キスの日(燐ニキ)「今日はキスの日らしいっすよ」
星奏館の共用キッチンにて。夜食を食べ終えたニキは皿を洗いながらぽつりと呟いた。
カウンターテーブルに頬杖をつきながらスマホをいじっていた燐音は小さな呟きを捕らえるとその視線をニキへと向けた。しかし視線は交わることなく、ニキは下を向いて泡まみれになった皿を濯いでいるところだった。
「シナモンのお客さんが言ってたのを耳にしたっす」
「……へェ」
きゅ、とシンクのレバーを下げて水を止めたニキはお椀をカゴに立て掛けた。そのままハンドタオルで手の水気を拭き取るとエプロンへと腕を回す。取り外された共用のそれは軽く畳まれてキッチン隅のハンガーへ。片付けまでの行程が終わって、ようやくニキの夜食は完結したらしい。
そのままくるりと回って燐音の隣の席に腰掛けると、燐音のほうを見るでもなく所在なさげに自身の髪を弄り始めた。
そのまましばらく沈黙が流れる。燐音は隣から痛いほどの視線を感じていたが、あえて何も言わずに放置していた。
やがて耐えかねたように口を開いたのはニキの方だった。
「キスですって、燐音くん」
「おー」
「……」
「……」
「ねぇ、燐音くん」
「……なに」
燐音はニキが何を言わんとしているのかは重々把握していた。だから、その上で何も答えなかった。それに不満を覚えたらしいニキは、こちらを見ろと言わんばかりに燐音の名を呼ぶ。それを無視できるはずもなく、渋々といった様子で燐音がスマホから目線を外すとようやく二つの青が絡み合う。ニキはむ、と眉を寄せて口を尖らせながら言い放った。
「僕たち、いつキスできるんすか?」
「……だから、そういうのは結婚してから」
「……またそれっすか」
お付き合いを始めてからも一向にキスが許されないことに痺れを切らし、こうして不満をぶつけてくることは度々あった。その度に燐音は同じ返事を繰り返すのだが、ニキもそう簡単に諦めるつもりはないらしく毎回食い下がってくるのだ。
「ニキきゅん、そんなに俺っちとキスしたいの?」
「したいっす」
「なんで?」
「なんでって……、好きな人とキスしたいのに理由なんているっすか?」
ぐっと言葉につまる燐音。
燐音だってニキとキスしたい。たぶん、ニキが燐音とキスしたいと思うようになるずっと前から。
だけどずっと守ってきた己の信念を今更曲げるわけにはいかなかった。きっと、一度触れたらもう歯止めが効かない。それだけじゃ済まない。もっと先に進みたくなって、結局はキスだけじゃ終われない。
だからまだダメだ。ちゃんと、ニキを手に入れるまでは。
それでもあのニキが燐音にワガママを言って、燐音のことを欲してくれている姿が、感慨深くも愛おしい。折衷案として、燐音は自身の手の甲に唇を押しつけるとそのまま隣のニキの唇へと手の甲を押しやった。
ふに、という柔らかい感触を手の甲に感じて、なんとも言えない感情が胸を擽る。
「……今はこれで我慢な」
「えぇ〜」
「きゃはは! 物足りないって顔かァ?」
「足りないっすよぉ……も〜……」
不満そうな声を上げるものの、それ以上何かを言うことはなくニキは大人しく引き下がった。手の甲越しに伝わる熱を感じながら燐音はほっと息をつく。
物足りなさを隠そうとしないニキの表情。そんな表情にどうしようもなく煽られてしまう。
「……心配しなくても、結婚してからは飽きるほどキスしてやっから。ニキがやめてって言ってもやめてやんねェから。……な?」
「……言質とったっす。約束っすよ」
ニキはほんのり頬を赤らめながら、「ん」と小指を差し出してきた。差し出されたそれに自身の小指を絡めると、燐音はゆっくりと上下に揺らした。
いつもより速い心臓の鼓動が、小指越しに伝わらないことを祈りながら。