新入生との序章 それはいつも通りの夜だった。いや、いつも通りではないかもしれない。ひとつ学年が上がった今日、つまりは新しい一年生が入ってきた今日。しかしそれがなんだというのだろう。低学年と好んで関わることもなければ、そもそも優しくもなんともない自分に声をかけてくるような生徒もいないのだ。ベリタス・レイシオなんて、この寮にいる『天才』に次いで気難しいと有名なのだから。いや、気難しいという点では天才たちと肩を並べられるのかもしれない。そんなもので同列に並んだところで、天才にはなれないのだけれど。
しかしレイシオはそれで腐ることはなかった。それがより一層近づきがたい空気を作っている自覚はあって、しかしそれをやめられる訳もないのだ。そもそも新しいことを学び、そのうえでその知識を誰かの、ひいては自分のために使いたいと思う。だから今日も今日とて、消灯時間のぎりぎりまで図書室に詰めていた。
「……何をしている?」
しかしその寮の、塔の入り口。夜だというのにきらりときらめく金糸が見えた。月明かりを受けたそれはまるで光っているかのようで、その小さな顔をより一層引き立たせている。その美しいかんばせに浮かぶ特徴的な瞳。そして身にまとうのは深い緑。あぁ成程、少し話題になっていたか。
――――――純潔の、しかし絶滅したはずの一族であるエヴィキン人の少年が、入学したのだと。
「……ぁ、れ」
「もうすぐ消灯時間だ。自分の寮に戻れ」
そこで膝を抱えた彼は、もしかして今の今まで眠っていたのだろうか。勤勉であるレイブンクロー生の、その寮の前。確かにこんなにぎりぎりまで出歩いているのはレイシオくらいだろう。勉強は寮の中でもできるし、人と共に学ぶ方が身につくという者も多い。だからレイシオがここを通りかかるまで誰にも見つからなかった。それは、理解できる。
しかし消灯時間やそれ以降の外出のリスクについては、最初に説明がなされているはずだ。ペナルティはもちろん、それの危険性についても。まさか時計が読めないわけでもあるまいに。
「……帰りたく、なくて」
「は?」
「あは、ごめんね。変なことを言ったかな」
ぽつんと落とされた声。それを聞き返せば、打って変わって明るい声が聞こえた。その顔に湛えられた笑顔、好意的だと印象付ける仕草。まだ少年であるという武器を最大限に活用する術を知っているのだろう。下から覗き込まれ、上目遣いに、まるで。まるで媚を売るような、それ。
「あぁでも、どうだい? 例えば君がかくまってくれたりするなら、僕は最大限の『お礼』をするよ?」
「……何を言っている」
「あれ、分からないかな? 青、だからレイブンクロー? レイブンクローの人たちって、『そういうこと』には興味がないのかい? 禁欲的とか? ちょっとくらい頭を馬鹿にしてこういうのに没頭するのもいいとおも、っ!」
「はぁ」
際限なく続けられる、侮辱とも呼べる言葉たち。それを強制的に閉じさせた。レイシオの手にはすらりとした杖が握られていて、その先は目の前の少年へと向けられている。震える手がその口元をひっかいた。とはいえ、魔法だ。それを解除しない限り口は開かない。
「消灯時間を過ぎてここにいると罰則を受けるのは僕も同じだ。そして時間を超えて君を部屋に招くことも、規則に背くことになる。つまり僕の答えは……全てに関して『NO』。分かったならそのまま自分の寮に帰るといい。スリザリン寮につけば自動的に解けるようにしてある」
もういいだろう。正直、わがままな一年生に費やすような時間はないのだ。頭はいい。なのに『天才』にはたどり着けない。その差は何だ。それをどうにか見つけ出して、せめて今年のうちに先に進まなければ。そうしないと、ここに送り出してくれた両親に面目がない。マグルなのに魔法の世界を知ってしまって、たった一人の息子の将来をそこに賭けてくれた、両親に。
「っン、ぐ、」
「一年ではそれの解除魔法もまだ習っていないだろう。諦めて、」
がり。塔への階段に足をかけた時だった。もう完全に背を向けていて、だから彼だって諦めるだろうと、思って。確かに口が達者なようだけれど、それを使わなくしてしまえば無力な一年生でしかない。一番安全なのは寮の中だ。それが理解できるような頭さえあれば、すぐにでも帰ってくれると思ったのだ。
しかし響いたその音に、レイシオは振り返ることになる。そして瞠目するのだ。真っ青な顔、開かない唇。そこを無理にこじ開けようとしてついた、真っ赤な傷を見て。口の周りをひっかく手が酷く震えている。恐怖している。この、今陥っている状況に対して。
例えばそれを『自業自得』としてしまえるような人だったら。例えばそれを『面白い反応だ』と興味を持てるような人だったら。例えばそれをこんな風に必死に腕をつかんで止めるような人では、なかったなら。それならきっとレイシオだって、『天才』としての一端を担えていたのかもしれない。
「何をしている!」
「っ、!」
「君はバカなのか!? 力任せに解けるようなものじゃない、やめろ!」
「~~~!!!」
掴んだ腕は酷く細かった。ローブに隠されていたけれどさすがに接触すればわかる。その病的なまでの細さは腕にとどまらず、身体中のすべてに栄養が足りていないようにも見えた。レイシオは自分の身体を整えることにだって余念を混ぜない。つまり体格差は歴然。だというのに、声すら奪われているというのに、まるで逃げるようにその身をよじる。全身を震わせて、その恐怖をすべてで体現しながら。
「っ、はぁ」
「ッ!」
「……分かった、すまない。魔法を解くからじっとしてくれ」
その細すぎる身体は、何をするにも壊れてしまいそうだった。どうしようもなかったのだ。だからレイシオはその身体を抱きしめることによって、彼の動きを止めることにした。杖を使うにはレイシオの手も自由にしなければならなくて、つまりはこれが一番早いと判断してのことだった。その魔法をかけた時と同様に口の中だけで呪文を口にする。そうすれば、縫い付けられてしまったかのように頑なだった彼の唇がほどかれるのが見えた。
「ぁ、」
「ほら、もう開くだろう」
「う、ん」
身体を離せば、細い指先がその唇に触れた。息を乱して、しかし少しは落ち着いたらしい。身体の震えも幾分かましになっている。
つまり、レイシオは間違えたのだろう。こんな時間に自分の寮から離れたこんな場所でうずくまる一年生の、その状況を一切理解できていなかった。口元にできてしまったその傷は治るだろうか。この綺麗な顔に、傷跡が残らなければいいのだけれど。
「……寮に戻りたくない理由があるのか?」
「っ」
「自室は、この学校における君の『居場所』のひとつだ。そこに何か不安があるなら解消するべきだと思うが」
「……いば、しょ」
「……スリザリン寮の前までなら送ろう。それなら、」
「居場所って、何かを犠牲にしないと得られないもの、なの?」
「……は?」
不意に、問われた言葉だった。犠牲? 例えば、離れなければいけない親元だろうか。それともマグルの友人だろうか。確かに魔法学校に通うにあたって手放さなければならないものはいくつかあった。しかしそれは休暇中の帰省である程度は補えるものであるし、そもそもなくなるわけじゃない。では、彼の言う犠牲とはなんだろう。まだ魔法も使えない、力のない一年生である彼が、失うものとは。
「……帰るよ。帰り道は分かるから気にしないでくれ」
君もこれ以上は外にいちゃいけないんだろう? 頭を必死に動かして、その答えを導き出そうとして。しかしそれを遮ったのは彼自身だった。美しい顔で美しく笑う。これが作られたものだと、さっきまでの顔を見ていなければきっと気付けなかった。つまりレイシオは気付いてしまったのだ。それが、ただの虚勢であると。
「……上級生として、君をこのまま野放しにはできない」
「えぇ、ひどいな。というかお人よし? そういうのはレイブンクローより、ハッフルパフとかグリフィンドールに多いって聞いたんだけど」
「一度塞いだだけでは君の口は止まらないらしいな。いいから行くぞ、ついてこい」
「……はぁい、先輩」
これできっと、いい先輩であるならスリザリン寮まで向かうのだろう。彼に抵抗するような意思は感じない。使ったことのない道を進んで少し疑問はあるのだろうが、自分よりもはるかにこの学校を知っている相手だ。ただレイシオの後ろをひな鳥のように、時折きょろきょろと見渡しながらついてくる。そして辿り着いた場所は。
「あら。……ふぅん? まぁ、多少のペナルティで許してあげるわ」
「不要だ。それを加味したうえで、僕はここに彼を連れてきた」
「……え、」
ジェイド? 歩いている間は何も紡がなかった彼の口が、その教員の名前を音にした。あぁやはりか。教師と生徒という立場にしてはあまりにも簡易すぎる呼称に、しかしレイシオは驚かない。
「初日から寮を抜け出すなんていけない子ね。何かあったのか、言えるかしら」
「……部屋を変えて、っていうのは、駄目?」
「難しいわね。寮を変えるのはさらに困難よ……あら、ふぅん?」
親しい間柄のもとで紡がれた、初めて聞く言葉だった。彼の口からはただ誤魔化すためのものか、そのための要求しかレイシオに向けられては紡がれなかった。けれどそれを聞いて確信する。抜け出してきたのだ。レイシオが『居場所』だと例えた彼の部屋は、何かを搾取されなければそこにいることが許されないらしい。だからそれを、拒むためにあんなところまで。
「……この学校でも僕の顔ってきれいらしいんだ」
ねぇジェイド。そう言った彼の手は膝の上で震えていて、うつむいたさきで肩だって震えている。―――――あぁ、そうか。彼はそうやって生きてきたのか。今ほど自分の頭が優秀だったことを悔やんだことはない。だってその一言で、そして今までの彼の発言で、それが分かってしまったのだ。一年生は四人一部屋、ベッドをカーテンが区切っているだけの空間。そんな場所に押し込まれた『有名なエヴィキン人の生き残り』である、彼。
「言いたいことは分かったわ。でもすぐに変える、というのは難しいの」
「……うん。あは、大丈夫だよジェイド。ちょっと言ってみたかっただけ、だから」
「でも一時しのぎくらいの方法は提案できる。……ねぇ、あなたがまだ帰らずにここにいるということは、彼に何か思うところがあると考えていいのでしょう?」
「……僕の部屋でかくまうのは無理だ」
「そんなことを私が提案するとでも? 違うわ」
ねぇあなた、坊やに手垢をつけるつもりはない? その問いの意味が分からなくては、と息が漏れるのと、彼の特徴的な瞳が見開かれるのはどちらが先だっただろう。結局は学内でもそれなりに有名なレイシオの『お気に入り』として広めて生徒からの手を逃れるという戦法ではあったのだが、結局は未来で事実『そう』なるのだから些細なことだった。
学年も、寮も、出自も生き方さえも違うアベンチュリンという二つ下の生徒。これはそんな彼ににどうしようもなく惹かれてしまったレイシオという生徒の、ただの序章である。