暗い室内、放り投げられた靴、ひっくり返ったソファー、人の喋り声。
そんな物ばかりが充満した元我が家に、トードは足を踏み入れた。
人影が一つ、侵入者にも気付かず手元を熱心に動かしながら笑っている。声色は三つ分、低いのと、中間と、高いの。一人が発している、3人分の会話。全く、いったいどれだけこの男を1人で放置したんだろうか。思わず、溜息を一つ吐いてしまった。
「エッド。」
一歩踏み出す。カツン、と普段なら革靴が高らかに鳴り響くはずだが、今のトードの足を包むのは高級そうな光沢のある革靴ではなく一般的なスニーカーだ。音なんか鳴らない。けれど、たった一言名前を呼ばれた男はゆらり、と此方を振り返って、それから思いっきり飛び掛かってきた。
想定内、トードは実に軽やかに彼、エッドを抱きとめた。腕の中のエッドの体は心なし細くなっている気がして、思わず苦虫を噛み潰した様な顔をする。当の本人はまるで取り憑かれたかのように、ぎゅう、と強く赤いパーカーを抱きしめた。
トードは基本的にエッド達に干渉しない。それは決別を経たからであり、もう友達じゃあないからだ。
けれど、エッドという男はどうしようもない寂しがりやで、ひとりぼっちに3日も耐えれない様な男だった。トムやマットがいる間こそ普段通りだが、彼らが見えなくなった途端、これだ。靴の近くに放り投げられたパペットは彼らによく似てる。お手製だろうな、コイツは物作りだけは上手いから。そう考えられてしまう自分が、可笑しかった。
エッドが狂って自死を選びかねないときだけ、トードは彼の前に現れる。革靴も、軍人としての象徴である軍服も捨てて、ただのトードとしてそこに現れる。
幸か不幸かエッドはとち狂ってる間の記憶がだいぶ曖昧だ。トードが来たことを他2人に言うこともないし、言ったとしてせいぜい夢を見た、くらいの話になるだろう。
火傷の後は化粧で隠して、機械の義手は包帯を巻いて。何事もない顔で、いつか終わった日々を再演するように、トードはひとりぼっちになったエッドにだけは寄り添った。
「エッド、おい、どうした?黙りこくって。」
ぽん。軽く一つ背を叩けば、直前まで和気藹々1人三役をしていた彼はそうとは思えないほど弱々しい声で、「さみしかった」と呟いた。その声があまりにも消え入りそうで、思わず喉が鳴る。笑いでだ。俺の時はそんな声だったか?なんて頭に浮かぶが、アレがきっかけでここまで悪化した可能性も否めない。自身の歪んだ感情に、トードはそっと口の端だけを僅かに上げた。
「そうか、そうか。大丈夫だって、アイツらならきっとすぐ帰ってくる。」
離すものか、逃すものか、と必死に巻きつく腕を軽くトントンと叩きながら笑う。茶髪が微かに首筋を擽った。まるで違う、と言うように首を振る彼に僅かに首を傾げ返す。
「なぁんだよ、首振って。駄々っ子なのか?ちいちゃなエッドくん。」
揶揄を含んだ言葉にすら首を振られてしまった。さわさわと毛先が顔にも当たって擽ったい。
一体、何がそんなに気に入らないのか。二度目の溜息を吐けば、エッドが僅かに身動ぐ。ゆっくり、ゆっくりと寝起きのように緩慢な動きで顔を上げた彼は涙できらきら潤んだ瞳でトードを見上げた。
「…お前が、いなくなっちゃって、さみしかった。」
ぐわん。横っ面をぶん殴られたような感覚が襲ってくる。言葉が脳みそを殴打したせいで、一瞬理解すらできなかった。
嗚呼、そんな捨てられちまった子犬みたいな顔しないでくれよ。
思わずそんなことを思いながら、トードは無意識のうちに悲痛な面持ちへと表情を変えていた。エッドの瞳が真っ直ぐに射抜いてくる。普段は忘れてるくせに、なんともなさそうにしているくせに。
2人が居なくなって、孤独を思い出した彼はトードというかつての友人に思いを馳せてしまったのだ。
「どこ行ってたんだよ、トード、なぁ。」
寂しそうで、苦しそうな声と両腕がトードの体に絡みついて外せなくなる。
まただ。また、エッドから縛られる。あんなに強く拒絶したのにまだ、エッドの両腕からこの体も、心も、逃れられずにいる。
ずっとわかっていたのだ、わかっていた。トードは誰よりもよく理解していた。
誰も、エッドから離れることはできないのだと。そしてその中でも自身は特に、彼に惹かれてしまった時点で、この人生すら狂わせる他ないのだと。
関係が壊れるくらいなら、彼らとの関係がごたつくくらいならと決別して。次第に抑えきれなくなった感情を打ち消すように軍で成果を上げて。弱みになるからと自分に言い訳までして彼らから逃げても、なお。
エッドからは、離れられずにいた。
「…トード?」
純粋無垢で狂気的な目がトードを見上げる。キラキラ、きらきら、暗い部屋の中で輝く瞳が見上げてくる。
エッドは純粋だ。彼に恐ろしい執着の自覚はない。けれど彼は、人を狂わせ、彼を愛したいと思わせるナニカを持っている。それを、自分はよく、知っている。
「…なんでもない。悪かったな。」
_知っていたとしても、その瞳から逃れる手段も、その言葉を断ち切るための言葉も、トードは持ち合わせていない。
さらり、と彼の髪を払うように撫でつければエッドは微かに笑顔を浮かべた。嗚呼、その笑顔がひどく美しく見えて。
結局、トードはこの蛇のような蔓に絡みつかれたまま、動けなかった。