恋のスパイス【成唯】 土曜日の練習場所の確保は、なかなか大変だ。星奏学院内の練習室は、休日であっても土曜日だけは生徒向けに開放してくれている。でも、ただでさえ混み合う上に音楽科の生徒たちに枠はすぐに押さえられてしまうから普通科の私にはとてつもなく不利だ。菩提樹寮の最上階の塔も防音の練習室にはなっているけれど、寮生にも使いたい人がたくさんいるからそこもなかなかの激戦区なのだ。
だから、そんな土曜日に学院の練習室を奇跡的に確保できた時、私は大きくガッツポーズをしてしまった。土曜日にわざわざ学院まで行かなくちゃならないけれど、せっかくの機会なのだから贅沢を言っていられない。
練習室の予約時刻は午後2時からなので、昼食を食べてから向かおうと私は決めた。購買や学食のない休日の寮生の昼食は、人それぞれだ。共同のキッチンを借りて自炊して作ったり、コンビニや近くのお店のテイクアウトで買ってきたりする人が多い。私は、今日は外でランチをすることにした。もちろん行き先は、私の彼氏の成宮くんがバイトをしているカフェ。お茶をしに行ったときに食べたスイーツが絶品で、それをきっかけに、私はそこがとてもお気に入りのお店になってしまった。成宮くんが、スイーツだけじゃなくてランチメニューのパスタやピザもおいしいと教えてくれたから、いつかぜひ食べてみたいとずっとチャンスを狙っていた。
でも、私がそのカフェに行きたいと思うのは、美味しいものを食べたいという理由だけじゃなくて別の理由もある。働く成宮くんの姿を見られると言う、下心だ。成宮くんに、自分の作ったものを食べる私を見るのが好きだと以前言われたことがあるけれど、その気持ちと私のこの気持ちは似ているのかもしれない。好きな人のいろんな姿を見られるのは、純粋に嬉しいし楽しい。成宮くんがオケに参加してくれた時、イケメンすぎるチェリストとして女子たちの注目の的になっていたけれど、私はその気持ちが理解できるようになった。成宮くんはかっこいい。そんな成宮くんを見つめているだけで、私は元気になれる。
「いらっしゃいませ。先輩、また来てくれたんですね。嬉しいなぁ」
案内された席に座って待っていると、カフェの制服をまとった成宮くんが、お水とメニューを持ってきてくれた。
「成宮くん! えっと、注文するね。日替わりのパスタランチ。ドリンクはアイスティーで、食後にお願いします。セットのデザートは、チョコレートムース!」
ご注文は何にいたしますかと尋ねられる前に淀みなく伝えた私に、成宮くんはにっこりと微笑む。
「かしこまりました。先輩は、注文の仕方もばっちりですね」
「えへへ。このランチのために、下調べをバッチリしてきたから!」
「ありがとうございます。あまりお構いできませんが、ゆっくりしていってください」
そんな他愛ない会話を終えると、成宮くんは一度厨房へと下がっていった。すぐに前菜のサラダを持ってきてくれた。そして、店内をてきぱきと歩き回り次々と接客をこなして行く。そんな彼の働きっぷりに、私は感心した。彼を眺めながら口にしたサラダのレタスの食感はシャキシャキで、とっても美味しい。
「あ! 成宮くん、今日はシフトに入っていたんだね。土曜日も会えちゃうなんて嬉しい〜」
語尾にハートマークが付いているような甲高い声が、私の座っている場所の対角線上にあるテーブルから聞こえてきた。聞き覚えのある声に、私はプチトマトを口に入れようとしたところでフリーズしてしまう。恐る恐るそちらを見て、ぎょっとした。そこにいたのは、以前私を鬼のような形相で取り囲んできた成宮くんファンクラブの一年生女子たちだった。見つかったらまたややこしいことになる……。別に悪いことをしている訳じゃないけれど、私は彼女たちに背中を向けるようにして座り直した。
「お待たせしました。本日のパスタになります」
ファンクラブの子たちとは適当なところで話を切り上げたのか、成宮くんが私のテーブルにメイン料理であるパスタを持ってきてくれた。
「先輩は、このあと練習ですか? ヴァイオリンを持っていますよね」
「うん。夕方5時まで練習室が取れたから、食べ終わったらそのまま学校へ行くつもり」
「その時間なら丁度いいです。俺が迎えに行っていいですか? 今日のバイトはここだけですし、寮まで一緒に帰りましょう」
思いもよらぬ成宮くんからの申し出に、私は頬が緩んでしまうのを抑えることができない。少しでも一緒にいられる時間ができるのは純粋に嬉しい。
「分かった。待ってるね!」
「はい。それでは、ごゆっくり。デザートとドリンクは、タイミングを見て持ってきますね」
そんなやりとりを終えると、私はうきうきした気持ちでパスタを食べ始めた。今の季節に合わせて、菜の花とベーコンのペペロンチーノ。唐辛子がピリッと効いていてそれもまた美味しい。上機嫌で食べている私の耳に、また気になる話し声が入ってきた。
「ねえ。成宮くん、月曜日提出の英語の課題はもうやった? どうしても分からない問題があるから、バイトの後でいいから教えて欲しいな」
成宮くんファンクラブの女子の声は、店内でよく通る。聞き耳を立てていた訳ではないのに、自然と聞こえてきてしまった話題に私はまたフリーズした。成宮くんは、顔が良いだけではなく頭も良い。だから、頼りたくなる気持ちはとてもわかる。あの子たちはデートとかそういうお誘いをしているのではないし、ただ勉強を教えてと言ってるだけ。自分で自分に言い聞かせる。でも……なんだかもやもやする……。見てはならないと思っていたのに、私は彼女たちの方をゆっくりと振り返ってしまった。すると、彼女たちの中の一人とばっちり目が合ってしまう。私と目が合った瞬間に細められた彼女の瞳は、明らかにこちらを意識していることを伝えてきた。あの子たちが成宮くんと同い年で、しかも同じ宿題を出されてるからこその特権とでも言いたいのだろうか。歳上の私にはできない甘え方だ。ここが、お洒落なカフェじゃなかったら、悔しさにその場で子どものように地団駄を踏んでしまったかもしれない。でも、そんなことはしない。だって、成宮くんの彼女は、私だもん。これくらいのことで、ギスギスしていられない。歳上の彼女の私は、心にゆとりがあるのだ。
「バイトの後は予定があるんだ。今日はごめん」
「じゃあ、マインで教えて?」
成宮くんは、彼女たちの誘いをきちんと断ってくれた。それでも諦め切れないのか、彼女たちはなおも食い下がってくる。さすがの成宮くんも、断り切るまでになかなか骨が折れそうだ。私はそわそわする気持ちを落ち着かせるために、食事を再開する。でも、パスタに入った赤唐辛子の辛味が痛みとなって舌をぴりぴりと刺激する。痛いな……。この辛味は、今の私の心の内を表現しているかのよう。とても美味しいはずなのに……。嫉妬は恋のスパイスだなんて言うけれど、私はこんなに痛いものなのかと改めて思い知らされた。
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ランチを終えると、私は学院の練習室へと篭った。煩悩退散を願いながら、ヴァイオリンにひたすら集中する。でも、意識すればするほど深みにはまっていってしまう感覚に囚われた。
「あーー! ダメ! こんなんじゃ!」
私はヴァイオリンを置くと、自分で自分の頬をパシンと叩いて気合いを入れ直す。恋にかまけて音楽がお留守になるとか、あり得ない。あまりに、極まりすぎているだろう。一人で呻いていると、練習室の扉がコンコンとノックされた。
「はーい」
返事をして扉を開けたら、そこに成宮くんがいた。一瞬焦ったけれど、まだ約束の時間じゃなかったはず。私の顔を見るなり、成宮くんは目を細めた。
「少し早く到着しちゃいました。先輩。なかなか煮詰まってますね?」
「う……」
私は、隠すことが下手っぴだからその時の気持ちが顔にすぐ出てしまう。たぶん、カフェでランチをしていた時から、これ以上ないほどやきもちを焼いていたことは彼にばれていただろう。心得ている成宮くんは、にっこりと笑うと差し入れを取り出してくる。
「そんな先輩のために、用意しました。生クリームをことこと煮詰めて作ってきましたよ。はい、どうぞ」
成宮くんが口元に差し出してきたお菓子を、私は何も考えず条件反射であーんして食べてしまった。まさに本能のままに。そのお菓子は、口の中であっという間に蕩けるやさしくてどこか懐かしい甘さをしている。手作りの生キャラメルだ。おいしい……。成宮くんお手製のお菓子に、やきもちでささくれだっていた心が即効でほぐれていくのを感じた。持て余していたやきもちが生み出したイライラは、口の中のキャラメルと一緒にあっさりと溶けていく。自然と笑みが溢れてきた。そんな私を、成宮くんはにっこりしながら見つめてくる。
ああ。きっと、チョロいと思われているんだろうな……。でも、彼が私のご機嫌の取り方を心得ているから、私はいつもこんなにチョロくなってしまうのだ。
「成宮くん、ちょっといい?」
私はそう告げると、彼の返事を待たずにぎゅっとその大きな体にハグをした。私よりもずっと大きくて広い背中に手を回す。こんなふうに、突然思いっきり抱きついても成宮くんはがっしりと受け止めてくれる。彼のシャツから、バニラのような甘い香りがして、私は思いっきり吸い込んだ。キャラメルを作った時の移り香だろうか? この甘い香りに、酔わされてしまいそう。
「……かわいいなぁ」
噛み締めるようなひと言。私の不機嫌さがこうして成宮くんに抱きついただけで即機嫌が治ったのも、彼にはお見通しなのが分かる。でも、そんなチョロい私でいい。
「よし、充電完了! とりあえず、時間まで練習して行ってもいい?」
「えっ……」
私の切り替えの早さに、成宮くんはぽかんとした表情を浮かべた。この流れでまた練習をするとは思っていなかったのだろう。さすがに、ムードがなさ過ぎたかもしれない。
「……だめ?」
「ははっ。先輩のそういうところ、好きですよ」
「ありがとう!」
すると、成宮くんは私の髪を一房すくいながらにっこりと笑った。
「きちんとお利口に待てをします。そんな良い子な俺には、ご褒美をくださいね」
そう告げると、彼はすかさず私の唇にキスをしてきた。ご褒美って、達成できてから貰うものじゃないのかという疑問が一瞬だけ頭をよぎったけれど、そんな思考はすぐに吹き飛んでしまう。恋にはスパイスよりも、こんな甘いキスがいい。成宮くんのキスは、それを私に教えてくれるかのように甘くておいしかった。