鍵は開いている ひとつ屋根の下、アベンチュリンは何故かDomの男と二人きりだった。きっと数年前の自分に言えば正気の沙汰じゃないと喚かれるだろう。ついに気が狂ったのかと言われるかもしれない。それくらいには、ほんの少し前までは考えもしなかった状況である。だって、Domはこの世に存在する全ての中で、最も警戒して然るべきものなのだから。
「どこか不調は?」
「な、い」
「そうか。素直に言えて『偉い』な、アベンチュリン」
「ぁ……」
どろり、どろり。自分の意思に反して思考回路が溶かされていく。たった一言だけでこれだ、いっそ前後不覚と言ってもいい。それくらいに、アベンチュリンの中のSubはその『褒美』を喜んだ。カンパニーの高級幹部ともあろう者が、石心の一席を担う者が、なんとも情けない。
でも許してほしかった。だってずっと、ずっと、本当にずっと我慢していたのだ。このSubという性は『アベンチュリン』には不要なものだったから、そしてアベンチュリンは『アベンチュリン』を演じる必要があったから。
だからずっと、それを誰かに褒めてほしくてたまらなかった。
「僕がコマンドを出さずとも前に教えた通りに『おすわり』ができたな。それに今日は怪我も無さそうだ……体温が少し高いか?」
「ん、ぁ……」
「熱は?」
「しら、な」
「ふむ」
首筋に触れた彼の手に擦り寄ってしまう。まるで媚びるみたいに。あぁもう、だから嫌いなのだ。このSubという性も、それを支配できてしまうDomという性も。だって嫌なのに。Domになんか支配されたくないのに。そんなアベンチュリンの意志とは裏腹に、この身体は喜びに震えてしまう。
「思い当たることはあるか?」
「ん、ん」
「アベンチュリン、『言ってくれ』」
「ぁ……っぅ、、」
「嫌ならばセーフワードを。アベンチュリン、どちらかを『言ってくれ』」
きゅう、と喉が締まる感覚。やだ、どっちも言いたくない。でもどっちかを言わないと。セーフワードを言えばきっともう聞いてこない。多分彼は「ありがとう」とだけ言ってこの身体を抱きしめて、今日の『これ』を終わらせてくれる。そう、終わってしまうのだ。アベンチュリンがただ『言う』だけのコマンドすらこなせないままに。では思い当たるそれを言ったらどうなるのだろう。きっともっと褒めてくれる。それはとてもいいことだ。嬉しいことだ。
けれど、それはレイシオに『これ』がとても嬉しいことだと伝えるに等しいのだ。あれ、なんでそれが嫌なんだっけ。違う、レイシオに言うのが嫌なんじゃなくて、そう。Domに言うのが、嫌で。だって彼らはSubを道具としてしか見ていない。その扱いに喜びを見せれば、きっと付け上がってくる。優しいのなんて今だけだ。そうやって気持ちよくさせて、喜ばせて。そこで突き落とすのが好きな性なのだから。
さながら、ここは鳥かごだった。扉が開きっぱなしになっている鳥かご。自分で出ていけると信じ込ませて、なのに足首から伸びる鎖はその止まり木に絡まって外せない。そういう場所なのだ。その中で喜んでしまったら最後だ。だめだ、絶対に。
「ゃ、だ……」
「……アベンチュリン?」
「どっちも……や、だぁ……」
「それは、随分とわがままだな」
ごめん、ごめんなさい。でも、どうしたって嫌だった。Domの支配下に置かれるのが嫌、レイシオとの『これ』が終わるのも嫌。鳥かごの中でぴーちくぱーちくと煩わしく鳴いて言うことを聞かない、駄目なSub。せめて黙ってその羽を広げて見せれば、見世物としての価値くらいなら得られるだろうに。
「わかった、どちらも嫌なんだな?」
「う、ぅぇ、」
「分かったから泣くな……いや、泣いてもいいか。それを僕が拭いても?」
「……ん、」
「あぁ、ありがとう」
こくん、と反射的にうなずけば、彼の指がそれをすくった。アベンチュリンとは違う大きな手のひら。あたたかくてやさしい手のひら。大好きな彼の、手のひら。
「はふ……、」
溶かされていく。レイシオの言葉ひとつでこんなにも。泣いたせいでまた体温が上がっている気がするけれど、でも彼に触れてもらえるのならそれもいいと思ってしまう。いや、駄目だろう。正常値以外にいいものなんて何も無いのだ。体温が高ければ余計に体力を持っていかれるし、思考だって茹だって消えてしまう。だからこんな風にDomに媚びて、喉を鳴らして。
「どむ、なのに、」
「……あぁ、なるほど」
「う……ぁ、」
この鳥かごから逃げ出したはず、だったのに。これはかつて同じ星に住んでいた別の種族だった。それがかつてのご主人様になって、出会ってきたDomになって。そして、今は彼だ。この鳥かごは彼なのだ。こんな所にいてはいけない。逃げ出さなければ。あぁでも。
「僕の名前を『呼んでくれ』」
「……? れ、ぇしお、」
「ファーストネームを」
「…………べり、たす」
「ふ」
初めて口にした言葉だった。ただの文字の羅列だ。ビーコンを通しているのだから完全なアベンチュリンの言葉とも言えないだろう。なのに、彼は笑うのだ。べリタス・レイシオという名を持つ人が美しく、そして喜びを携えて。
ただ名前を呼んだだけだ。言われたとおり、そのファーストネームを口にしただけ。なのにDomは、彼は、こんなにも喜んでくれるのか。こんな鳥かごにSubを、アベンチュリンを、押し込んでいるのに。
「アベンチュリン」
でも、違うのかもしれない。だって名前を呼んでくれる声が酷く柔くて溶けてしまいそうなのだ。『尽くしたい』と願うこの性の全てを受け入れてくれるみたいな、そんな声。ぼた、とまた涙が落ちて、それをまた彼の手が受け止めて。
―――――あぁそうか。きっと、これは傘なのだ。感情が高ぶるせいで涙腺が壊れて、そんな風に降らしてしまう雨を全部受け止めてくれている。今までのDomなんかじゃ絶対してくれない。これは彼だからだ。レイシオだから。
「っり、たす、」
「なんだ」
「もっかい……もう、いっかい……こまんどだして」
「…………いいのか?」
うん、うん。肯定を示すべく何度も首を縦に降った。くらくらする。でも、今ならどうにでもできる気がしたのだ。Domではないから、レイシオだから。雨でしとどに濡れたアベンチュリンに、傘を差し出してくれるような彼だから。
「ちゃんと、できるよ」
「……わかった」
アベンチュリン、『教えてくれ』。優しいコマンドが耳朶を打つ。全然強制力のない、柔らかくて溶けてしまいそうなコマンドだ。だから紡ぐのだ。レイシオに向けて、この感情を。他の誰でもなく君だから嬉しくて、高揚して、だからこんなにも身体があたたかくてたまらないのだと。
もう一度流れ落ちたそれが全部すくい上げられたのだって、きっと彼が与えてくれたのが鳥かごではなく傘だからだ。紡がれた『褒美』が耳朶を打つのと、その意識がふわりと溶けて消えるのはほぼ同時だった。酷く暖かくて優しい、感じたことの無い感覚。それがサブスペースであると伝えられたのは、レイシオの膝の上で目を覚ました直後だった。飛び上がって逃げようとしたアベンチュリンを押さえ込んで、満足気に、そして少しだけ意地が悪そうに。