臨終 鈴を振るような虫の声が遠くに聞こえ、涼しげに吹く風が夏の終わりを告げていく。森の奥深く、木々から覗く月明かりが美しい、この時期には珍しく冷えた夜だった。
「くれぐれもお酒はほどほどにしてくださいね」
「浮気は、ちょっとくらいなら許しますから」
目の前にいる師の沈黙を前に、しょうがないなあ、と穏やかな口調でその弟子は男の頬を撫でる。まるで叱られた子をあやすように。ペールピンクの手の皺は出会った時にはひとつも刻まれて無かったのに、共に過ごした年月がかくも残酷であることを思い知らされる。
かの弟子は、ほんのひと月前に人生を賭けた大仕事を終えたあと、工房で血を吐いて倒れ、そのまま病の床につくこととなった。ここ数日はずっと寝台から立ち上がることすらままならず、静かに横になっている。
その傍ら、ロン・ベルクは組んだ両手を額に、ずっと俯いたまま沈黙していた。蒼い肌の顔色はうっすらとほの白く、彫りの深い顔にある鋭い目の下には酷い憔悴の色が刻まれている。
ノヴァの容体はランカークスにある人間の医者にも見せたが、結局原因はよくわからないままであった。魔法が発達したこの世界では、怪我が殆どの魔法で治せるお蔭で医療技術は極端に低い。せいぜい呪(まじな)い絡みの薬草がある程度だ。人間の扱う鉱物とは違うものを長年扱ってるせいだろう。鍛冶屋にはたまにそんな病の患者がいるとのことだった。病気そのものよりも年齢や今までの肉体の酷使から来ているとのことで、ただの医者にできることなど殆ど無く、彼の灯火が冬まで持つかは本人次第とのことであった。
そんな絶望的な状況をよそに、ノヴァはロンの隣で小言のような話をする。やれ酒を控えろだの浮気は少しくらいなら許してやると。よく言う、オレがお前以外の人間を抱いたことなどあるとでも?反論をしたい気はあったが、口を開くと腹の中の絶望がいっぺんにまろび出そうでとてもそんな気にはなれなかった。
沈黙をどう受け取ったのかノヴァはなおも続ける。
「先生、わかりました?私の…いや、ボクの声、まだ聞こえてます?」
返事はなく、少しだけ空気が震えたような錯覚がして、しばらくすると微かに鼻を啜る音だけが部屋に響く。
「いやだなあ先生、意外と泣きむし?そんな声、出さないでくださいよ」
そう言われてロンは自分の頬が濡れていたことに気づいた。はっとしてノヴァの顔を見ると、彼も眉根を寄せて申し訳なさそうに苦笑する。
「そうですね、ごめんなさい。ボクもう、あなたの腕になれないや」
ノヴァは努めて明るくなるよう昔の口調で声を出した。そう、師と初めて会った時のような。今と違って少し高い、少年の声はもう出せないけれど。
堪らずロンは立ち上がり、床に伏した弟子の枕元へ縋り付いた。どうしようもない、それでも込み上げる感情を止められずぶつけてしまう。
「もういい、もういいんだ!そんなもの無くったっていい、腕だってもうこの通りだ!オレは坊やが生きてさえいればいいんだ!頼む、死ぬな…っ!」
弟子になってこのかた、ほとんど目にすることのなかった師の、酷く狼狽する姿を前に、ノヴァはぽつりと呟く。
「もう、坊やじゃないからなあ」
自分にこんな日が来ることはわかっていた。そしてその時が避けられないことも。でもそれは師匠だって同じだと思っていた。自分はこの人よりそれがほんの少し早くなるだけ。それでも彼は自分の存在を惜しんでくれている。ああ、なんてやさしいひと。ノヴァはその事実だけで胸に水が染み込むように癒されていく。きっとこれからも。
「先生、人間ってすぐ死んじゃうんです。しょうがない生き物ですよね、でもけして弱くはないんですよ。ボクはいなくなるけどあの剣はずっと残る」
ロンは千々になりそうな感情を必死になって繋ぎ止める。こんな日がくることはわかっている。そうだ、知っていた。だが足りなかったんだ。この種族の命が自分たち魔族より、うんと短いこと、確かに知識では知っていた。周りの人間もそうだった。かつての優しかった武器屋の夫婦もそうであったように。正しく理解していたつもりであった。しかしロンは彼と過ごすことでこの種の「儚さ」を忘れていた。寿命でなくても怪我でも病気でも人間は死ぬ。
それこそ、たった数十年、こんな剣(つるぎ)をひとつ拵えるだけで。
知っていて、それでもそんなことはまだまだ先だと思っていた。いや、思い込もうとしていたのか。
工房には重厚な輝きを持つ一対の剣が置いてあった。ノヴァが倒れる前に打った最後の剣だ。魔力こそ込められていないが、それはロン・ベルクがあのロロイの戦いの際に振るった双剣そのものであった。
「貴方だけの星皇剣。貴方を傷つけるもの全て切り裂く最強のつるぎ。今度こそ貴方の腕を誰にも壊させない。それがたとえ貴方自身でも」
「だから、最後の魔力は先生がいれてください。そうしたらきっと、この世界で最強の剣になる」
「そうしたら」
ひとつ呼吸おいてノヴァが応える。緩やかに伸びた手がロンの背中に回った。ロンの額にノヴァは掠めるようにくちづけを落とす。キラキラとしたかつての少年のような満面の微笑みで。よく顔を見なければと思うのに、もうロンには次々と湧き上がってくる涙の膜を抑えられない。ただその痩躯を力いっぱい抱きしめた。
「もう離れない。ええ、二度と、離れませんとも」
しっかりとした声だった。
「この剣は、あなたのために打ったんだから。それこそ今度こそほんとうに、ボクが命を吹き込んだんだから。ずっと、ずうっとそばにいますよ。ボクはこの剣になってあなたを見守っていますから」
そこまで一息に言うと、息が上がったのか大きく息を吐くとノヴァの体はゆっくりと寝台に沈み込んだ。
せんせい、お慕いしてます。
最後に耳元で小さく、小さくそう呟いたきり、弟子はもう二度と目を覚まさなかった。