飛んで火にいる 好きな人がいるらしい。あのお堅いべリタス・レイシオに、想い人が。なんて面白く興味をそそる話題なのだろう。そう思ってアポも無しに彼の研究室を訪れたのは、もうかれこれ数ヶ月前の話だった。
その話題を出したところでこの関係が消える訳ではない。だってこれはカンパニーが勝手に組んだ交友関係であり、いやそれ以下の関係か。ただのビジネスパートナー。仕事で関わることが無くなれば、アベンチュリンに『アベンチュリン』としての価値がなくなれば、跡形もなく消えてしまうだけの関係性。
だから何をしようが構わないだろう。好きの対義語は無関心と言うし、彼の『好き』には絶対に属さないのだからせめて無関心よりはましな場所へ。そう思って、彼によく関わるようになった。これはただの延長線上だったのだ。
「……どこから聞いたのかは知らないが、人のプライベートに踏み込むには適さない言動だな」
「えぇ、そんな所までお堅いのかい? いいじゃないか、浮ついた話なんだから浮ついた言葉でも」
心底嫌そうな顔をした彼は、それでもアベンチュリンを追い出すことはしなかった。いや、これって『嫌そうな顔』だったのだろうか。前述した通りこれは数ヶ月前の話しで、つまり今よりは彼のことを知らなかった時期でもある。こうやって彼の執務室で、彼の隣でコーヒーをあおったことがないくらいには。
「ねぇレイシオ」
「なんだ」
「君から浮ついた話が出てこないんだけど」
隣で本に落とされていた視線が、ゆっくりと持ち上がる。メガネ越しの真っ赤な太陽。太陽だと思ったのはどうしてだったか。寒いなと思った時に温もりをくれるのが、一緒にいるのが彼だったからかもしれない。いや、彼であることが多かったというだけだけれど。
「好きな人の話があっただろう? ふと思い出してさ」
「……それを聞いて何になる?」
「あの時は教えて貰えなかったけど、今なら聞いたら教えて貰えるんじゃないかなって」
からりと笑って問えば、呆れたようなため息が返ってきた。そんなあからさまに『面倒くさい』を表さなくてもいいのに。また読書に戻ってしまうだろうか。いや、静かな彼の隣で時間を浪費するのも、決して嫌いではないのだけれど。
「だってあの時、僕は『なんでも協力する』って言っただろう? 約束は違えるべきじゃない」
「その人との関係性は概ね良好だ。君が気にすることじゃない」
ぞわり、と心臓がわなないた。良好? つまり、進展しているのだろうか。愛だの恋だのどうでもいいと思っていそうな彼が、恋愛なんて研究の邪魔だと言いそうな彼が。でもその実、懐に入れた人たちには甘いことを知っていた。その人には何をしているのだろう。進展したってことは何かアクションを起こしたのだろうか。例えば積極的に声をかけたり、手紙を書いたり? アベンチュリン自身に恋愛の経験はないから、そういうありきたりなことしか思いつかない。
「今はどこまで進んでいるんだい? もう伝えた? 君からの愛の告白なら、誰であろうと受けてくれると思うけど」
「それは君の言う『あの時』にも聞いた。だが生憎僕はただの凡人だ。タイミングを間違えれば、今まで積み上げてきたものすら無に帰すだろう」
「それは断る側に見る目がないだけじゃないのかい? だってかのべリタス・レイシオだよ?」
「……では」
君が、僕からの告白を受けたらどうする? その問いにまたぞわり、と心臓に何かが蔓延る感覚がした。レイシオに告白、されたら。されたらどうするんだろう。こんなにも美しく正しい道を歩むような、そんな彼から言葉を貰ったら。
「……僕?」
「そうだ。僕が君に『好きだ』と言った場合、君は受けるのか?」
「じょ、冗談……僕じゃ君には釣り合わないよ」
「なるほど、君は断るんだな。であれば先程君が言った『誰であろうと』は否定されることになる。故に僕はまだそこまでの関係性ではないと考える。以上だ」
「えぇ、」
そんなの、ただの屁理屈ではないだろうか。だってアベンチュリンはただのビジネスパートナーで、元奴隷で、死刑囚で。綺麗で美しい彼の隣に並び立つには汚れすぎている。だから受けない、それだけだ。何かが蔓延ったままの心臓が痛い。あんなことを言ったアベンチュリンのせいで、彼がその歩みを止めてしまいそうだからだろうか。彼には幸せになって欲しいのに、それは本当に嘘じゃないのに。
ブラックコーヒーの入ったマグカップに口をつける。黒地に緑と金をあしらったこのカップは、ここをよく訪れるようになったアベンチュリン用にと彼が用意してくれたものだった。このコーヒーだってレイシオは飲まない。彼は頭を使うために糖分を必要とするらしく、またコーヒーをがぶ飲みして動悸が止まらなくなった経験もあるらしく、ここで飲むのは専ら紅茶だ。ホットミルクの時もある。
つまりこのコーヒーもマグカップも、アベンチュリンのためだけにここに置かれているのだ。こんな風に他者に尽くせる人はそういない。アベンチュリンだって懐に入りたいような打算でやることはあれど、常日頃からとなると疲れてしまうだろう。それをこんな掃いて捨てるほどいる仕事相手にできるのだから、レイシオは気遣いのできるいい相手、だと思うのだけれど。
「……そんなに僕に恋人がいて欲しいのか?」
ぞわ、ぞわ。心臓がまた戦慄いている。今日はなんだか落ち着かない日だ。別に夢見も悪くなかったし、今日はこのまま直帰だから長く彼と話していられる日。レイシオと話すのは好きで、だから別に気を揉むようなことなんて何も無いはずなのに。
「そりゃ、君には幸せになって欲しいし……僕が外れ値だっただけだろう? ねぇ、今からでもその人に伝えてみるといいよ。僕は相手が応える方に、」
「こんなことを賭けに使うな。……ただ、そうだな」
鋭い視線を貰って閉口する。あ、怒らせた。それもそうだろう。想い人の感情をギャンブルに使うなんて正気の沙汰じゃない。でも仕方がないだろう、癖なんだから。それにアベンチュリンのこの『幸運』だって彼は知っているんだから、最後は神頼みよろしく使ってくれたっていいだろうに。
「確かに君が『外れ値』である、という点については納得だ」
「なら、」
「だから君が僕からの『想い』に応じられる、と思ったら教えてくれ。それを、君の言う『誰であろうと』の基準にしよう」
何を、言っているんだ。それってつまり、彼の告白のタイミングは全てアベンチュリンにかかっているということだろうか。今すぐに先程の言葉を撤回して、送り出すべきか? いやレイシオのことだ。それでは絶対に納得してくれないだろう。
「僕が、もし君から告白されたら、ってこと?」
「そうだ。仮定された物事を考えるのは、君にとっては得意分野だろう」
そりゃ、そうかもしれないけれど。でもそんなの断る未来しか見えない。だってそもそも釣り合わないし。彼の想いに答える日、なんて。
「僕は急いでいない。だからゆっくり考えて、その時が来たら教えてくれ」
アベンチュリンは知らない。この言葉がどれだけの意味を伴っているのかを。レイシオが何故『外れ値』に固執するのかを。
うんうん唸るアベンチュリンの隣で王手までの駒を進めたその男は、ただゆったりと紅茶を飲み下した。はちみつを混ぜた、甘い紅茶を。