大勝負「へ」
「は?」
決して急だった訳では無い。初めこそ事故だったもののゆっくりとこの関係をひとつずつ進めて、深めて、満を持してその話を持ち出した。そのはずだったのだ、レイシオの認識では。
しかし目の前で特徴的なネオンを見開く彼にとっては違ったのかもしれない。ぽかん、と間抜け面ともいえるそれを晒して、アベンチュリンは仕事用の端末片手にただただレイシオを見やっている。
「……聞こえなかったか」
「ぇ、あ……そ、そうかも」
「ではもう一度言おう。……君の薬指につける指輪を選びに行きたい。空いている日はないか」
そして今度は明確に、その瞳が困惑に揺れた。同棲しているこの家のソファで、彼が連れてきた小さな命と戯れながら。ここまで関係が進んでいるのに予想していなかったのだろうか。まさかこの先の関係を知らないわけでもないだろう。いや、その可能性がない訳ではないのか。
「……無理強いはしない」
「いや……えっと、混乱? してて、」
「……何故?」
「だって君、僕のこと好き? だったってこと?」
は? まろび出そうな言葉をすんでのところで飲み込んだ。疑問形で問われたそれに耳を疑ったところで、困惑の消えない一対のそれが幻聴では無いことを示している。そうだ、彼は困惑しているのだ。レイシオからの言葉を聞いて、嫌悪しているわけでも忌避したがっているわけでもなく。不快感を感じているわけでもなく、ただ。
「……好きでもない人間と生活まで共にすると思うか」
「だ、って、その方が都合よかっただろ、いろいろ」
「その『いろいろ』が情事だけを指さないことを願うばかりだな。そこまで頻度が高いわけでもないはずだが」
「そんなの……多いか少ないかなんて僕には判断できるわけないだろ」
ため息が落ちそうなそれも必死に、とどめる。確かになし崩しに始まってしまった関係ではある。というより、一番最初が事故だったのだ。それは避けがたいものであり、それ以降は治療や仕事を通してゆっくりと関係を進めて、この家に彼が移り住んでからはもっと長く愛せるようになって。
そこではた、と思う。その間、この想いを彼に吐露したことはあっただろうか。アベンチュリンは存外分かりやすい。好きなこと、嫌いなこと。顔やその仕草を見ればそれらを判断するのはレイシオにとって容易なのだ。だから共にいることを嫌がられてはいないのを知っていて、安心していることも知っていた。では、自分は? 彼と共にいることが幸福であると、一度でも彼に伝えただろうか。
「……では何故、君はここに移り住むことを選んだんだ」
また、困惑。ゆらりと揺れた瞳がそれをありありと示している。しかし黙り込んで終わらせるつもりもないらしく、右へ、左へとその瞳が答えを探してさ迷っている。
だからレイシオも待った。もとより彼の診察は何かを探すことよりも待つことの方が多い。それは彼自身がそれを分かっていないことが多いからであり、その上でそんな自覚がないからであり。
「わか、らない」
そしてこんな答えが返ってくるのも、決して珍しいことでは無いのだ。『幸運』に生かされ続けた弊害なのだろうか。自ら選びとった側が正解になるアベンチュリンにとって、それを選ぶ理由はかなり曖昧だ。どうして連続で表を選んだのか、どうして五のゾロ目に賭けたのか。そこに、明確な彼の意思は存在しない。
「はぁ」
「う……ご、ごめんって。でもえぇっと、指輪? は、僕には似合わないと思うし、」
「アベンチュリン」
それでいて、自分の意思が伴えば反対側を選ぶ。なんて難儀な生き方なのだろう。欲しいものを欲しいと言うことさえままならない。生きているのだって生かされているから。そんなものがずっと、彼の奥底にこびりついている。
「僕の言葉が足りなかった。それを今、自覚した」
「な、んの話?」
「その話を今からする。が……いささか、ここではムードに欠けるな」
「ムードって……あぁ、そういえば君、そういうの気にするよね……。じゃあ僕準備、」
「アホ」
「あで」
変な勘繰りをした彼の額を人差し指でつついてとどめた。一体彼にレイシオという男はどう見えているのだろう。彼の見目に惑わされただけの、そこらの猿と同じだとでも言うのだろうか。そう考えて、そうかもしれない、と思う。だからそこから脱却しなければならない。ここまでしっかりと外堀を埋めたのだ。アベンチュリンに自覚がなかったとはいえ、ここまで許容できるのは相手がレイシオだからである、と自覚するのも時間の問題だろう。つまり、今レイシオがやるべき事は。
「明日、システム時間で夜の八時」
「へ、えぇと、」
「場所は……そうだな、君が気に入っていたレストランにしよう。ここに来てから初めて行った場所だ」
「いや、あそこは嫌だって、」
「それを尊重して今までは避けていたが」
だがその『嫌』も、結局は彼の自己肯定感の低さから来ているのだろう。よく考えれば分かることだ。だからレイシオは『アベンチュリンが気に入っていた』と言った。そしてよく考えれば分かるのに考えついていなかったことが多々あるのだから、バカのレッテルを付けるべきはどちらなのかは分かりきっている。
「やり直させてくれ、アベンチュリン。君にその気がなければ……来なくても構わない」
目を白黒させて、顔を真っ赤にして。口をぱくぱくとさせながらも何も言葉にできないかわいそうな彼を見て。それでも明日来ないだろうとは微塵も思わないのだから、きっとこの頭はもう壊れてしまっているのだ。もう救いようがないくらいに。
「明日、指輪の話も改めてさせてくれ」
真っ赤な額にリップ音を響かせればぴしりと固まった。今のうちに逃げてしまおう。そして明日の準備を万端にしなければならない。これは、レイシオの人生の中で一世一代のプロポーズなのだから。