愛しき貴方の延命措置 深夜。冷えた空気にぶるりと体を震わせ、上着を着て来れば良かったと小さな後悔をする。陽が出ていた頃の、少し汗ばむ程には暖かかった筈の気温は一変し、肌を差すような冷たい空気が街を包み込んだ。名も知らない虫が大合唱する公園の隣を抜けて、俺は24時間営業のスーパーへ足を運んだ。
安っぽく単調な店内のBGMが店内に鳴り響く。一説によれば購買意欲を煽る為のBGMらしい。そのせいでいらないものまで買ってしまい山本さんに怒られる事はよくある事である。
買い物籠を手にとって、LINEに送られてきた「今日の買ってくるものリスト」を確認する。白菜、玉ねぎ、人参に茄子、塊肉。あと、味の素と白だし、少なくなってきたルイボスティーの茶葉。
淡々とリストの物を籠に放り込んでいくその途中、あるものが目に入った。
5割引の白玉粉。
そういえば今日は十月。10月といえば満月。満月と言えば月見団子だ。昔給食に出た月見団子、美味しかったな、なんて俺の脳は考え始める。食べたいな、月見団子。呼び込みくんが、さぁこの白玉粉を買えと俺を煽る。
いかん。山本さんに無許可でいらないものを買えば、またおかずが全て豆腐入りになる。それだけは避けなくては。
そう思った俺は、LINEで山本さんに電話する事にした。コール音が数度鳴る。
ブツ、と電話に出る音が聞こえた。
『……も、しもし?』
少し震えた掠れ気味の声が電話口から聞こえた。
「山本さん、月見団子作りませんか?」
手短にすませたいので、要件だけ述べる。暫くの沈黙の後、電話の向こうで呆れたと言わんばかりのため息が聞こえた。
『……これまた突拍子もない事を。で、なんで月見団子なの。』
「白玉粉が安くて。それに、今日は満月ですし。」
『……。』
また、沈黙。
「山本さん?」
これはもしかして寝起きで機嫌が悪いパターンだろうか。だとしたら申し訳が無い。そう思い、手に取った白玉粉を戻そうとしたところ、返答があった。
『……うん……うん、そうだね。帰ったら、一緒に作ろう。』
意外にも肯定的だった山本さんの反応に、俺は少し戸惑った。いつもなら真っ先に否定の言葉が飛んでくるのに。
「え、良いんですか?」
『……逆になんで駄目だと思ったの。』
少し笑い混じりに紡がれる言葉。
「じゃあ、帰ったら一緒に作りましょうね!」
『……はいはい。分かったよ。それじゃ早く帰ってきてね。』
「はい!」
元気良く返事をして、俺は電話を切った。そして白玉粉を籠の中に入れてレジへと向かった。
山本さんと月見団子を作れるなんて事でも、子供みたいに喜んでしまうのが俺なのである。若干スキップをしながらスーパーを後にした。
外はやはり冷えていた。先程まで少し暖かい場所にいた為、冷たさが際立ってしまい、小さくくしゃみが出た。空の月は、相も変わらず青白い月が冷たい光を放っている。
これは個人の感想だが、山本さんは月のような人だなと時々思う。山本さんの肌は白い。暗闇で少しの光を反射して、ぼぉっと光っていることがたまにあるのだ。彼の出所後、初めて会った時もそうだった。暗闇に溶け込んでしまいそうなほどか細い光をはなっている姿を見て、恨みや怒りよりも先に、綺麗という感想が脳に浮かんだことをよく覚えている。
そんな事を考えているうちに、自室へ辿り着いた。
「ただいま!」
そう部屋の中に向かって叫ぶが、返事が返ってこない。きっと寝ているのだろう。
靴を揃え、手を洗う。それから、キッチンで弁当の空箱を食洗機にセットするのも忘れずに。基本的な風呂掃除とか食事の用意、洗濯等は山本さんはしてくれている。その代わり俺は自分でできるゴミ出しや、買い出しとか、簡単な家事は自分でやっている。そうしないければ小言を言ってくるのだ。今朝は燃えるゴミの日にも関わらず、ゴミ出しを忘れかけていたので、ネチネチと小言を言われる事になった。
食洗機を開ける。中には山本さんの箸が一本だけ入っていた。食事に使う皿も器もコップも、入っていなかった。入れ忘れたのだろうか。食洗機の中に箸と弁当箱を立て掛け、洗剤を入れ、スイッチを入れようとして、ふと思い留まる。今日は団子を作って食べるのだ。まず団子を作る時点で汚れる物が出てくる。そして団子を食べるための食器も汚れる。食洗機を回すのは、団子を食べた後でも良いはずだ。そもそも食洗機は一度に大量の食器を洗う為の物だ。こんな少量の食器を洗うために回してしまえば逆に水が勿体無い。この食洗機を買った理由だって、山本さんの負担を減らす為なのだ。そう考えて、食洗機を閉め、リビングへと向かった。
部屋の中は、薄暗かった。オレンジ色の常夜灯の光がぼんやりと部屋の中を照らし出しているだけ。夕暮れ時とは違うその光を見て、ふと、深海魚の水槽を思い出した。赤色のライトで照らされた水槽で、深海魚が悠々と泳いでいる様子を。深海には、赤い光は届かないらしい。だから深海魚を刺激せず、負担にならないのだ、とどこかのテレビでやっていた。目に負担がかからないこの睡眠に適した明るさは、良いとは思う。しかし、あまりにも暗いので手探りに電気のスイッチを探した。
パチンという音と共に、人工的な光が煌々と部屋を照らし出す。
その光の中。ソファにもたれかかるようにして、山本さんがすぅすぅ、と寝息を立てていた。手には何かの詩集が握られている。最近山本さんはこの本がお気に入りだ。確か、作者は中原中也だっただろうか。前に読んでいたのはエドガー・アラン・ポーの詩集だった。一度だけ俺も読んでみたが、数ページ捲った所でその抽象的で難解な内容に圧倒され、その場で静かに本を閉じ、二度と詩集は読むまいと決意したのであった。むしろ俺は漫画やアニメなど、そういった分かりやすいものの方が好きだ。
そんな事を考えながら寝顔をのぞきこむ。すぅ、すぅ、と寝息を立てる様子は、あどけない子供のようだ。閉じ合わせた睫毛は意外にも長く、時折ピク、と動いている。呼吸は長く、深く寝ている時のものだった。
これは起こさない方が良いな。ゆっくり寝かせてあげよう。
そう思って、柔い髪を梳かすように、そっと頭を一撫でした。
瞬間。
「っ!!」
山本さんの身体が跳ね、俺の手を強くはらいのけた。勢いよく上体を起こした後、ぜー、はーと肩で息をして辺りを見回す。自分の身体を両腕で抱きしめるようにしてうずくまって何やらブツブツと呟いている。小さく聞こえるのは謝罪の言葉で。
「……山本さん。」
丸められた背中に手を添えれば、カヒュ、と息が漏れたような音が出る。ひどく怯えたような目が此方を向いて││そこで、ようやく山本さんは俺の存在に気付いたようだった。
「あ、すいません。起こしちゃいましたか?」
「……ぁ……っ……ごめん、俺……寝ちゃって、た……。」
「寝てても良かったのに。」
俺が少し笑い混じりにそう言えば、緊張が解けたのか、強張っていた肩から力が抜ける。
「無理して起きなくても良いんですよ。月見団子は明日作れますし。」
「無理なんかしてないよ。それに、俺小腹空いてるから、丁度良いし。」
手に持った読みかけの詩集を閉じて、山本さんは立ち上がった。ふと疑問に思った。
「……その詩集、好きなんですか?」
「……あ、これ?うん。読んでたら気が紛れるからさ。」
本棚には、山本さんがよく読んでいる本が詰まっている。長い指が本を滑り、ストン、と本と本の隙間へと詩集がしまわれ、本棚の一部へと化す。その仕草が少し色っぽいと思ってしまうのは、きっと重症なのだろう。
「……手洗いは?」
「しました!!」
「じゃあ、作ろうか。」
引き出しから小鍋を取り出し、IHへとセットする。
「月見団子の作り方、調べたんだけどさ。」
「はい。」
「普通は米粉を使うみたいなんだよね。白玉粉じゃなくて。」
「へぇ……。白玉粉でも大丈夫なんですかね?」
「大丈夫だったよ。白玉って団子に含まれるんだね。初めて知ったよ俺。」
フライパンを取り出しながら山本さんは楽しげにそう言った。
「穀物を練って丸めてから、蒸したり茹でたりしたのは全部団子で、白玉は白玉粉を使って作った団子なんだって。」
「そうなんですか。」
「あとね、月見団子って材料に豆腐が入ってるんだね。」
「そ……う、なん、ですか?」
「豆腐がなかったら作れないんだよ、月見団子。」
思わず顔を顰める。豆腐。豆腐か。しかし今日は珍しく山本さんが色々と乗り気な日なのだ。気合いを入れて食べなければ。そんな事を考えている俺を見て、山本さんがくつくつと笑い出した。
「冗談だって、大丈夫。そんな顔しないで。豆腐なくても月見団子作れるから。」
ほら、と山本さんはスマホの画面を見せてきた。確かにそのレシピの材料の欄にあの豆腐の2文字は無い。
「良かった……。」
ほっと胸を撫で下ろせばまた山本さんが可笑そうに笑った。しょうがないだろう。豆腐はなにをどうしたって結局豆腐である。前回の豆腐ハンバーグで身に染みた。
「じゃあ、作ろうか。」
キッチンに入ると、ボウルや鍋等の料理道具が並べられていた。これも山本さんが用意したのだろう。
「……
「まず白玉粉百グラム入れて。」
「はい。」
言われた通り、白玉粉を計量ばかりの上に乗ったボウルに入れる。サラ、と音が立ち、はかりの数値が増えていく。白玉粉って思ったよりも粒が大きいんだな、なんて思いながら最後の0・1グラムを入れた。
「はい。次水百ミリリットル入れて。ダマにならないようにね。」
少しずつ分けて水を注げば白玉粉に水が吸われていく。
「で、混ぜて。」
「手で、混ぜるんですか?」
「そうだけど?」
そういう山本さんは既に俺とは別の作業に移っている。白玉を茹でる為、鍋のお湯を沸かしているようだ。だがそれとは別にフライパンを取り出し、片栗粉と砂糖と醤油をかき混ぜ始めた。甘い匂いがする。
「なんですかそれ。」
「みたらしだよ。このままじゃ味なし団子を食べる事になっちゃうから。」
「へぇ……。」
みたらし団子、食べるのはいつぶりだろうか。山本さんも、みたらし団子を食べた事があるのだろうか。山本さんなら、スーパーの安売りのみたらし団子に文句言ってるんだろうな。そんな事を考えながら白玉粉を練っていくと、最初は手に纏わりついていた生地がだんだんとまとまってきて、ボウルにくっつかない程度になってきた。しかし、どこまで捏ねれば良いのだろう。
「あの。」
「ごめん、俺今みたらし作ってるから。自分でレシピ見て。」
スマホを確認すると、レシピには耳たぶくらいの柔らかさになったら茹でて良いと書いてある。耳たぶくらいの柔らかさとは、一体どのくらいなのだろうか。
ふと、山本さんの横顔が視界に入った。髪の隙間から少し覗く形の良い耳は、小ぶりながらも捏ねるにはちょうど良さげな耳たぶがついている。
手を伸ばす。柔らかい感触。そのまま耳たぶを軽く捏ねれば、ビク、山本さんの体が跳ねた。なるほどこのくらいの柔らかさなのか、と確かめているうちに少しだけ悪戯心が湧いた。
「っ」
情けない声を出して、山本さんは菜箸から手を離した。カラ、と音を立てて、菜箸がフライパンから落ちかける││が、すんでのところで再び山本さんは菜箸をキャッチした。
ふぅ、と一息ついてから、彼は言った。
「……確かに、耳たぶくらいの柔らかさって表現が分からないのは、俺も同意見だよ。それで、実際に試してみようってなるのも、分かる。でもさ、料理中に、それもみたらし作ってる最中の人の耳たぶをつねるのはやめて。マジで。」
「ハイ……」
全くもって正論である。斜め四十五度の角度で頭を下げれば、
とりあえず、おおよその柔らかさが分かった。もう三回程捏ねれば大丈夫だろう。
両の手のひらを使い、生地をちぎり、大体半径一センチ程に丸める。そして、中央を軽く窪ませる。こうすると芯の方に火が通りやすくなり、茹で上がりが均一になるらしい。そうした作業を何回か繰り返せば、あとはもう茹でるだけだ。
既にお湯は沸騰しているので、その中に丸めた生地を、湯が跳ねないようそっと入れる。湯がはねると火傷してしまうかもしれないから、出来る限り慎重に作業を繰り返した。その様子を、山本さんが微笑みを浮かべながら、こちらを見ている。どうやら、みたらしはもう作り終えたらしい。
「……なんですか?」
「……なんでもないよ。それより、あとどれくらいで煮えるのか気になって、ね。」
山本さんの視線が鍋の方へ逸れる。白玉は、湯の底に沈んでいた。レシピによると、火が通れば浮いてくるらしい。原理はよく分からない。
「茹でてる間に、それ捨てて来たら?白玉は俺が見ておくから。」
それ、と指刺されたのは、空っぽになった白玉の袋だ。
俺は袋を捨てようとゴミ箱の蓋を開けた。中には空になった即席麺が一個と、その他のゴミが乱雑に││ゴミ箱だから当たり前なのだが││捨ててあった。ゴミ出しをした後だからか、ゴミの量は底のビニールが見える程少ない。その一番上に、もやい結びの綿ロープがあった。
くつくつ、と泡が弾ける音がする。
「今井くん、白玉浮いてきたよ。」
山本さんの声で我に返った。跳ねた心臓を抑えて、なんでもないような顔をして、空になった白玉の袋を中に放り込んで、俺は再び鍋の前へと向かう。鍋を覗き込めば、気化した水蒸気の泡に揺られて、無数の白玉が湯の表面に浮いていた。
「浮いてますね、白玉。」
「生地の中で水が水蒸気になって、生地の密度がお湯よりも小さくなるから浮くんだって。」
少し得意げになって山本さんが俺に教えてきた。なるほどそんな原理だったのか、と感心すると同時に疑問が湧いてくる。
「何でそんなに色んな事を知ってるんですか?」
「家事が終わると暇だからさ、色々調べるんだよ。そうしたら、気も紛れるし。」
そうなんですか、と言おうとした所でピー、と茹で時間の終了を知らせる音がIHから鳴った。
「ボウルに水入れて。」
「あ、はい。」
水栓を開けて、ボウルの中に水を半分ほど入れる。その後、穴あき杓子で白玉を水の中に入れて、しばらく冷ます。出来た白玉の数は十五個だ。それから、冷ました白玉を平たい皿に、3段に分けて積み上げる事にした。下段が九個で、中段が四個、上段が二個。お月見と言われればすぐに思い浮かぶ、あの月見団子の山だ。
「……これ、積む必要ある?」
中段の右後ろの白玉を積み上げながら、ボソ、と山本さんが呟く。
「まぁまぁ、必要性よりも雰囲気を重視しましょうよ、今日は。」
「それ、必要性無いって言ってるのと同じだけど。」
そう言いながらも並べるのを辞めない辺り、なんだかんだ楽しんでいるのだろう。一緒に料理してくれるだけでも結構嬉しいのに、文句を言いつつも色々付き合ってくれる。
「……楽しいですか?」
「……結構、ね。」
「良かったです。」
白玉を並べ終えると、先程山本さんが作ってくれたみたらしを小鉢に入れて、完成だ。本当はみたらしを白玉の上にかけた方が食べる時手っ取り早いのだがあくまでもこれは月見団子なので今回はやめておいた。
くぅ、と腹の虫が鳴る。しかし、俺は既に職場で弁当を食べていた。小腹は空いているものの、腹の虫が鳴る程では無い。一つ、思い当たる事があった。
「……山本さん。」
「なぁに。」
山本さんの真っ黒な目が此方を向く。あのゴミ箱の中にあった物。
「晩ご飯、ちゃんとしたの食べた方が良いですよ。カップ麺とかじゃなくて。量少ないかた、お腹すいちゃいますし。」
そう言うと、山本さんは笑った。
「ごめん。でも、自分のための食事ってなると、どうも面倒くさくなっちゃって。」
「……気持ちは、分かりますけど。でも、山本さん昼ご飯食べてなかったですよね。」
「それは、どうしても食欲が出なくてね。」
困ったように眉を下げながら笑う山本さんを見て、何か言わなければと思った。昨日だって、ろくにご飯も食べる事が出来ていなかったのに。
「明日からは食べるよ。」
そう言われてしまえば、俺は何も言えない。
「……分かりましたよ。とりあえず白玉食べましょう。」
「うん。」
頂きます、と手を合わせ、爪楊枝で白玉を突き刺した。それから、みたらしを白玉につけて口に運ぶ。もちっとした食感が口に広がって、少し甘ったるいタレが絡みついてくる。
「美味しいね。」
山本さんの表情が綻ぶ。それを確認してから、俺は白玉を口に運んだ。
「餡子も作っておけば良かったかな。俺はあんまり甘すぎるのは苦手だけど、ココアパウダーとかも合うだろうし。」
「また来週の土日辺りに作りましょうか。」
「……うん。そうしようか。
二人でゆっくり、一つずつ白玉を食べる。窓から見える月は相変わらず青白い。流れる雲はゆっくりと空を滑っていく。
「……綺麗ですね、月。」
「……そうだね。」
山本さんの白い肌に、月明かりが反射している。それがやけに神秘的に見えた。来年もお月見しましょう、と言いかけて「来年の事を言えば鬼が笑う」という言葉を思い出す。そんな先の事を彼に伝えても、きっとまた困ったように笑うだけなのだろう。
また、来年もこんな日が過ごせますようにと願いながら最後の白玉を口に放り込んだ。