【森】鍛冶屋師弟お題 冬の風は心地良い。森の木々が次々とさざなみのように音を奏でる。自分と弟子以外に誰もいないランカークスの深い森。この森で過ごすのももう何年になるだろう。深く息を吸い込むと、外気の冷たさはあるものの、ぴりりと気が引き締まる。
腕の傷にはそう良くは無いのだろうが、今年は思いの外雪も少なく、包帯だらけの体にはこのくらいの冷たさが自分に合うとロンは思った。坊やは朝早くから村に買い出しに出ていった。自分の昼飯を作りおいてくれたので、おそらく日暮れには戻るだろう。
そんな中、ロンは久しぶりにゆったりと時間が溶けていく昼下がりを満喫している。そういえばあの坊やが弟子入りするようになってから、朝起きて夜眠るという習慣がすっかりついてしまっていた。昔は酒を飲んで次に起きたら数日経っていたなど、珍しくもなかったのに。庭に出してある椅子に腰掛けてしばらくすると我知らずロンのこうべはうとうとと船を漕ぎ出していた。
「オイオイ、そんな所でうたた寝してると風邪ひいちまうぞ」
突然頭から声が降ってくるとそこにはランカークスの武器屋の主人、ジャンクが立っていた。最近は弟子に任せてあまり街へは顔を出さなかったから、姿を見るのは随分久しぶりだ。
「ちょっと近くまで寄ったんでな」
ジャンクは事もなげに言った。ここはランカークスのずっと外れにある。小さな小屋の他には何も無い、こんな辺鄙な森の奥に来ておいて近くに寄るも無いだろう。片手には手土産のつもりなのか、はたまた共に酌でもというところか、酒瓶が一本握られていた。
「お前の方から来るなんて珍しいな」
ロンの言葉に含みは無かったが、その台詞にジャンクは少しだけバツの悪い顔をする。そうすると、彼の息子である魔法使いの少年に少しだけ面影が重なった。やはり親子というところか。
「ちょっとカミさん怒らせちまって」
「あの細君が怒るのか 珍しいな」
意外な返事にロンは少し驚いた。彼の妻といえば、普段は春の日差しのように、穏やかを絵に描いたような女性であるからだ。スティーヌの柔らかな面差しを浮かべ、珍しいこともあるものだと思わず口笛を鳴らす。ジャンクはバツの悪そうにポリポリと頬を掻いた。気まずくなった時の彼の癖だ。そんなところまで気がつくようになったのも長年の付き合いのうちか。
「まあ、立ち話もなんだ」
と、ジャンクが家の中へと促してきた。ここはオレの家なんだがと一瞬眉を顰めたが、その右手に握っている酒瓶に目をやれば、わざわざ追い出すのもやぶさかでは無い。どうせすることと言っても昼寝くらいだ。それにこの役立たずの両腕では、自分一人で棚のグラスさえとり出すことはできないのだ。坊やが昼間の酒を咎めたところでこれはジャンクが持ち込んだものであるから彼のせいにしてしまえば良い。渡りに船だとロンは少し楽しくなってきた。
「お前らはケンカとかしねえのか」
酒瓶も半分口を開けた頃、ジャンクが重い口を開けて話を振ってきた。お前ら、とは自分と同居人である弟子のことだろう。師弟であること以外、自分たちの秘め事を含んだ関係はこの男には伝えていない。一見飄々としながらも意外と真をついたものの見方をする聡い男だ、薄々は勘づいているかもしれないが。
「あまりしないな。まあ、そう言う時はアイツが色々こらえてるんだろうさ。オレだってそうだ」
「ハハ、お前が何を堪えるってんだ」
「堪えるさ、最悪なことになるよりずっといい、頭の中で一言唱えれば頭なんぞすぐ冷える」
「ほう、何だよそのセリフってのは?」
あったら教えて欲しいものだと、太めの眉を顰めてジャンクが問う。
「人間の時間は短い」
ロンは短く答えた。
「なんだよそれは」
「そのままの意味さ、それ以上でも、それ以下でもない」
それこそ星の瞬きのように。
「いつまでも、あると思うなってことか。そういうの、こっちじゃ親と金、って言うんだぜ」
「そうなのか」
「まあ、オレはどっちもねえけどな。でもそれでも大事なもんはあるよ、…アイツだってオレの大事なモンのひとつだ」
そこまで言うと、ああ、そういうことか、と独り言のようにジャンクは呟く。確かに諍いを起こすのは時間の無駄だ。長くいられる時間は永遠ではないのだから。
「でもまあ、そうだな。お前にとって彼はもう家族みたいなもんだよな。確かに、その通りだ」
「けど、」
人間はそれを当たり前に享受して生きているのだ。永遠などどこにもない。だがジャンクはそれを不幸とも思わなかった。だがこの目の前の魔族は違うのだ。自分たちにとって永遠とも言える時間を、寿命の違うもの、ましてや愛おしい者と過ごすことは彼にとってどれほど残酷なことだろう。
「…お前が言うと、堪えるなぁ」
そう言うと、ジャンクは苦笑しながらひとつ、深い溜息をついた。諦めのような、寂しさのような、長い沈黙はいっそ決意のような間にさえ見えた。
「オレの頭も冷えてきたし、ちょっくらカミさんに頭下げてくらあ」
「ああ、そうしろ」
口の端を少しだけ上げながら、ロンは穏やかに笑みを浮かべた。その顔を見つめながらジャンクは続ける。
「なあ、お前、変わったよな。いや、ホントは変わってねえのかもな。お前は長生きだからオレが知らないだけで元々そんな奴だったのかもしんねえな。同じ場所に立ってても、空の星が朝と夜で見え方が違うように、オレたちも他のやつから見たらそれぞれ違う見え方をするんだろう。人間の寿命は短いからお前からすればコロコロと変わっちまう。見てくれも、もしかしたら中身も。でも今みたいな目でオレたちを見ていてくれよ。魔族から見りゃあ人間なんて短い一生だが、みんな精一杯生きようとしているのさ」
「そうか」
「カミさんの受け売りだ」
「そうか」
そうロンは返すしか無かった。そう返すのが精一杯だった。置いていくよと言われたようなものだった。彼とはの付き合いはほんの十数年ではあるがこんな気持ちははじめてだった。彼の目に自分はどう映っていただろう。
「邪魔したな」
とジャンクは小屋を後にした。また来るよ、と小さく言い残して。
「ただいま帰りました」
日も暮れかけて一番星もうっすら見え始めた頃、用事を済ませたノヴァが戻ってきた。冷たい風が一瞬ロンの頬を打つと。爽やかな笑顔で一瞬で場の空気が変わる。机の上に二つ並んだグラスを目にするとノヴァはロンに声をかける。
「あっ、やっぱりジャンクさん来てたんですね、じゃあ大丈夫か」
「スティーヌさんが、ジャンクさん、多分ここに来ているからって」
そう話すノヴァはいつも通りの坊やで、何も知らない彼の口調はいつも通りに明るく健気だ。何も変わらないはずだ。それなのにロンはたまらなく泣きたくなるような衝動に揺さぶられた。顔を見られたくなくて思わず片手で顔を覆うと、酒を飲みすぎたと思ったのか心配そうに顔を覗いてくる。
「…どうしました?そんなに飲んだんです?」
たった百年、その頃にはもうジャンクもスティーヌもここにはいない。きっとこの坊やだって。幾度となく突きつけられるその事実が小さな棘のように痛みを残していく。
「なんでもないさ」
そう言ってロンはぎこちない腕でゆっくりと弟子の頬を撫でた。その瞳にはたくさんの星が瞬いている。せめてこの星を少しでも永く目に焼き付けていられたら、そう願わずにはいられないロンであった。
二人きりで過ごすランカークスの森の中、冬の風は冷たく、夜空の星は静かに瞬きを深くしていた。