心海に沈める 人には誰しも欲望がある。出世したい、お金が欲しい、美味しいものを食べたい、人によって様々だ。それが世界を発展させ、進化させる。ものによっては神の視線が降り注ぎ、力が与えられる。それは理解していた。
では私は、問いかける。私に欲望は必要ない。国の、家族の礎になるためには己を殺さねばならない。そう思っていたのに、あの出会いから何かが変わってしまった。海の向こうから来た黄金の影が夢の中にまでちらつくのだ。
全てを手に入れて、羽根をもいで閉じ込めてしまえと欲望が囁く。命までこの手に収めてしまえと心の奥底が願う。彼は私に応えてくれたが、これ以上求めれば私はきっと彼を壊してしまうだろう。
だからこれはしまっておこう。鍵をかけて閉じ込めるのだ。誰にも触れさせないように心の深く、深くに沈めるのだ。
「トーマ、君に頼みがある」
快晴、十時。朝食の片づけを終えたトーマは主である神里綾人に呼び出された。昨晩は床の上で随分愛しあったが日の昇る今はただの主と家臣だ。
今日綾人には接待の予定があり、時間がない。そういうわけで二人は顔を合わせると早速話を始めた。
「欲望を暴走させる薬?」
「そう、それが巷を騒がせているらしい」
聞き返したトーマに綾人は頷く。欲望を暴走させる薬。聞くに、それによって暴行事件なども起きているらしく、天領奉行も調査しているようだ。だが、成果は芳しくないらしい。稲妻の安寧を守ることに力を尽くす綾人はトーマにその調査を請うつもりで呼んだのだ。
「旅人さんにもお願いしたから、協力するように」
旅人と久しぶりに会えるのか、と考える。しかしほのかな違和感を感じてトーマは目を瞬かせた。なんだか少し怒っているような態度だ。綾人は普段から考えていることを表に出さないように心がけている。そのため掴みづらいのだ。だからこれはトーマの経験上としか言いようがないが態度がぎこちない。
「あの、何か怒ってます?」
「どうしてそう思うんだい? そんなことはないけれど」
トーマの言葉に綾人は不思議そうな顔をした。トーマは自分の周りで直近あった出来事を思い出す。一昨日は休みだったし、昨日は旅人と一緒で綾人とはそう顔を合わせていない。旅人、というところに引っかかりを覚えトーマは考える。間違っていなければ旅人の名前を出した時に違和感を感じたような気がする。旅人と何かあったのだろうか。
しかし綾人には怒っているという自覚がないようだ。それならばこれ以上聞いても仕方ないのでトーマは立ち上がる。旅人にも話を聞いてみようと記憶してから待ち合わせ場所へ向かう。
「トーマ!」
「やあ、元気だったかな?」
旅人とパイモンは鎮守の森の入り口で待っていた。二人はいつも通り元気そうな様子だ。時間を割いてくれてありがとう、と礼を言うと旅人は首を振った。曰く、悪いことが行われているなら見逃せない、だそうだ。相変わらずの正義感にトーマは清々しさを覚える。
確かな情報がないからまずは情報を集めたい。一向は挨拶もそこそこに目的へ向かい歩き出した。
とりあえず城下で聞き込みをすることにした。城下には人が溢れている。その中から話好きそうな人を選んで話しかけていく。まずは井戸端会議をしている主婦に目をつけた。
「欲望を暴走させる薬って聞いてことあるかい?」
トーマに声をかけられ、主婦たちが色めく。端正な顔立ちで柔らかい態度、そして家政に長けているトーマは主婦に人気がある。主婦たちはそうねえ、と考える素振りを見せてから話を始めた。
「この前そこの通りで暴行事件があったそうなの、なんでもその犯人がおかしな薬を飲まされたとか」
怖いわね、と主婦たちが顔を見合わせた。それ以上は何も知らないらしく、礼を言ってからその場を後にした。その後も店先や冒険者協会で聞き取り調査を続けるも、街の人々が知っているのは暴行事件があったことくらいだった。深い情報は得られていない。
「うーん、どうしたものか」
トーマはお茶を啜ってから頭をかいた。昼も近くなってきたので団子屋で休憩がてら作戦会議をすることにしたのだ。それなりに歩いたので甘いものがよく沁みる。旅人はひとつ伸びをしてから言う。
「当事者に聞くしかないかもね」
「そうだなあ」
ただ、暴行事件の当事者は天領奉行の取り調べを受けている。なんとか交渉しなきゃいけないな、と二人は話し合う。その横でパイモンは呑気に団子を食べて嬉しそうに浮いている。その様子はとても微笑ましい。
「一個あげるよ」
旅人は残っていた団子を一つパイモンに渡す。そして大喜びのパイモンを優しげに見ながらお茶を啜っている。まるできょうだいのようだ。トーマはその横顔に問いかける。彼は虚飾を好まないだろうから単刀直入に言葉を選ぶ。カラメル色の瞳と目が合った。
「旅人、最近若と何かあったりした?」
「うーん、特には」
旅人が過去を振り返る仕草をする。しかし思い当たる節はないようだ。横にいるパイモンも不思議そうに見ているだけで、何かがあったとは思えなかった。トーマは変なこと聞いてごめんな、と当たり障りのない範囲で理由を教える。
「若の様子がちょっとだけ変でさ」
「そうなんだ、……そういえば」
旅人が手を叩く。気のせいかもしれないんだけど、と彼にしては歯切れの悪い言い方をする。そして神妙な顔をして言った。つられてトーマも真面目な顔になる。
「たまに俺を見る綾人さんの目が笑ってない気がするんだよね」
「目が笑ってない」
そうオウム返しをしてトーマは首を傾げた。心当たりが全くない。そもそも綾人は隙を見せないようにいつでも柔和に笑っている。その裏には色々なものを隠しているがそれを表に出さんと励んでいた。トーマから見てもそれは上手く行えていると思ったが、と考える。
「えっと、友達といたら笑うでしょ?」
理解しきれていないトーマを見て旅人が補足する。うん、確かにその条件ならわかる気がする、とトーマは頷いた。綾人は旅人のことを友人と認めている。その上で笑っていない、と旅人が感じることがあるようだ。だが、理解はしたが理由はわからない。それは同じようで二人して首を傾げた。
「悪いことはしてないと思うんだけどな」
それはオレもそう思う、とトーマは笑った。側から見て、旅人はしっかりしていると思う。幼く見えるのに人の嫌がることを的確に見抜いて地雷を避ける。だから旅人が何かをしたということは考えにくかった。それに、何かあったらトーマも気づくと思うのだ。
「まあ、何か悪いことがあったわけじゃないから気にしないでくれ」
そう言ってトーマはその話を打ち切った。旅人もさほど気にしていない様子でうん、と頷く。調査を続けよう、と立ち上がる。トーマがお代を払うと旅人たちは大いに喜んだ。
一行が店を出ると、路地から視線を感じた。柄の悪そうな男が睨みつけるようにこちらを見ている。何かしらを知っているに違いない。トーマと旅人は顔を見合わせ、頷いた。
男の方に向かい歩く。男はトーマたちがついてきているのを確認し、路地裏に消えていった。それをさらに追う。男は城下を抜け、人気のないところまで歩いて行く。木々が茂っているところで一行を振り返る。
「さっきから嗅ぎ回ってるのはお前らか」
男は敵意を剥き出しにし、凄む。二人は武器に手をやる。男も武器を取り出して構える。言葉もなく睨みあう。一触即発の前にトーマは男に尋ねる。
「妙な薬をばら撒いてるのは君たちかい?」
「だったら何だってんだ!お前ら、やっちまえ!」
呼びかけに柄の悪い男たちが集まってくる。どうやら宝盗団や野武士たちの寄せ集めのようだ。指揮系統という指揮系統もなさそうで、大した実力ではなさそうに思える。しかし油断せず襲いかかってくる男たちに立ち向かう。旅人が武器を閃かせる。そして剣から雷を走らせた。
「紫影!」
「火に気をつけろ!」
トーマはそれに合わせ、炎で追撃した。男たちに付着した雷元素に炎元素が反応し、過負荷反応が起きる。吹っ飛ばされた男たちに旅人が追い討ちをかけた。倒れ伏した男たちで山が出来た様子に、相変わらず容赦がないなあとトーマは苦笑する。男たちは息も絶え絶えに命乞いを始めた。
「命だけはお助けを!」
情けない変わりように旅人が呆れたように首を振った。剣を納めると手近な紐で男を縛る。そして、薬の出どころを聞く。しかし答えは判然としない。
「この間、お偉いさんが来てこれを広めろと言われただけなんだ」
なんでも、邪魔な相手にこれを飲ませるため急いで試験をして欲しいということらしかった。旅人は金を積まれたという身勝手な理由で危険なものを振りまいた男を睨む。男は殺気に震え上がった。
「試験結果はどうしたんだい?」
「今日使うって言うんでな、もう渡しちまったよ」
納得いく結果だったかは知らねえが、と男はつけ足した。きな臭い話だ。大元の悪を断つべきだ、と旅人が首謀者の名前を尋ねる。
「何ていう人だったの?」
男が名前を言う。その瞬間トーマが息を呑んだ。そして、間髪入れずに走り出す。あんまりに慌てた様子に旅人がどうしたの、と男を置いて追う。トーマは走りながら事情を話す。
「その男、今日若が会う人なんだ」
旅人が目を見開いた。
接待の最中、強い酩酊感に綾人は膝をついた。今日は朝から家臣による接待があったのだ。いまいち信用出来ない男だと思っていたが確固たる離反の証拠がない限り攻めることもできない。断れず彼の注いだ酒を飲んだ末、今に至る。
アルコールによるものとは違う理性の浮き方をしていた。自我の裏から何かががりがりと引っかいて来るような心地だ。朝、トーマに命じたことが頭を掠める。例の薬を盛られたのだろうか。目の前に座る男を見る。男は卑下た笑みを浮かべた。
「効いたようだな」
やはり、と綾人は口元を手で覆って表情を隠した。口を開くと無駄な言葉を漏らしてしまいそうだ。何も言わない綾人を見て何を勘違いしたか、男は勝ち誇った笑みを浮かべる。
「欲望に身を任せて破滅するんだな」
男は去っていくが追えそうもなかった。外にいる家臣も男の息がかかっていない確証がない。せめてトーマが帰ってくれば、そう考えた瞬間目の前が歪む。トーマが欲しい、と心の中の何かが囁いた。欲望が蓋を開け、這いずり寄ってくる。神の目が荒ぶるように点滅している。その時、部屋の襖が開いた。
「待ってトーマ、ワープポイントを使おう」
いくらか平静を取り戻した旅人はトーマの腕を掴む。途端、足元から浮遊感が襲う。気づけばトーマたちは神里屋敷の近くの妙なオブジェの前に立っていた。旅人の力にはまだまだ謎が多いが感心している暇もない。
二人は再び走る。綾人に何かあったら、何か起きてしまったらと思うと冷や汗が伝う。彼を、彼の理想を救いたい、その一心で走った。
屋敷に入るといつもより騒がしい。使用人たちが浮ついた様子で右往左往している。トーマの帰還に慌てて走ってきた同僚が言った。
「トーマ!旦那様が何か盛られたようだ!」
それを聞いてトーマと旅人は顔を見合わせる。どうやら計画は遂行されてしまったようだ。最悪の事態は避けなければいけない。その一心で二人は走った。広間の襖を勢いよく開く。
そこには膝をつく綾人がいた。彼は広い部屋に一人だった。どうやら相手の大名は逃げたらしい。だがとにかく綾人の様子を見るのが先決だ。薬がどう効いているかわからないため、努めて静かに声をかける。
「若、トーマです」
「ああ、トーマ」
小動物を愛でるような甘い声で返事が返ってくる。ひとまず理性はあるようだが、違和感が拭えない。綾人が顔を上げ、紫の瞳と目が合う。その瞳はどろどろに溶けていた。愛おしくてたまらないという表情でトーマを見ている。綾人の筋張った手がトーマの頬をすくった。
「トーマ、おまえを守ろう、そして愛そう」
永遠に、と息だけで囁く。立ち上がり、一歩、二歩、と歩み寄ってくる。パイモンが様子が変だぞ、と怯えている。しかしトーマは怯まず、お休みになりましょう、と笑う。綾人もそれに従う意志を見せていた。しかし、その目に旅人が映る。
「……トーマ、おまえは」
綾人の神の目が異様に光った。それは泣き叫ぶような鋭い光だった。呼応するように渦巻く水が現れる。部屋の温度が幾度か下がった。旅人は突然のことに惑い、数歩後ずさる。
あまりの殺気だが、友人相手なので旅人はどうしていいかわからない。綾人は無防備な旅人に白刃を以て切りかかる。しかしそれはトーマの槍で防がれた。ギチギチと刃が柄に食い込む嫌な音がする。
紫の瞳が旅人を射抜く。その目は嫉妬と、悲しみに満ちていた。深い深い海のような悲しみ。何に対して、と考えかけて首を振る。今はそれどころではない。旅人は交互に二人を見た。
「医者を呼んで来てくれるかい?」
トーマは振り返らずに言う。逃げろと言われているのだと理解し、旅人は頷く。襖を開け、駆け出す。彼を追うように水の刃が走り寄る。それを炎の盾で防ぎ、後ろ手に襖を閉めた。足音が遠ざかっていく。綾人はトーマを見つめた。その目には依然愛しさが渦巻いている。
「籠の中の鳥をどう愛でるか、ずっと考えてきた」
旅人のことが頭から抜けてしまったかのように綾人は言う。異邦から飛んできた鳥を閉じ込めてきた。本当は大空を飛ぶ方がうつくしいのではないか、空を望んでいるのではないか。落滴のように言葉が滴り落ちる。
「だが、もういい」
諦念と自嘲を滲ませ綾人は笑う。それをトーマは何も言わずにそれを聞いていた。今何を言ったって安っぽい言葉にしかならない。やがて言葉は止み、綾人が刀の柄を握り直した。来る、とトーマは構える。綾人は一歩踏み込んだ。
「籠の中から逃すくらいなら羽根をもぎ取ってしまえばいい」
鋭い斬撃がトーマを襲った。それを弾き距離を取る。言葉に嘘はなく、本当にトーマを殺すための一閃だった。しかしこれはまだ始まりだ。息をつく暇もなく次々と刀が振り下ろされる。これはこっちも傷つけるつもりで戦わないと、とトーマは槍を固く構えた。
トーマの槍術は守りに秀でている。守り、相手の隙を虎視眈々と伺う。そうして勝利を掴む。一方綾人は攻撃的な剣術を得意としていた。しかし彼ほどの使い手となると隙もそうない。詰まるところ、これは苦しい戦いだ。
剣がぶつかり合う音が響く。水がひたひたと散り、炎がそれを乾かす。そうしてそれをまた水が打ち消す、その繰り返しだった。一際強い一撃を受け止めて、トーマは衝撃に耐えた。
トーマは状況を分析する。自分は随分消耗している。一方綾人はまだ水の力の余力を残していた。正直なところ大分劣勢だ。このままでは直に押し切られる。
しかしトーマは槍を持つ手を緩めない。まだ生きねばならない。生きて神里に仕える、その一心で立っていた。しかし無情にも綾人の神の目が一際の輝きを見せる。瞳孔が開くのが見えた。
「──三尺の秋水」
音が消えた。
激流に盾を流され、後ろに吹き飛ばされる。畳に身体を打ちつけ、動けない。地面に伏すトーマの上に綾人は馬乗りになった。長い指がトーマの首元を這う。
「永遠を」
手で気道を圧迫される。肺に空気が行かなくなって、どんどん苦しくなっていく。ひゅうひゅうと喉が音を立てている。それでも喉にかかる力は弱まるどころか強くなっていく。
霞む視界で綾人を見た。五月雨色の髪から零れ落ちる水滴が涙のように見える。トーマは震える手を伸ばして濡れた頬を撫でた。どろりと濁った瞳がトーマを見ている。彼の言う永遠を手にするのも悪くないという考えが脳裏をよぎってしまった。
「──あやとさま」
トーマは最後の力を振り絞って身体を浮かせ、口づけをする。これが最期なら口づけがしたいと思った。一瞬、ほんの一瞬だけ生を諦めてしまった。
唇が触れた瞬間、綾人が目を見開く。冷たい唇だった。手が離されて急に肺の中に空気が満ちる。咳き込むトーマを見て、綾人が眉を下げた。その目には完全に理性が戻っていた。
「トーマ」
「……いいんです」
トーマはへにゃりと笑った。その顔を見て、綾人はさらに不安げな顔をする。それは本意ではないので、トーマは力を振り絞って起き上がった。止めたいけれど止められない、といった様子で綾人の手が空をさまよう。トーマはここにいると伝えるためにその手を握った。
「オレは大丈夫ですから」
そう言い聞かせる。そこに襖が開き、旅人が戻ってきた。綾人は自分が旅人に刃を向けたのでは、と思い出し彼を見る。旅人は傷ひとつなく、安心したように息をついていた。それを確認した綾人を唐突な睡魔が襲う。激しい欲望の発露で体力を消耗したのだろう。
「あなたは悪い夢を見ていた、オレも旅人も無事です。だからもう少し眠ってください」
トーマは綾人の背を撫で、笑う。程なくして綾人は眠りに落ちた。その身体をとりあえず畳に横たえて、トーマは旅人を振り返った。
「迷惑をかけたね」
そう言って、困ったように笑う。いいんだ、と旅人は首を振った。パイモンもそうだぞ、とあっけらかんとした様子だ。そして、納得いったように旅人が口を開く。
「綾人さん、俺に嫉妬してたんだね」
その言葉にトーマは頷いた。そして、綾人の奥深く閉じ込められたやわらかい部分を思い出す。初めて触れる場所だった。薬で誇張された、それでもれっきとした本心だ。
「多分、若も気づいてなかったんだと思う」
「そういうものだよ、欲望って」
旅人は年寄りじみて言った。彼はたまに妙に老成した言葉を使う。あらゆる世界を旅してきたと言うから色々な欲望のかたちを見てきたのかもしれない。
「だから人は生きるし、死ぬんだ」
「この度は、ご迷惑をおかけしました」
一晩明けて、まだ布団の中にいる綾人が旅人に詫びた。曰く、まだ身体が怠いそうだ。見舞いに来た旅人はとんでもない、と首を振る。薬の悪影響だったのはわかっている、と言って笑った。
あの後、綾人は旅人が連れてきた医者にかかった。疲労は溜まっているが安静にしていれば悪影響はない、と言われてトーマたちは安堵した。
薬を盛った家臣もすぐに捕まり、天領奉行に引き渡された。程なくして放置していた下っ端の男たちも捕まったらしい。神里家が男の息がかかった者を数名追い出すことになったがそれも仕方のないことだ。
「お詫びとお礼はまた日を改めてさせていただきます」
綾人の言葉に美味しいものを想像したパイモンが目を輝かせる。それを肘で突いて旅人が頭を下げた。そうして挨拶をすると部屋を去っていく。騒がしい二人が居なくなると部屋は途端に静かになった。
「トーマ」
静かに名前を呼ばれた。その目には惑いが浮かんでいる。その惑いを払えるように、トーマは綾人の手の上に自らの手を重ねた。綾人はぽつりと続きを紡ぐ。
「君を束縛するつもりは本当にないんだ」
重ねた手が握られた。言葉での虚飾を削ぎ落として見つめ合う。綾人の瞳にはただトーマだけが映っていた。ひとつだけ、言葉にして確かめる。
「オレはお側にいますから」
握りしめられた手に力が込められる。トーマはその温もりを黙って享受していた。静かな部屋にふたりの息遣いだけが響いている。長いような、短いような時間だった。
「ずっと待っています」
その欲望を正面から突きつけられる日を、トーマの命すら手中に収めて笑う日を。トーマは声に出さずに微笑んだ。
ぼんやりと月明かり輝く夜、男たちの呻き声がかき消える。自分以外の存在が全て気を失ったのを確認して、トーマは槍をしまった。
あの後、トーマは例の薬の製造元を探っていた。下っ端の残党、怪しい取引、治安の悪い箇所を調べ、ようやく尻尾を掴んで今に至る。
製造所は鳴神島の外れにあった。見張りがぽつぽつといたが大した腕ではなく、簡単に倒せてしまった。粗末な洞窟の中を歩く。じゃりじゃりと石を踏む音だけが響いている。
洞窟の中心までたどり着く。机の上には少しの錬金術の機械と液体の入った瓶が置いてある。その横にレシピと思しきメモ書きが置いてあった。そこには祟り神の影響を受けた草花を使う、と書いてあった。確かに、机の下には草花の入った箱が置かれている。
「片づけておかないと」
トーマは一人呟いた。片づけは得意だ。それが家の中の雑事でも、家の外の荒事でも。まずはメモ書きを破って燃やす。復元されてしまうかもしれないから丁寧に小さくする。
火を眺めながらトーマは考える。欲望に囚われ、剣を交えた主君のことを思い返す。この命まで求められていると知って心が高鳴った。でも、だからこそ薬を盛った男に腹立たしさを感じる。
あれはトーマが寵愛の果てに命を捧げて手にするものだったのに。汚い手で直に触れていいものではない。
紙片はじりじりと燃えていく。黒を通り越して白く灰になっていく。程なくして全てのメモは綺麗に灰になった。
次は、と辺りを見回す。この瓶に入っているものは恐らく例の薬だろう。そう考えトーマは瓶を割る。破砕音が響いて薬は流れていった。最後に草花を燃やしてしまえば片づけは完了だ。あとは天領奉行に任せておけばよいだろう。
舞った埃を払ってトーマは洞窟を後にする。時間にして一刻もかかっていない。早く帰って明日の朝の献立を考えなければ、とトーマは足を早めた。
欲望がなくなるということはない。それを失うことは生きる意義を失うことと同義だからだ。だからこそ、その意義に触れた代償を払うべきだとトーマは思っている。
そしていつかこの忠誠の果て、自らの命すら使い潰されるときをずっと、ずっと待っている。