【イルアズ】ぼくはきみだけのまほうつかいまだ付き合っていない学生のふたり編
なんとなく、頭が重い感じはしていた。
このところ急に冷え込んできたものだから、たぶんそのせいだろう。日頃から身体は鍛えているし、体調管理には気を使っているつもりではあったが、このところは大きな学校行事も無ければ目立ったトラブルもないので、気が緩んだのかもしれない。
――私もまだまだ自己管理が甘い……
移動教室から王の教室の主教室まで戻ってきて、自席の机の上に教科書を置いたところでついに、気のせいだと思っていた頭痛がどうやら現実のものらしい、と観念した。無意識のうちに、ふう、とため息が漏れる。
すると。
「アズくん、調子悪い?」
今まさにアリスの隣の席に腰を下ろそうとしていた入間が、ぱっとアリスの方を振り向いた。大きな瞳にじっと見つめられれば、アリスに嘘などつけるわけもなく。
「お心遣い、ありがとうございます。……少々頭痛がしただけです。授業に差し障りはありませんので、どうぞ、ご心配なく」
素直に白状しつつ、しかし、大したことではないと言うように、つとめてなんでもない表情を作って微笑んだ。――完璧に笑えていたはずだった。
「それは、心配するよね」
けれど、間髪入れずにぱっと伸びてきた入間の手に、手首を掴まれる。その感触がいつもと何か違ったのだろうか、入間はぎゅっと眉間にしわを寄せた。
それから、急に少し手を引かれたものだから、入間のほうへと体が傾ぐ。ぐらりと揺れた視界の中、入間の空いている方の手が自分の顔目掛けて伸びてくるのが見えた。反射的に目をつぶってしまう。
すぐに、さわり、と指先が前髪をかき分けて額のあたりの皮膚に触れる気配があった。
たったそれだけで、ぞくりと全身が粟立つ。緊張に肩が竦む。
けれどその柔らかく小さな手は容赦なく、皮膚の上を滑るようにして進み、指の腹が、指全体が、そして最後には手のひらまで、するすると額の上に広がっていく。
温かく、しっとりとした手のひらが、ぎゅっ、と額に押し当てられる。
入間の近しい場所に控えることには慣れているけれど、肌と肌が直接に触れることはそう滅多にあることではない。アリスは肌を出す服装を好まないし、衣服の上からならともかく、入間の肌に直接触れるような不躾な真似はしないようにしているので。
その、滅多に触れる事の無い暖かな手が、直接、額を覆うように、ぴたりと。
息が、止まった。
それが何故かと考えるいとまもなかった。ただ、呼吸は止まり、手足は痺れたように動かせず、全身は総毛立ち、目を開けることすらも出来ない。頭の先から爪先めがけてさっと血の気が引くような気配のあとにすぐ、全身の血が額に集まっていくような感覚があって、脳が破裂してしまいそうだった。変な耳鳴りと共に、耳の奥に心臓が引っ越してきたような拍動が聞こえる。立っていられただけで奇跡だ。
「わ、あっつい!」
入間の、驚いたような声が聞こえる。瞼の筋肉が言うことを聞かないので目が開かないが、声色からするに、大層心配を掛けてしまっているのだろう。
そこに宿る熱は、病によるものではないのです、と、何とか声にしようとするけれど、喉を震わせることすら能わない。
「もう、アズくんたら、無理したらダメだよ」
医務室行く? 早退する? と入間が心配そうでもあり、不摂生を咎めるようでもある口調で問いかけてくれているのは分かっていたけれど、アリスに出来たのはただ、意識を手放さないようにすることだけだ。
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結婚してる魔王と側近編
ケン、ケン、と、微かな咳払いの音が、静まりかえった魔王の執務室に二三度響いて、入間は仕事の手を止めて顔を上げた。
執務机に座ったまま視線をまっすぐに上げた先、部屋の中では、側仕えを任せている若い官吏が二人、書類やら文献やらの整理をしているが、音の出所は彼らの方向ではない。となればその原因は一つしかなく、入間は首を巡らせて視線を自分の横へと向ける。
そこには、魔王の側近で、入間の伴侶で、今は文献探しを命ぜられているアリスの背中があった。なめらかな桜色の髪を深い青のリボンで結ったのが、咳払いに合わせて、その真っ白なロングジャケットの上で踊っている。
肺の奥から出てくるような重たい咳ではなさそうだが、喉に居座る違和感を追い払おうとするような、喉から上の空気を鼻に押しやるような音が、止んでは響き、響いては止み。
――……昨夜、ちょっと無理させすぎたかな……
脳裏に反省の弁を浮かべ、入間は口元を苦笑いの形にすると、持っていた万年筆の背で頬を掻いた。
昨夜は色々――と、仕事中だというのに、昨夜の出来事がちらりと、もとい、次々と脳裏を過っていき、慌てて頭を振って雑念を追い出す――そう、色々とあって、少々羽目を外しすぎてしまった。眠りについたのも、空が白んできてからだ。
「アズくん」
今日は仕事も詰まっていないし、少し休憩を取らせようか、あまりしんどいようなら今日はもう下がらせようか、と思いながら背中に向かって呼びかける。
ピンと伸びた背中は、入間の呼びかけに弾かれたように振り向く。
「はい、御用でしょうか」
「ちょっとこっち来てくれる?」
こちらを向いたその表情に、まだ文献を見つけられないことを咎められるのではないか、という緊張が見て取れたので、入間は、ちょっと用事が増えただけ、という顔と声色を作ってアリスを手招く。
するとアリスは少し安心した様子で、なんでしょう、と数歩の距離を入間の元までやってきた。
ちょいちょい、と指先を内緒話をするときの合図を送る動きで振ると、アリスはさらに一歩距離を縮め、そのほっそりと長い、白い耳を入間の口元へと差し出そうと、顔を寄せてくる。
そのとき、アリスの目がほんのりと赤くなっていることに気がついた。いや、瞳はいつも赤いけれども、そうではなくて、いつもなら透明感を持った白色をしているはずの強膜に、無数の毛細血管が浮いて、赤く見えている。所謂、充血、というやつだ。眼球全体もどこか濡れているように見える。
「あっ、アズくん、風邪でしょ!」
思わず、アリスの耳が口元に来る前に、内緒話をするどころか、いつもよりやや大きいくらいの声がまろび出る。喉元まで用意していた色めいた囁きは、すっかりどこかに吹っ飛んでしまった。
アリスの瞳がこうなるのは大抵、風邪の引き始めである、と、付き合いの長い入間は知っている。見た目にはほっそりしているが、その実、服の下には壮健な肉体を持ち、鍛錬にも自己管理にも余念のないアリスが体調を崩すのは珍しいのだけれど、それでも何年かに一度は風邪をひく――のだが、なまじ体力はあるものだから、多少の不調は押し隠して仕事をしようと、入間の傍に居ようとする悪癖がある。現に今も、体調不良を指摘されたアリスの表情は、「しまった、バレた」と物語っている。
むっとした表情を作ってやると、アリスは観念したようにため息を一つ吐いてから、意味ありげな笑顔を浮かべた。
「昨夜、少々身体を冷やしすぎたようでして」
遠回しに「入間様のせいですよ」と、昨夜の出来事を滲ませる声色で囁かれ、魔王は一瞬反論する言葉を失う。もとより、昨日のことのせいで体調が悪いのなら下がらせようとは思って居たので、まさにその通りではあったわけだが、なんとなくアリスにやりこめられたような気分だった。
「……もう、今日は終わりにして、ベッド行ってて」
どこか投げやりにも聞こえる口調で、万年筆の先を入口の扉に向けてアリスに告げる。それは要するに「無理せず大人しくさっさと寝ろ」という指示だったのだが、聞いていた下働きの二人の手元からそれぞれ、書類を握りつぶす音と本を取り落とす音がした。
どうしたのだろうと視線をそちらに向けると、二人はワタワタと慌てて書類を伸ばしたり、本を拾い上げたりしている。何か、聞いてはいけないものを聞いてしまったという様子で。
変なことを言っただろうか、と思いながら視線を戻すと、アリスは顔を赤くして、何か言いたげに口元をわななかせていた。
「どうかした?」
「……私は、魔王様の仰いたいことは正しく理解しているつもりですが、物事には言い方というものがあります」
「……変なこと言った?」
「あの言い方では、あの二人の反応も無理ないかと――では、お言いつけ通り、本日は下がらせて頂くとします」
アリスは何か歯にものの挟まったような言い方をして、その場で慇懃に一礼すると、素直に踵を返して執務室の入口の方へと歩いて行く。
大丈夫です平気です働けますと駄々を捏ねられることを想定していた入間は、その素直な反応に思わず拍子抜けしてしまう。やはり体調が悪いのだろうか、と心配しながら見送ろうとすると。
「――では、お待ち申し上げておりますので――」
薄く開けたドアの隙間に消えながら、チラリとこちらを振り向いたアリスが、クスリ、と挑むような表情で笑った。
その言葉にようやく、自分の言葉が周囲にどう受け取られたのかを理解した入間は、思わずその場に立ち上がる。
「そう言う意味じゃないからね――?!」
叫び声は、閉じられたドアに反響して消えた。
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編集者と、まだデレてない作家編
入間がアリスの元へ原稿を取りに来たのが、二時間前。
「あと二時間もすれば終わるから、そこで茶でも飲んでいるといい。ついでに私の分も頼む」と言われれば、新人編集である入間には、今をときめく、超が百個くらいは軽く付く売れっ子作家であるアリスの言うことを聞かぬと言う選択肢など無く、言われるがままにアリスの分と自分の分、二つの湯飲みに緑茶を淹れて、差し出して、アリスの書斎の片隅に用意された編集者用の待機スペース――簡易なデスクとオフィスチェアが有るだけの一角――にちょこんと座ったのが、一時間と四十五分ほど前。
今日は締め切り日で、十時には原稿を取りに行くと伝えてあったはずなのだが、アリスは頻繁に、こうして締め切りを二時間破る。それが決まって二時間なものだから、一度、今日は十二時に行きますからそれまでに仕上げておいてください、と言って、十二時に取りに来たことがある。その時は結局二時まで待たされた。
不思議と、締め切りをいつもより一日二日早く伝えても、伝えた締め切り日にはきっちり仕上げてくれるのだ。それが出来るのならば時間の方も守って欲しいのだけれど、それはどうしても無理らしい。一度先輩編集者に愚痴ったことがあるが、「作家とは概ねそういうもの」なのだそうだ。
そんな訳なので、最近はもう最初から、その二時間を織り込み済みのスケジュールを立てている。担当になったばかりの頃は待たされることに苛立ったり、本当に締め切りまでに仕上がるのかと不安になったりもしたものだけれど、今では二時間後にはきっちり耳を揃えて原稿を渡してくれると解っているから、入間にとってこの二時間は、最早半ば合法的な休憩時間だ。
待っている間やることと言えば、たまにアリスに言いつけられてお茶を淹れたり、茶菓子を持ってきたり、気分転換の世間話――たいてい一言か二言――の相手をしたりする程度で、あとは概ね本を読んで過ごしている。まあ、編集者という仕事柄、色々な本を読むのも仕事のうちと言えばそうなのだろうが。
さてそろそろ原稿が仕上がるだろうから、受け取ったら昼食にでも誘って今後の打ち合わせをしなくては、アリス先生はどの店なら付いてきてくれるだろうか、と入間が算段を始める頃になっても、今日は珍しく、アリスの口から「出来たぞ」の言葉が聞こえてこない。
時計の針は間もなく正午に差し掛かろうとしている。
「……あの、アリス先生、進捗の方は如何です、か……?」
あまり急かすようなことを言うのも怖かったのだが、仕事は仕事である。恐る恐る机に向かったままの背中に声を掛けてみると、苛立たしげなため息が答えた。思わず肩が縮こまる。
「……今日は、調子が悪い。もう少し待て」
短い沈黙の後、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。絶賛締め切りを破り中の作家の態度とは到底思えない不遜な言い草だけれど、それがアリスの通常営業なので入間ももう一々慄いたりしない。
むしろ、いつもなら間髪入れずに「うるさい、書いている、黙って待つこともできないのか」くらいの連撃が来てもおかしくないのが、今日は声にも言葉にもどこか覇気がない。
「……先生……」
そう言えば今日は最初の一度のお茶出し以外、お茶汲みも茶菓子の用意も、世間話の相手も言いつけられていない。調子が悪い、というのは、筆が乗らないという意味ではなく、もしや、と、入間の直感が告げる。
「……体調悪いですね?」
気づいてしまったら、身体が勝手に動いていた。つかつかと数歩の距離をアリスの横まで歩み寄り、はっしとその肩を掴む。
するとアリスは鬱陶しげに細く鋭くした視線をこちらへと向けた。
「……調子が悪いと言っただろう。大したことではない」「今無理したら悪化します。原稿なら、あと二日、いや、三日ならなんとか待てますから、今日はもう休んでください!」
もう構うな、とでも言いたげなアリスに、しかし入間は食らいつく。日頃体調管理を万全にしているアリスが原稿の進行を乱すなど、見た目には解らないが恐らく相当に体調が悪いのだろう。編集者として原稿の心配をする心よりも、仕事仲間の健康を心配する気持ちの方が勝った。
けれど当のアリスの方は、仕事を中断するつもりは無いらしい。ちらと入間に向けていた視線をモニターに戻し、手元はキーボードを叩き始める。
「アリス先生!」
「なんとか作れるその二日だか三日だかは、君の徹夜と引き替えになるのだろう」
全てお見通しだぞ、人の心配をしている場合か、とでも言いたげな声色に一瞬はたじろぐ入間だったが、しかし、今のところ健康な入間の一晩の無理と、現時点で体調を崩しているアリスの一日の無理、どちらを取るべきかは明らかだった。
「ここで無理して悪化して、来月以降のスケジュールに穴あけられる方が徹夜が増えます! 僕の徹夜の心配してくれるなら、今すぐお布団入って、明日一日しっかり休んで、明後日中に原稿ください! それなら残業だけで済みますんでっ!」
がっしと両手でアリスの肩を掴んで、無理やり椅子を回してしまう。体格ではアリスの方が圧倒的に上だが、回転式のオフィスチェアを回すくらいは入間の力でも出来る、とはいえ、アリスに踏ん張られたら一筋縄ではいかないのだろうが、椅子は思ったよりもスムーズにくるりと回った。
はい立って立って、とアリスの手を引く。余計なことをするなと怒られることは覚悟していたのに、アリスは手を引かれるがまま、無言でむくりと腰を上げる。抵抗する元気も無いのか、はたまた、実は休みたいと思って居たのを素直に言えなかっただけなのかは知らないが、抵抗がないのをいいことに、そのままずるずると寝室へ引っ張っていき、ドアの向こうに押し込めた。
「今、食べるものとか飲み物とか買ってきますから! ちゃんとお布団入っててくださいよ! いいですね!」
ドアを閉めながら言いつけると、アリスは心なしか背中を丸めてクローゼットの前へと向かっていた。着替える気になったということは、もう仕事に戻ろうとはしないことだろうと安心して、入間は財布を掴むとアリスの家を飛び出していった。
「お布団、とは……また、可愛い単語を選ぶものだ……」
寝室にひとり残されたアリスがのそのそとした彼らしからぬ仕草でパジャマに着替えながら、そんなことを呟いて、ふふ、と笑った。