【呪】棘<ひとり>
今日こそもうダメだと思った。死ぬんだと思った。
ちなみにそう思ったのは、今月に入ってから三度目である。まだ半分しか過ぎていないというのに。
今回の敵は、ヘドロである。手足が生えてて目があって、なんでも飲み込むめちゃくちゃ気色悪い呪霊だ。しかも、悪臭のおまけつき。任務のたびに「最悪」を更新している気がした。
臭いドロドロの手、らしきものが傑を捕えていた。配慮も遠慮もあるはずがないので、絞め殺さんばかりの力に正直かなりきつい。骨が何本かイった気がする。それでも踊り食いが好きなようで、決定的なトドメは刺さない。そうして本体の方へと近づいていき――隠れていた口が開かれた。
「っ、今だ!」
「わかってる!」
あと数センチで飲み込まれるというところで、隠れていた影が勢いよく飛び出してくる。指先から放たれた呪力が、的確に口の中に隠れていた急所を撃ち抜いた。
こんなヘドロでも、断末魔の悲鳴というものがあるらしく。聞くに堪えない声を上げて、ドロドロは一瞬で消え去った。自由になった体は、結構な高さから地面へ落ちる。流石に全身ダメージが大きくて、きっちり着地とはいかずに尻もちをついた。祓除に成功して上機嫌な親友には、受け止めてくれる優しさはない。
「ぃ、たた。まったく、私以外にこんなことしたら、死ぬよ」
というか、私だって今度は本当に死ぬかと思った。痛む胸や腕を摩る。帰ったらもう1人の同級生の元へ直行だ。
今回の祓除対象呪霊の急所が口の中にある、という情報だけは得ていた。急所を叩かなければ、他のどの部位を攻撃したってあっという間に再生してしまうことも。
問題はその口が隠れていてどこにあるかわからないこと。唯一現れるのは食事の時間――人間を喰らおうとする瞬間だけだった。
だから傑が、囮になった。単純な作戦である。
祓っちゃったか。ちょっと欲しかったな。ぼんやりと呟きながらしばらく立ち上がれそうにない傑に、差し出された大きな手のひら。その向こう側の整い過ぎた顔が、心底不思議そうに首を傾げる。
「お前以外に、するはずないじゃん」
そうして無邪気に綻んだ顔。
言葉に、詰まる。開いた口が、うまい言葉を紡ぐことができずに二酸化炭素だけを吐き出した。
入学したばかりの頃、この親友の単独行動による暴走がたびたび問題視されていた。担任に説教されることも多かった。
その度に、不満を隠そうとはしなかった。
「だってその方が早いじゃん。足手纏いなんかいらねぇよ」
腹の立つ言い方、しかし事実なので何も言えなかった。協調、とか連携、とか、そんなものは最初から存在していなかった。
御三家五条家の嫡男。数百年ぶりの奇跡の存在。仕方がないのだろうと、こちらが折れるしかないのだろうと諦めていた、のに。
「傑?なにそんなにやばい?」
いつまでも動かない傑に、途端に不安げな顔に変わる。幼い、子供の顔だ。
「大丈夫。どうってことないさ」
笑って、手を重ねる。すぐに遠慮のない力が、引っ張り起こした。あちこちに走った痛みは、すべて飲み込む。痛い、辛いと、口に出してはいけないと、そう思った。
どんどん膨らんでいく呪霊に、ため息をつく。図体の割には、呪力はそれほど大きくない。ただでかければでかいほど強く見えるもので、背後で悲鳴が上がった。
仕方がない。私がやらなければ。私が、家族を守らなければ。
「夏油様!」
一歩踏み出すと、不安げな声が呼ぶ。大丈夫だと伝えたくて、振り返ってにっこり笑う。
「ここは私に任せて、みんなは先に戻ってなさい」
「で、でも」
「大丈夫だから、ね」
私の実力は知っているだろう?落ち着いた声で重ねて言えば、家族たちはホッとした顔を見せる。
「で、では、下で待ってますから!」
「うん。すぐに片付けるよ」
バタバタと、忙しなく逃げていく気配にホッと息をつく。
これで、何も気にせず思う存分暴れられる。
私は、家族たちを信頼している。けれどこの瞬間は――敵と相対するときは、ひとりが心地よかった。
あの日からずっと。
たぶん、これからも。
<コンビニスイーツ>
以前なら、素通りしていた。気にすることもなかった。単純に、好きでも嫌いでもない、興味がなかったからである。
自動ドアをくぐると、いらっしゃいませ、という機械的な声がかかる。レジにいたのは初めて見る若い男で、いつものおばちゃんはどうやら休みのようだった。
今日はやめといた方がいいかも。
仕方なく、アルコールコーナーを素通りしてコーラと茶のペットボトルを籠に放り込んだ。
都心から離れた辺鄙な村のさらに奥にある学校に在学する身となれば、徒歩で買い物に行ける場所も限られている。このコンビニもそのひとつだ。何度も訪ねていれば、店員とも自然と顔馴染みになる。客の大半は学校関係者なのだと、1番顔を合わせるおばちゃんは言っていた。
いけないことだとわかっていながら、ときどき籠に紛れ込ませるアルコール缶に目を瞑ってくれる、とてもありがたい存在だ。
でも、今日はなし。今日はハズレ。そういう日もある。
菓子コーナーでスナック菓子を適当に選んで、レジに向かおうとして――途中で思い出してまた方向転換する。
目的は、デザートコーナーだ。コンビニオリジナルのケーキやらプリンやらが並んでいる場所。以前は、見向きもしなかった。
「やっぱりあった」
補充される前なのか、数はさほど多くはない。プリンが1つとロールケーキが2つ、チョコ入りクレープ、シュークリームにエクレア。その半分に、値引シールが貼ってあった。
何度も通っているうちに、この時間帯に来ると高確率で値引シールに遭遇するとわかっていた。
さすがに全部は無理なので、ロールケーキとシュークリームを籠に入れる。もちろん、値引シール付きのやつだ。安売りしてたから、なんて口実は必要ないとわかっているのだけど。
これでようやく、会計だ。
ありがとうございましたー。相変わらず機械的な挨拶に送られて、外に出る。空は赤く染まっていた。片道徒歩数十分、歩いている途中で陽が沈むことは確実である。
途中まで、呪霊使っちゃダメかな。
歩く体力は十二分に残っているが、早く帰りたかった。今日は午前の任務だけだと言っていたが、貴重な一級術師、突然呼び出されることもある。そうして数日戻らないことも珍しくはない。おかげでこの前買っていったプリンは、結局自分で食べる羽目になった。
値引シールが貼ってあるってことは、期限が早いってことだ。わかっているのに、性懲りも無くまた買ってしまった。
どうか寮にいますように。早足になりながら、やっぱり呪霊を使ってしまおうかと考え始めていたときだ。すぐ横で、黒塗りのセダンが停まる。見慣れた、高専専用車である。
「傑!今帰り?」
開いた窓から顔を出したのは、今まさに頭を占めていた親友だった。聞けば急遽任務が入って、今帰りなのだという。
なんというラッキー。誘われるままに、空いていた隣へ乗り込んだ。
「何買ったん?」
聞きながら、答える前に勝手に袋の中を漁り始める。1番上に入っているのは。
「シュークリーム!あ、ロールケーキもある」
キラキラと、期待に満ちた目がこちらを見るので、思わず笑ってしまった。
「安くなってたから、君も食べると思って」
「さっすが傑!な、今食っていい?あ、お前どっち?」
右手にシュークリーム、左手にロールケーキ。真正面には輝かんばかりの笑顔。
真ん中がいいな、とはさすがに言えず。
「どっちも食べていいよ。でも帰ってごはん食べてからにしな」
「別にいいだろ、ハラヘッタんだって」
正論はいらねぇ。舌を出した。注意したって聞かないのはいつものことである。
袋を開けて、100円もしないシュークリームに食らいついた五条家の坊ちゃんは、この上もなく幸せそうに笑うので、ついついまた次も買ってこようと思ってしまうのだ。
小さな頭が、揃って同じ場所を見ている。視線の先には、ずらりと並んだ様々なデザート。数年前より確実に、多種多様になった。
その中でも、ほとんど変わらないものもある。例えば、大きなシュークリームとか。真っ白なロールケーキとか。
「1つだけなら、いいよ」
両手でひとつずつ頭を撫でて言うと、片方は朗らかに、片方は控えめに笑う。双子なのに、性格は対照的だった。
何にしようかと悩む姿に苦笑しながら――過去に思いを馳せる。
今でもときどき、この場所で足を止めることがある。もう必要ないのに。
何を買っていっても喜んでいたあの笑顔は、今は遠い。
「私、これ!」
「わ、わたしはこっち」
飲み物しか入っていない籠に、シュークリームとロールケーキが追加される。割引シールは、まだ貼られていない。そんなことを気にする必要もなくなった。
今もまだ、好んで食べているのだろうか。不意に過ぎった顔に首を振って、双子を連れ、レジへ向かった。
<花>
わからないことがあると、悟はまず私に聞いた。些細な、私にとってはくだらないと思うようなことまでも、だ。
そして私は、そんなちゃちで馬鹿げた質問にも、全て答えようと努力した。それまで学んだ知識を総動員して。それで無理ならケータイで調べて、必ず答えを見つけ出し、教えてやる。
人に聞く前に自分で調べな、と初めの頃は跳ね返したものだったが、いつしかすんなりと受け入れるようになった。
あれなに、これなに、どうすればいいの?まるで子供のように尋ねてくる悟に抱いた感情には、長らく名前を付けられずにいる。
悟はバカではない。御三家の嫡男だけあって、呪いや呪術界隈に関する知識はずば抜けている。頭の回転だって早い。調べたことはないそうだが、IQはかなり高いはずだ。
ただ、脳みそが特殊な知識だけに使われているせいで、およそ一般的には常識と呼ばれる事柄が抜けているのである。
けれどそのことを恥じることなく、純粋とも言える眼差しで私を見つめ、戸惑うことなく聞いてくるのだ。スラスラ答えると目を輝かせて喜び、言う。
「さっすが傑!」
その言葉が嬉しくて、結果わからないことも調べるようになり、私自身の知識も増えていった。
喜ぶ顔を見ると嬉しい。単純で、幼稚な動機である。大人ぶっても、私もまだ子供だった。
ある日のこと。私はひとりで任務に出ていて、自分勝手なことばかりぶつけてくる非術師への苛立ちが日に日に募っていたときだ。
その日もイライラとモヤモヤと大量に抱えながら、なんとか任務を終えた。あとひと押しで取り返しのつかないことをしでかすかもしれないと、どこか冷えた頭で考えていたときだ。
携帯電話が、メールの着信を知らせた。
送信者は、五条悟。
確か任務でまったくの逆方向に出張中だったはずで、なにかあったのだろうかという懸念は、一瞬で消え去った。
『見たことない花咲いてた。これなに?』
メールには写真が添付されていて、小さな紫色の花がいくつか写っていた。
思いっきり脱力した。同時に思わず笑ってしまった。笑って、呆れて、そうしてその花について調べた。検索サイトは便利だ。大抵はすぐに答えを与えてくれる。そのときもすぐに名前がわかって、そのままメールで答えた。返事はすぐに届いた。
『すげぇ小さいな。高専にもあるかな』
再び添付された写真には、満面の笑顔と頬に添えられた小さな花。
また、笑みが溢れる。引き攣った、乾いた笑い。
そうだね、調べたらどこにでも生えているらしいから、あるかもしれない。これまで気づかなかっただけで。気にも止めなかっただけで。きっとそんな草花、たくさんあるんだろう。
ところで君も任務なんじゃないのかい。もう終わったの?気にかけるほどの内容じゃなかったのかな。
私は、私の方はね、それはもう最悪で――
指先が、止まる。頭の中でぐるぐる回る文章。それらすべてを飲み込んで、悩んだ末に、説教を一言だけ。
『可哀想だから、なんでもかんでも摘むんじゃないよ』
「夏油さま、小さなお花」
美々子が、指を刺す。菜々子も、興味津々で見つめる。勢いよく生えている雑草に隠れるように咲いている、小さな小さな紫の花。
「ああその花はね」
一度調べたことは案外忘れないもので、おかげであの頃調べまくった知識は、今でも頭の中にしっかりと残っている。
「すごい」
「夏油さまは、なんでも知ってますね」
キラキラと輝く目が2対、私を見つめる。懐かしさを感じる色だ。
「ふふ、ありがとう」
実はね昔、なんでも答えてやりたくて、喜ぶ顔が見たくて、頑張ってたくさん調べたんだよ。
今はきっと――もうひとりでなんでも解決できるんだろうけれど。
<裸足>
濡れた感触が不快だった。屈んで、すっかり汚れてしまった靴下を脱ぐ。右足、そして左足。2つまとめて、横へ放り投げる。
まったく、こんなところに脱ぎ捨てて。籠に入れてって言ってるでしょ。怒ったような呆れたような、喧しい声は聞こえてこない。何度も何度も投げつけられたのに、声色はすでに記憶から抜け落ちていた。
自宅では、もっぱら裸足でいるのが好きだった。帰宅して、脱ぎ捨てたときの一種の開放感。冬の寒い日は冷え切ってしまうが、履いたままでは落ち着かないのである。
――そういえば彼は、逆だったな。
屋敷で過ごすときは大抵、着物に足袋だったと言っていた。物心ついたときからそれが当たり前だったので、疑問にも思わなかったのだと。
服は、一種の武装である。ほんの数ミリの布でも、素っ裸でいるよりは小さな石ころ程度の攻撃を防げる。
もっとも彼は、素っ裸でいても、どんな鎧よりも強固な術式(バリア)があるのだけど。
――ああでも、高専に来てからは、裸足でいることも多くなってた。
裸足のまま部屋に押しかけてきて、勝手に冷蔵庫の中を漁って、いつ落としたかわからない、石化した米粒の塊を踏んづけて、痛いと文句を言っていた。
全てを弾く力がある男が、硬い米粒に悶える姿があまりに面白くて、爆笑して、さらに怒らせたっけ。それこそ、布1枚で防げた悲劇である。
そんなことがあっても、彼は私の真似をして、大抵裸足でいた。術式を使うこともなかった。
だから私は、前以上に、とりあえず最低限通りそうな場所は掃除をこまめにやったのだ。そんな気遣い、彼はまったく気づかなかった。
――ああ、懐かしいな。
ほんの1年くらい前のことなのに、随分と昔のことのように感じる。
なぜだろうか。
昨日まではまったく考えていなかった、忘れかけていた記憶が、今、このときに浮かぶのは。
足の裏に感じた痛みに、歩みを止める。視線を向ければ、粉々に割れた皿と、乗せられていたのだろう原型をとどめていない食い物だったモノが散らばっていた。
皮膚は確実に傷ついた。血が流れているかもしれない。
けれどここでは、ほんのわずかな血が流れたところで、わかりはしない。穢らわしい猿の血と混じってしまったことは、不愉快だけど。
気にせずに、そのまま歩く。痛みを感じる。ちくり、ちくり。どうでもいいと思う程度の痛みだ。
倒れた、ふたつの椅子。
座っていた「猿」はすでに、呪霊の腹の中である。
わざわざ殺しに赴くのは、界隈に利用されることを防ぐためなのかとか、拷問を回避する温情かとか、皆好き勝手に推測していたけれど、どれも違う。でも、明確な理由は形にならなくて、ただ喰われる光景を見つめていた。
特別浮かんだ感情はなかった。きっとそれが答えなのだろう。
ちくり、ぐしゃり、べちゃり。もはや何を踏んづけているのかわからない。
わかるのは、確実に私の足の裏は傷つき、汚れているということだけ。
――きっと今の彼ならば、もう米粒で悶えることもないのだろうと、そんなことを考えた。