眠らない夜に二人「遠いとこまで来ちゃったよねえ、ジーマーで」
切り立った崖を背にしてひとり月を眺めていたら、足音とともにそんなふうに声がかかる。見慣れた紫の羽織に身を包んだ男は、袖から抜いた片手をひらひらと振って「やほ~司ちゃん」と近寄ってきた。
「……きみも」
眠れないのかい? と敢えて口にはしない後半も、メンタリストの彼のことだ。的確に読み取っただろう。肯定も否定もせずに薄く微笑んだゲンは、少し離れた場所で足を投げ出すようにして座った。
変わらない星空を二人で見上げる。生まれたばかりの工業の灯はまだ小さくて、かつての都会のように夜空を薄めるまでには至っていない。が、きっともう、そう遠くはない未来になる。何せロケットが成層圏を超える時代だ。
「司ちゃんにお願いがあるんだけど」
そうゲンが頼み込んできたのは、まだ太陽が完全にはのぼりきらない時間だった。
龍水の判断で、月へのパイロットにスタンリーを起こす。いざという時の制裁役にゼノに付いてほしい。名目上は護衛だが、端的に言えばそういう話だ。感情の読めない顔で一切の主観を挟まず、ゲンは経緯を説明する。淡々と仕事をこなすその姿に、迷うこともなく応えた。
「うん、俺が適任だね」
任せてほしい、と告げると表情を崩さないゲンの口からは「助かるよ~」とだけ返ってきた。ごめんねとも、ありがとうとも聞こえる、或いは聞こえないような声で。口に出して言う必要がなかったのは確かだ。それを互いに理解していた。
皆とっくに寝静まっている時間だ。あたりは静寂に包まれていて、夜行性の獣と夜通し動かさなければいけない類の機械を除けば、動くものなどないようだった。
ゲンは今何を考えているのだろうか。
ふとそんな疑問が浮かんだ。最近はなんとはなしに他者が何を思っているのか気にすることが増えた。勿論、ゲンみたいに「手に取るように」とは到底いかない。何せ、少し前までは他者が自分に向ける好意や殺意や敵対心、野心や打算といった利害ばかりを感じ取っていたのだ。それだけ分かれば生きていくのに十分で、妹とも――未来とも話ができなかったから余計に、必要なものだけあれば良かった。
だから、そうした自分の気持ちの変化には驚いたけれど、これは良いことなんだろうと思う。
無意味な話でも、しようと言ってくれる人ができて、はじめて、ようやく、すぐ隣にいる人間の心の機微を考えようという気持ちが湧いて来たのだから。きっと良いことで、むしろ遅すぎるくらいだった。ふっと吐息が漏れる。
「……俺は結構、鈍感だったかな」
脈絡の無い独り言に、ゲンは一瞬こちらを見ると
「司ちゃんはもう大丈夫だよ」
これからこれから〜、となんだか随分適当なことを言った。君が言うなら大丈夫なのだろうと、言葉通り素直に受け取っても構わなかったが、その言い方が軽くていい加減で、優しい調子だったので少しだけ笑ってしまった。