【夏五】嘘か真か パチパチと、何度も瞬きを繰り返す。
遠くに見えるのは、紫色の空。頬を、冷たい風が撫でていく。
―――風?
おかしい。
珍しく日付が変わる前に揃って帰ることができて、それならと今までできなかったあれこれをやろうと話していたのに、飯食って風呂入ったらあっという間に眠気が襲ってきて。忙しい日々、さすがに疲れが溜まりにたまっていた。それとも年かな、なんて笑いあって、結局あれこれはできないまま、一緒にベッドに入った。
ああ、そういえば。あいつは。傑はどこに。
ベッドに入ったのに、空を見上げて全身で風を感じている時点でおかしな話だが、とにかく傑の姿が見えないことが気になった。
右見て――マジでどこここ――左見て――京都?奈良?それにやけに寒、い。
正面を、見る。
「あ…?」
誰かが、蹲っている。
いや、違う。そいつの左胸に、ぽっかりと穴があいている。長い黒髪が、まるで暖簾のようにゆらりと垂れ下がって顔を隠している。ときどき風が揺らして、色を失った肌が見える。
はっきりと見えたわけではない。
けれど、目の前のどう見ても生きていない体が「誰」であるか、知っている。
「―――ぐ、る」
思わず名前を呼んだ口を咄嗟に抑えた。言葉にしてしまえば、現実になってしまいそうだった。
かといって、近づくこともできない。両足は完全に地面に縫い付けられてしまったように動けない。動けないまま、ただ静かな躯を見つめるしかなかった。
―――いやだ。こんなのは。こんな、こんな。
目を瞑る。首を振る。
いやだ、いやだ、いやだ!
「悟!」
目を、覚ます。心配そうな顔が覗きこんでいる。
「大丈夫?魘されていた」
いたわるように髪を、頬を撫でる手は温かい。骨ばった指が目尻を撫でて、そこで初めて泣いているのだと気づいた。
「―――変な、夢見た」
そう、奇妙な夢。奇妙で、恐ろしい夢だ。
けれど。
なぜだろう。相方の――傑の顔を見た瞬間、すべては忘れてしまった。
あれ、どんな夢だったっけ。
怖かった、ということだけはわかる。でも、内容は全然残っていなかった。
「大丈夫だよ」
筋トレを欠かさない、鍛え上げられた両腕が、強く、強く抱きしめてくれる。
「ただの夢だ」
◇
◆
わ、と湧き上がる声に、我に返る。
サングラス越しにもわかる眩い白い光の向こう側に、大勢の人間が座っている。歓声を上げる。拍手する。
一瞬嫌な過去が脳裏によぎるが、あのときと違って嫌な感じはしない。
というか。
――あれ、呪力が見えない。
サングラスをかけているので視える景色は暗いが、いつもの「サーモグラフィー」じゃない。そんなことは初めてで、戸惑う。
え、なにこれ。っていうか、ここどこ。
確か、任務と任務の間にできたわずかな時間で仮眠を取っていたはずだ。別に眠らなくてもいいのだが、唯一残った同級生に睨まれてしまうので、高専内の自室に一度戻った。随分久しぶりな気がする。今度掃除もしなきゃ、なんて考えながらベッドに横になって、それで。
どうしてこんなところに立っているのだろう。
こんなに強くなくてもいいだろうってくらい眩しいスポットライトから避けるように視線を下げて、自分が着ている服に首を傾げた。
ベッドに入ったとき、どうせまたすぐ出かけるからと着替えていなかった。
なのに今着ているのは――いつもの制服とはまるで違う、白いワイシャツ、黒のスーツ、黒のネクタイ。まるで葬式に行くかのような姿である。これで葬式行ったことないけど。
そもそもこんな堅苦しいスーツなんて持っていないのだ。七海じゃあるまいし。
一体これはどういうことかと悩んでいたら、横から肩を叩かれた。
「悟?なにしてんの」
つい最近聞いた、かつては誰よりも馴染んでいた、でもこの10年はまったくの疎遠だった声が、名前を呼んだ。
「――――傑」
たっぷり10秒は呼吸を忘れて、ようやくたったひとつの名前を吐き出す。
訝し気な顔をした「夏油傑」が、首を傾げた。
道を違えたときよりは大人びている。最期のときと、ちょうど同じくらいか。
けれど、目の前に立つ、ちょっとだけ背が低い男は、胡散臭い着物も袈裟も身に着けてはいなくて、長く伸びた髪もきっちり――それこそあの頃と同じように――お団子に纏めていた。そして、自分と同じ黒いスーツを着ていた。
「さ、行こう」
なくなったはずの右手が躊躇なく肘のあたりを引っ張って、揃ってスポットライトの中から抜け出す。
袖の暗闇に引っ込むまで、拍手は鳴り続けたままで、手はずっと触れたままだった。
「…なあ、これってどういう状況?お前、なんでここにいるの」
だってお前は。あのとき確かにこの手で。
「悟、本当にどうしたんだい」
具合でも悪いのかと、頬に、額にとやっぱり躊躇なく触れてくる。
本当に、意味がわからない。わからないのに、無性に泣きそうになる。年取ると涙もろくなるって本当かな。涙は、出ないけど。もう何年も、出せてないけど。
「これって、なに」
黒いネクタイを抓む。傑に瓜二つの男が困惑していることはわかったけれど、こっちも混乱しているので質問を止められない。
「なにって、衣装だろう?私たち祓ったれ本舗の」
「はら――なに?」
「祓ったれ本舗。今年で5年目のお笑い芸人だ。ふたりで決めた名前だろう?」
「は、」
お笑い芸人!?僕が?こいつと?
明かされた衝撃の事実にもちろん驚いて、そうしてそのあと――爆笑した。
だってそうだろう?
つい最近、殺し合いをしたんだよ。そんで実際に、殺した。この手で、とどめをさした。
そんな2人が、お笑い芸人!
ここでは相方らしい親友や、周囲の人間が困っていることは伝わってきたが、止まらなかった。笑って、笑って、そして―――抱きしめる。
おかしすぎる状況だけど。でも。
「またお前に、会えてよかった」
目を覚ますと、見慣れた天井がある。明かりを付けていない部屋の中は、横になったときとさほど変わっていない。まだ、夜明け前である。充電し忘れていたスマートフォンを確認すると、やっぱり1時間も経っていなかった。
目隠しを外して、周囲を見渡す。部屋に呪霊はいないが、世界には存在している。これが、当たり前の世界。居るべき場所。
大きくため息をついて、大の字に体を伸ばした。
「なんだ、夢かぁ」
そりゃそうだよね。でも――いい夢だった。
笑って、目を閉じる。あと少しで出発だけれど、今はもう少し、余韻に浸っていたかった。