、二人して何も言えないままに顔と頭を茹らせることしかできなかった。