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    もりやま

    まほやく二次創作物

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    もりやま

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    22/5/28 隣にいてもいなくても 展示

    ネロのコーヒー.....






    1杯目、朝 




    「ミルクは入れる?」
    魔法舎のキッチンで新しくやってきた東の魔法使い────ネロにそう訊ねられて、ファウストは首を横に振った。
    「いや、いらない」
    手渡されたカップには、入れたてのコーヒーが注がれている。温かな湯気と、香ばしい香りが立ち昇る。
    コーヒーの匂いを良い香りだと、ファウストは久しぶりに思った。



    ---


     
     浅い眠りのせいでぼんやりする頭が、そろそろ空腹を訴えている。1日、いや2日は部屋にこもっていただろうか、とファウストは思う。
    窓とカーテンを締め切った自室の中では時間の感覚が緩む。カーテンを細く開けると陽が昇っていた。そろそろ何か腹に入れようかと部屋を出る。朝陽が差し込む廊下は、窓を締め切った部屋から出たファウストには少しまぶしすぎて、顔をしかめながら歩いていく。

     ファウストがキッチンまでやってくると、中から気配がして、カチャカチャと食器の触れ合う音と水の音が聞こえてくる。大きな窓からたっぷりとそそ光の満ちるキッチンには、どうやら朝食の片づけをしているらしいネロがいた。白いシャツの背中は黙々と作業をしている。
     少しばかりキッチンの入口で迷ったが、誰かと顔を合わせたい気分ではなくて、また後で来ようとファウストは踵を返そうとした。しかし、それよりも早くネロがファウストの気配に気が付いてキッチンの入口を振り向いて、彼の姿を認める。

    「どうも」
    「……どうも…」
    ネロは食器を洗いながら、右手でキッチンの中のテーブルの上を指し示した。
    「あんたの分の朝飯もあるけど、今日はいらねえ?」
    エプロン姿の彼は軽い感じでそう言う。
     ファウストは自分で適当に準備しようと思っていたが、どうやら料理人の彼は朝食の席に顔を出さない者の食事も含め、人数分きちんと用意していたらしい。
    大きな作業台の上には、まだ幾人分かの料理の載った皿と、切り分けらたパンがきちんと盛り付けられて置かれていた。
     東の首都で飯屋をやってるという彼は、ここでも料理番のようなものを担当することになったようだった。テーブルの上の料理はどれも美味しそうで、寝不足ながら少しばかりは食欲が湧いてくる。しかし、果たして今の自分にこのたっぷり量のある一皿を食べられるかといえば、ファウストはあまり自信がない。
    頂いていく、と言いかけて、はたとテーブルの前で立ち止まり皿を見つめるファウストの様子に、ネロは作業の手を止めた。
    「何か別のもん作ろうか?」
    そう言ってから、料理人は少しだけ逡巡する様子を見せた後、ポケットに手を突っ込んでファウストの顔を見て口を開く。
    「あんた、まだ体調が良くないんだろ。ヒースに聞いたよ」
    ファウストは少しだけ眉を上げた。強いられた共同生活で、食事を用意するという別の役割があるだけで充分面倒なことなのに。わざわざ?
    ネロの言葉に、ファウストはかぶりを振った。
    「いや、大丈夫だ。………ありがとう」
    ネロはいまいち納得がいかなかったのか、頭に手をやって、少しばかり首をかしげた。
    「そう?ちょっと作るぐらい別にすぐにできるけど。それとも少し量が多いか」
    ファウストは、察しの良いネロの言葉に瞬きする。
    「…ああ、悪いがこの量は食べきれないかもしれない。少しだけもらっていってもいいか」
    ネロはその言葉には穏やかに笑って「もちろん」、と答えると、手際良く小さな皿にファウストの分の朝食をきれいに盛り付けてくれる。
     ありがとう、もらっていく、と言って皿を取って戻ろうとするファウストの背中に、ネロが、なあ、ともう一度声をかかけた。
    「コーヒーは?」
    どちらでもよかったが、ネロの言い方がなんだか自然だったので、ファウストのほうもなんだか自然に頷いていた。新しくやってきたこの東の魔法使いはどちらかというと静かで、落ち着いていて、居心地が悪いという感じはしなかった。
     ファウストは少しの間手持ち無沙汰に、丁寧に湯を注いでコーヒーを入れるネロを見ていた。



    ---


     
     数百年の間一人きりだったファウストの生活は、前回の厄災が到来した日以降、唐突に変化した。
    厄災の討伐で一度は石になりかけ、けれど生き延び、見ている夢が漏れ出るという奇妙な厄災の傷を負い、魔法舎での共同生活が始まった。
    ほとんどの時間を自室で過ごしていると言っても、嵐の谷で自分自身のことと、たまの呪い屋仕事だけをして日々を過ごすのとはあまりにも違う。

     同じ魔法舎に、自分以外にも20人も魔法使いがいる。人間もいる。知った顔も知らない顔もいて、自分なんてまるで歯が立たない北の魔法使いが5人、いや7人もいる。
    奇妙な厄災の傷を治す方法は未だわからず、自室には強い結界を張り、夢が漏れないようにして眠る。
    眠るとしたら、他の魔法使いも眠っているだろう真夜中に。魔法使いは多少眠らなくても生きていけるわけで、健康がどうとかそんなことよりも、自分の心に従うのであれば、今のファウストはこの場所で進んでぐっすり眠りたい、とは思わなかった。

     夜は魔法舎の図書室にある膨大な書物の中から選んだ書物を読んだり、一人酒を飲んだり、眠気が来たらコーヒーを馬鹿みたいに飲んでやり過ごしたりもした。
    適当に作って時間の経ったコーヒーばかり飲んでいたせいで、それが美味しいとか良い香りだとか、しばらくの間、そんなふうに思うこともなかった。

     

     部屋に戻って口に含んだコーヒーはまだ十分に熱くて美味しい。
    ただ眠気を覚ますためのそれとは違って、味わって飲むうちに気分が落ち着いていく。熱くて濃いコーヒーがじわりと腹の底を温める感覚を、ファウストは心地よく思った。





    5杯目、早朝




    「お、先生早いね」
     コーヒーカップを持ち上げながらそう言うネロはとっくに魔法舎の全員分の朝食を準備し終えて自分も朝食を取っているところなのだから、彼こそずいぶん早起きしているはずだ。食堂にはほんのりとパンの香りがただよっている。ネロは一人で早めの食事をしていたらしい。
    「君もだろ」
    僕もいつもたいてい早起きだ、部屋から出ないだけ、ちらとネロに目をやってファウストが言うと、なるほどな、とネロは頷く。
     賢者の魔法使いたちが全員で魔法舎に暮らすようになってから少し経つ。ひまわり畑での任務のあと、東の国でも魔法の授業を始めた。ファウストが先生役を務めることでひとまず落ち着いた。東の3人、ヒースクリフとシノ、ネロとは授業でしょっちゅう顔を合わせる。最初の数回こそそうでもなかったが、多少遠慮が無くなってきたのか、ネロは授業中しばしば眠たそうな様子を見せる。毎日早くから朝食を準備してくれてるもんねと、ヒースクリフが遠慮がちにネロをかばっていたのを思い出す。
    ネロは組んでいた足をおろすと椅子を引いた。
    「今日はいつも早起きの連中がいないから、まだ誰も来ないかと思ってた」
     早起きの連中、とは誰のことかファウストにはわからないが、ネロはすっかり魔法使いたちの朝食スケジュールを把握しているらしい。
    朝飯食うなら用意するよ、と食べかけの皿を置いて立ち上がるネロに、ファウストは自分で用意する、と言ったが、もう卵とベーコン焼くだけだから座ってな、と言われる。
     食堂のテーブルにはネロ一人分のベーコンエッグの皿と、食べかけのパンと、水の入ったグラス。
    「コーヒーは?」
    ネロに聞かれて、ファウストは頷いた。

     食堂の長机で、ネロの座っていた椅子の斜め向かいにファウストは腰かけた。
    店に来ているわけでもないのに、朝から他人に食事を用意してもらうのはなんとなく不思議な感じがした。ネロが自分のパンや卵を焼いて、コーヒーを入れるのを、朝日の差す食堂でファウストはただ静かに待つ。

    「はいよ」
     キッチンから戻ったネロが差し出した皿の上には彩りよく盛られたサラダとふんわり焼かれたオムレツ、ベーコン。小さなカゴには温かいパン。それから熱いコーヒー。
    いただきます、とファウストが口にすると、ネロはどうぞ、と言いながら椅子に座って、自分のフォークを手に取る。
    ファウストは、入れたてのコーヒーを一口すする。
    やっぱり、ファウストが想像する味、いつも自分で入れるそれよりも美味しい。
    「………君はコーヒーを入れるのが上手いな」
    ファウストがぽつりというと、え、そう? とネロは皿から顔を上げた。
    「普通だと思うけど」
    この豆が好みに合うのかもな、と言いながら、ネロは半熟の目玉焼きをフォークで器用に口に運ぶ。
    「いや、自分で入れてもこんな味にならなかった」
    ファウストがそう言うと、ああ、とネロは合点がいったように頷いた。
    「それ、ここの水使ってるだろ」
    当然それ以外にあるはずがないので、そうだとファウストは頷く。
    「今日のは、ボトルで買った良い水を使ってる」
    ネロはカップをひょい、と持ち上げて笑って見せた。
    「ほら、東の国と中央の国だと水質が全然違うだろ?」
    ネロにそう言われてもファウストはいまいちピンとこなかった。確かに嵐の谷と中央の都ではずいぶん違うが、それは自然が残る場所と都市部との差だと思っていたし、それにコーヒーの味が水で変わるなんて考えたことがなかった。

     ここは中央の国でも特に栄えてるし、水道も整ってるけど、飲み水の味となるとやっぱ違いが出るよな、とネロは言う。
    「ここに来るまで住んでた雨の街じゃ朝はいっつもコーヒー飲んでてさ、あそこは水がいいからコーヒーもうまい。それに慣れちまってるから、贅沢だけどたまにどうしても美味い水でコーヒーが飲みたくなる」
    そう言ってネロは笑って見せた。
    「あんたの舌にも合うならよかった」


     ファウストは食後にもう1杯、ネロにわけてもらったボトルの水でコーヒーを入れてみた。たしかにこれまで魔法舎で自分が入れたコーヒーよりは美味しい気がしたが、さっきネロが用意してくれたコーヒーとは全然違った。ネロにもそれを差し出すと、口にふくんで「全然まずくないけど」と言ってから、首をかしげた。
    「……お湯の温度とか?」
    「沸かしたてが一番いいんじゃないのか?」
    「紅茶とかはそうだけど、コーヒーはそうでもないよ」
    例えば浅煎りの豆だと温度が高すぎると酸っぱくなるかも、とネロはファウストの入れたコーヒーを立ったまま飲みながら教えてくれる。あと、1回で湯を注ぐより、3回くらいに分けてドリップするほうが美味しく入る。
    なるほど、ファウストはネロの話を聞きながら小さく驚いた。言われてみれば単純な話だが、そんなこと考えたことがなかった。
     嵐の谷では紅茶を飲むことのほうが多かったし、よく作ったり買ったりしていたから、種類や入れ方についてもある程度知っていて、コーヒーもなんとなくそういうものだと単純に思っていた。
     考えてみれば、コーヒーなんて子どもの頃は飲まなかったし、革命軍に居た頃は「美味しいコーヒーを入れる方法」について考える暇なんてどこにもなかった。嵐の谷では長らく自炊生活だったが、飲む回数もさほど多くないコーヒーの入れ方を調べたことはなく、たまに眠気覚ましのために自分で入れるコーヒーの味がコーヒーの味だと、そう思っていた。周りに誰もいなかったから、もっと美味しく入れられるとファウストに言う人もいなかった。


     朝食を終えて、ネロと別れて図書室で次の授業の準備のために本を繰っているときに、ファウストはふと思う。
     ネロがいるときに朝食を取ろうとキッチンへ行くと、いつも「コーヒーはいるか」と聞いてくれるのは、彼が毎朝コーヒーを飲む生活をしていたからだったのか。
    ファウストも他人のことを言えないが、ネロは世間話なんかでは気さくなわりに、あまり自分のことについては話さない。
     さっきはなんとなく、同じ東の魔法使いに選ばれた彼の生活を垣間見た気がした。だからどうということもないけれど、一瞬そんなことを思ってから、本のページに再び目を落とし、ファウストは調べ物に戻った。





    9杯目、朝




     朝、食堂に一番人が集まる時間帯、朝食の用意の休憩がてらカップを傾けて熱いコーヒーを飲みながら、ネロは向いに座るリケを眺めていた。
    「………まずいです!」
    コーヒーを一口飲んで、リケは眉間に皺を寄せてネロを見た。
    「だから言ったじゃん」
    リケのしかめっ面を見たネロは可笑しそうに笑って、まだ幼さの残る少年にミルクを注いだグラスを手渡してやる。
    リケは急いでミルクを口にふくみ、はあ、と息をついた。
    任務がない日にはしょっちゅう朝食の準備を手伝っているリケに、毎朝ネロが飲んでいるコーヒーというものを一度飲んでみたい、とお願いされて、ネロは小さなカップに彼のためのコーヒーを注いでやったのだった。ネロに「リケにはまだ早いって」と止められても、どうしても気になって、初めて口にしたがどうやらまだリケには早かった。
    「僕がお願いしたのにまずいなんて言って、すみません。美味しそうな香りだったから……。初めて口にする味でした………」
    「まあ、苦いよな」
    「にがい、…これが苦いということなのですね」
    神妙にそう復唱したのち、リケは緑色の大きな目で不思議そうにネロを見上げた。
    「ネロはこれが美味しいのですか?」
    「うまい………そうだな、まあうまいし、飲んだらすっきりするっていうか落ち着くっていうか」
    リケは金色の髪をさらりと揺らして首を傾げた。
    「ネロは、苦いとすっきりするのですね」
    「いや、苦いからすっきりするわけではないな………」
    「どういうことですか?」
    「えーと………。口で説明するの、難しいな。リケも大人になったらわかるんじゃねえ?」
    そう言って苦笑したネロは、リケからコーヒーカップを受け取って、そこにミルクと砂糖をたっぷり足して混ぜてやる。
    「ほら、これなら苦くないし、飲めるだろ」
    甘いミルクコーヒーを飲んだリケはしっかり笑顔になる。
    「…美味しいです!」
    ネロは満足気に嬉しそうな金色の頭をなでてから、他の魔法使いたちにも朝食を用意してやるために食堂からキッチンへと戻っていった。
    「ファウストも、コーヒーを飲むとすっきりしますか?」
    リケは、近くに腰かけていたファウストにも尋ねてみる。
    ファウストは朝食を取る手を止めてリケを見た。
    「そうだな」
    ファウストの前にも、ネロの入れたコーヒーが置かれている。
    「でも、僕も君くらいの時には飲まなかったよ」
    リケはそれを聞いて少し安心したように、そうなのですね、と応えた。

     すっかり空になった朝食の皿とミルクコーヒーのカップをリケはキッチンへ運ぶ。ネロはざぶざぶと水を使って食器を片付けていて、リケはその横にひょいと並んだ。
    「ネロ、僕も食器を洗います」
    そう言うリケに、ネロは今日はいいよ、と首を振る。
    「ルチルの宿題があるって言ってなかったか?」
    リケは魔法舎にきてから、中央の魔法使いとしてオズの授業を受けるのとは別に、読み書きや基礎的な勉強をルチルから教えてもらっている。ネロはよくリケやフローレス兄弟から日々の授業についての話を聞いていた。
    「このあいだのルチルの宿題はもう終わりました。でも、作文の宿題があって、うまくできているか少し不安です」
    リケは自分の食器をネロが水を張ったボウルにつけながら言う。
    「そうだ、ネロ、今日は僕の作文を見てくれませんか?」
     作文、ネロはそんなものを書いたことも誰かに見てもらったこともない。けれど、綴りや文法の簡単な間違いを訂正してやるくらいならなんてことはない。ネロは自分が今になって子どもの勉強をみてやるなんて思いもしなかったけれど、魔法舎に来てからというもの、時たまリケの読み書きや簡単な数字の勉強を見ることもあった。
    「おう、俺でいいならいいよ」
    ネロがそう答えると、リケはパッと笑顔になる。
    「やった、ルチルもミチルも明日まで任務でいないんです」
    リケは両手を胸の前で合わせると、ネロの顔を覗きこんだ。
    「ありがとうネロ、僕、ノート持ってきますね! 食堂で待ってます」
    そう言うと、軽い足音をたてて元気よくキッチンを出て行った。ネロは水を使いながらその背中を見送る。


     リケが食堂に戻ってくると、他の魔法使いたちより遅く食べ始めたファウストだけがまだ残っていた。
    食事は終えて、コーヒーをゆっくり飲んでいる。手元には美味しそうな小ぶりのクッキー。先ほどまではテーブルの上になかった小さな焼き菓子は、ネロがファウストのために持ってきたらしく豆皿にきちんと並べられていた。
    リケの視線に気が付いたのか、ファウストは心配しなくても君の分もちゃんとある、と言う。リケは心外です、というふうに眉を上げて、抱えたノートをファウストのほうに見せた。
    「違いますよ、ファウスト。僕はおやつを食べに来たのではなく、ネロに作文を見てもらおうと思って………」
    リケが言うと、ファウストは意外そうな顔をして眉を上げた。
    「作文? ………ネロに?」
    魔法舎に来てから、なんだかんだと相当面倒見のいい性格だとは思っていたが、ネロが勉強をみてやる、というのはなんとなく意外だった。
    「はい、いつもはルチルが教えてくれるのですが、ミチルやネロが教えてくれることもあるんです」
    嬉しそうにノートを抱えてそう言うリケの顔はファウストには少しまぶしいくらいだった。
    「………そうか」
    よかったな、と口には出さないが、学ぶ気持ちがある子どもがその機会を得ていることにファウストは穏やかな気持ちになった。リケは、テーブルにノートを広げて、辞書とペンを準備した。
    「僕は、はじめネロはあまりやる気がない人なのかと思っていたのですが」
    リケの率直な台詞の前半部分にファウストは思わず少し笑いそうになるが、コーヒーを口に含んでいたのでこらえてリケの言葉を聞く。
    「文字を書くことも、料理のことも、僕の好きな食べもののことも」
    リケは小さな手のひらを合わせて微笑む。
    「ネロは色々なことを僕に教えてくれます」
    そう言って嬉しそうに笑うリケを見て、ごく、とコーヒーを無事飲み込んだファウストは穏やかにカップをソーサーに戻す。
    「ネロが色々なことを教えてくれるというのは、僕も身に覚えがあるよ」
    頷くファウストに、リケは明るく尋ねる。
    「ファウストは、ネロから何を教わりましたか?」
    リケの問いに、ファウストはほんの少しだけ微笑む。
    「コーヒーの入れ方とか」





    15杯目、夜



     
     静かな部屋の中でファウストは読書にふけっていて、ふと気が付くともうずいぶん遅い時間になっていた。子どもたちはもうすっかり眠った頃だろう。水を一杯飲もうと水差しに手を伸ばすが、生憎と中身は空で、ファウストは広げた厚い書物のページに栞を挟んで立ちあがった。

     水差しを持って、灯りを落とした廊下をたどりキッチンへ向かう。今夜の魔法舎は風が窓を時たま揺らす以外は静かなものだった。広い魔法舎はしんとした気配に包まれている。
     けれど、ファウストがキッチンに辿り着くと、その入口からは煌々とした明かりが漏れていて、ファウストは眉をあげる。中にいるのが誰かによっては、引き返した方が賢明だ。そう思ってファウストは気配を探るように魔法を使う、と同時に、甘い菓子の焼ける匂いが彼のほうまで漂ってきた。
     その匂いでキッチンの中にいるのが誰なのか、魔力をたどらずともほとんどわかったようなものだったが。
    戸口の向こうに感じる気配は、ネロのそれだった。

     ファウストは少し迷ってから、小さくコンコン、とノックをしてからキッチンへと足を踏み入れた。
    ノックの音と気配に一瞬緊張感をまとってパッと顔を上げたネロは、ファウストの姿を認めるとすぐに肩の力を抜いた。使った食器や器具を流しで洗っていた手を拭きながらファウストに声をかける。
    「先生か。こんな時間にどうした」
    「僕は水を汲もうと思って。………君、まだ何か作っているのか」
    ファウストがキッチンの戸口にもたれ掛かって尋ねると、ネロはぽり、と頭を掻いた。
    「今日シノに、レモンパイをねだられてさ」
    「……レモンパイ」
    だからってこんな夜中に?、ファウストは少しばかり眉を上げた。
    「今日の訓練で褒められたから焼いてくれって。好物なんだってさ」
    そう言うネロの顔は穏やかで、しばしば見せる億劫そうな様子は欠片もなかった。しかし、そのシノのおねだりにはファウストも身に覚えがあった。
    「………それ、僕も言われたよ。褒めてやったら、じゃあパイを焼いてくれって」
    そうなの?と今度はネロが眉を上げて笑った。
    「でも、僕はお前のママじゃないって断った」
    ファウストの台詞に、ネロは今度は声を出して笑う。
    「っはは!ママじゃない、そりゃいいな」
    ファウストのほうはやや眉を下げる。
    「…君、他の用事もあるのにこんな夜中まで、」
    その言葉にネロは首を横に振った。
    「違う違う。明日の昼にだってシノに食わせるレモンパイを作る時間くらいあるよ。これはさ」
    と、ネロは少しばかり照れた様子でオーブンの中を指し示す。
    「その、レモンパイなんて久しぶりに焼くから、先に一回試しで作っておきたくて」
    「試しに」
    「そう。ご褒美のパイなんだから、とびきり美味くないとな」
    そう言ってネロはにかりと笑う。
     
    なるほど、とファウストは理解する。彼には彼のこだわりがあるのだ。
    ――――それにしても、とファウストは思う。
    これまで中央の都での事件やいくつかの任務で行動を共にして、ネロが彼の力が必要とされる場面で決して怠惰で無いことは知っている。むしろ子ども達を率先して庇って、周囲に気を回して。自分のやるべきことを十分に考えて行動する人間のようだとファウストは判断していた。
    しかし、魔法舎の日常生活においてという話で言えば、どちらかと言えば気だるげな印象の魔法使いだし、面倒ごとは極力避けたがる。
    そのネロが、しかしこういうところには全く労力を惜しまないこと、────むしろファウストからすれば献身的とさえ思える行動をまるで負担だとも思わずにに出来てしまう、ということをファウストは改めて理解した。

    「君は、人のために何かするのに手間を惜しまないんだな」
    「……そんな大げさなことでもないけど」
    「そう? ……とばっちりで悪いな」
    そう言うとネロはきょとんとして、それから笑う。
    「とばっちりなんかじゃねえよ。子どもらのおねだりなんて可愛いもんだし。シノはああいうとこかわいげあるよな」
    そうネロが言うのとほとんど同時に、ポーン、とオーブンのタイマーの音がした。
    お、焼けたかな。そう言うと、ネロは戸口に立ったままのファウストに手招きをした。ファウストはネロに呼ばれるまま、キッチンの中へ足を踏み入れる。
     灯りに照らされて昼のように明るいキッチンの窓の外は真っ暗で、夜中だと言うのに部屋の中には甘い香りがたっぷりと立ち込めていて、いつも使う場所なのに、それはなんだか少しばかり変わった組み合わせだった。
    「いい匂い」
    ファウストが水差しをキッチンのテーブルに置いてオーブンのほうに行くと、ネロはしゃがんでオーブンの様子を覗き込む。
    「だな。お、もう良さそう」
    大きな造りのオーブンを開けると、甘酸っぱい匂いがより濃くなって二人の魔法使いを包んだ。ネロは「久しぶりにに作るから、試しに」なんて言っていたけれど、取り出された丸くて大きいパイはつやつやとしたパイ生地とやわらかい色のフィリングのコントラストがきれいで、ファウストは思わず、おいしそう、と小さく呟いた。ネロはしゃがんだままファウストをちらと見上げて嬉しそうに笑う。
    「先生、よかったらちょっと食べていかない?」
    ほんとはもうちょっと置いてから食べるほうがいいんだけどさ、夜中につまみ食いもたまには良いだろ、そう言ってネロはミトンをはめた手で天板を取り出してテーブルの上に置く。
    「いいの?」
    「うん。味見してくれたら助かるし」

     ファウストはスツールをキッチンのテーブルのところへ移動させて腰かけた。ネロは焼きたてのパイを粗熱を取るための台に置きかえると、包丁で小さめの一切れをケーキ皿へ載せてファウストの前に置く。もう一切れ自分の分も切り出すと、ファウストに「紅茶かコーヒー飲む?」と尋ねた。
    ファウストは頷いて、ありがとう、どちらでも、と答える。
    「じゃあ挽いた豆あるからコーヒーでもいい? ちょっと待ってな」
    言いながらネロは鍋に水を入れて湯を沸かし、ついでにテーブルのファウストの水差しにも水を汲み、グラスにも冷たい水を入れてファウストに渡す。

     甘い香りに、コーヒーの香ばしい香りが混ざっていく。
     ファウストは昼間と変わらず慣れた様子でキッチンに立つネロの背中を見ていた。手渡されたグラスから水を一口飲みながら、ファウストは自分がひどく穏やかな気分でいることを気がつく。ひとり夜更かしするつもりが、いつのまにかネロとのお茶会の準備が整っている。


    「お待たせ」
    そう言ってネロは二人分のコーヒーをマグカップに入れてテーブルに置いた。
    ケーキ皿の横に添えられた小ぶりなデザートフォークを手に取って、ファウストはサク、と音を立ててレモンパイの先に突き立てる。口に入れると、久しぶりに食べるパイの食感とちょうどよい甘さ、追ってレモンの酸っぱさとほのかな香りが広がる。
    「………美味いな」
    ファウストが真顔で向かいに腰かけたネロに言うと、ネロはどうも、と言って笑って、自分もレモンパイを口に運び、満足気に「上出来」と呟いた。

    「その格好、寝起きじゃないよな。先生も何かしてたのか?」
    「本を読んでいた。あと授業の準備とか」
    授業、という単語にネロがはっ…という表情になるのを、ファウストはしかと見ていた。
    「………先週の宿題って明日出す?」
    「今日までだったけど」
    ファウストは、レモンパイを口に運ぼうとした手を途中で止めてネロを見てそう言う。
    言われたネロは、あ~、と唸ってテーブルの上に肘をつく。フォーク片手にテーブルに突っ伏したネロを見ながら、ファウストはフォークを置いてコーヒーカップを持ち上げた。
    「まあ今日のところは君の献身と美味しいレモンパイとコーヒーに免じて許してやる」
    「まじ?」
    「明後日までには出せよ」
    「……明日ヒースに聞こ」
    悪びれずにそう言って、ネロはむくりと上半身を起こすと自分もコーヒーをすすった。
    そういうところは、平気で子どもたちにだって頼るのだ。ファウストがネロをちらと見て、可笑しくなって少し笑うと、ネロは眉を下げてファウストを見やる。
     ファウストは熱いコーヒーを口に含んで、甘いレモンパイとその苦味の組み合わせを楽しんだ。どちらもネロの作った味。
    ネロ自身も、いったい怠惰なんだか働き者なんだかわからないけれど、どちらもネロなのだ。






    32杯目、昼




    「うお、酒くさっ」
    燦燦と朝陽が爽やかに差し込むキッチンに似合わぬ様相を呈している南の魔法使いに、ネロは思わずそう呟いた。
    「す、すみません………」
    申し訳なさそうに小さな声で謝ったのはルチルだった。
     昨日、夜遅くまでムルとトランプで負けた方が1杯ずつ酒を飲む、という飲み比べ勝負をしていたらしい。魂がくだけた後のムルとはいえ、ムルとトランプで勝ちを重ねられる人物なんてそうそういない。たがらつまり魔法舎でそんな勝負が成立するのは、よっぽどの強運の持ち主か、もしくはよっぽど酒に強い魔法使いたちだけである。ルチルは後者。 


    「や、悪い悪い、……びっくりしてつい」
    水でも取りに来たのか?と尋ねるネロに、ルチルは青い顔で頷いた。
    「そうなんです」
    ちょっと待ってな、と氷を取りだそうとかがんだネロの背後で、もう一人誰かがキッチンに足を踏み入れる音がした。
    「ネロ、朝食のパンがまだ残っていたら…って、………酒くさっ」
    昨日から合同任務に出ていたファウストがちょうど帰ってきたらしく、ついさっきのネロと同じリアクションをしたのを背中で聞いて、ネロは腰をあげた。振り返ると、いつもの真っ黒な格好に着替えたファウストがキッチンの入り口に立っていた。
    「すみません………」
    ネロは笑いながら小さくなっているルチルの背中をぽん、と撫でてやる。重ねて謝るルチルに、大きなグラスに冷たい水を注いで渡す。
    ファウストはいや、悪い、つい………、と詫びてから、入り口を跨いで中へ入ってきた。
    「かまわないが、どれだけ飲んだんだ………?」
    ルチルは酒飲みの多い魔法舎の中でも相当な酒豪であることはネロもファウストもすでに聞き及んでいた。さんざん飲んだ次の日もたいていけろりとして朝の散歩に出かけていたりするのだ。二日酔いなんて珍しい。
    「大丈夫か? ………あんたがそんなになるなんてよっぽどだな。粥かなんか作っとくから、食べられそうならそれ食えば」
    「そんな、わざわざいいです!」
    ネロの気遣いに、ルチルはあわてて首を振るが、首を振った端からその動きだけで気持ち悪そうにしている。
    「いや………全然大丈夫じゃねえじゃん。粥炊いとくよ、お大事にな」
    「ネロさん、ありがとうございます」
    こんど何かお礼します!といつもより少しばかり弱った笑顔でそう言って、水を片手にルチルはふらつく足で部屋に戻っていった。

     ネロはルチルの背中を見送ると眉を上げて笑って、おかえり、とファウストに声をかけた。
    「ただいま」
    「パン、まだあるよ。ちょっと待っててくれたらスープも温める」
    スープも頂くよ、ファウストはそう言って、キッチンの大きなテーブルに椅子を引き寄せて腰かけた。
    「魔法舎の酒の消費量はバカにならないな」
    ファウストがそう呟くと、ネロは鍋のほうを向いたまま笑った。
    「先生も一役買ってるよな」
    「お前もだろ…」
    ファウストは不服そうに料理人の背中に言い返すと、ネロはスープをかき混ぜながらまた笑って、肩をすくめて見せる。

     お待ちどう、とネロはトーストしたパンとあたたかなスープをファウストの前に並べた。たっぷりと野菜の入ったよく煮込まれたスープは泊りがけの任務帰りの疲れた体に染み渡る。
    朝食を取るファウストの横で、ネロは湯を沸かしてコーヒー豆を挽き、二人分のコーヒーを入れるとファウストの向かいに腰かけた。カップの一つはファウストの前に置いてくれる。
    ありがとう、どういたしまして、と言葉を交わして、2人はカップに口をつける。
    「………昨日任務で行った街でいい酒屋があったから」
    ファウストがそう切り出すとネロはコーヒーを飲みながら少し笑う。
    「うん」




    何杯目かわからない、朝




    「あ、豆もうないんだった」
    朝のコーヒーを入れようとキッチンの戸棚を開けたネロが呟く。
    今日買いに行くか、と頭を掻いた背中にファウストが声をかける。
    「僕もついて行こうか」












     











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    もりやま

    INFO▼2023/8/20発行 ネロの短編集
    1話目全文をサンプルとして公開します。

    ▼賢者の超マナスポット2023 8/20 新刊
     インテックス大阪 5号館 い73a
     『朝食にて』
     ネロ中心 A6文庫 100ページ 500円
    朝食にて8/20新刊サンプル
    ネロが魔法舎に来てからの、なんとなく時系列順のイメージの短編集を発行予定です。全5話。
    1話目が魔法舎に来たばかりのメインスト1部→後半は2周年とか2部とかくらいの感じです。





    -----------


    1 朝食にて
    場所 魔法舎のキッチン
    時刻 早朝




     先日の厄災襲来の日までのしばらくの間、魔法舎のキッチンはたいした調理には使われていなかった。けれど、突然やってきた料理人によって、キッチンはいまやその全機能を稼働させていた。かまどには火がくべられ、大鍋や鉄製のフライパンは磨き上げられ、オーブンは丁寧に手入れされ、たくさんのパンを焼き上げる。
     ネロ・ターナーは、魔法舎にやってきた次の日から賢者と賢者の魔法使いたちの食事の世話をはじめた。最初は西の国のシャイロックに頼まれたから(あとから振り返って、あんな大騒動があった日によく次の日の朝食のことまで考えられたもんだとネロは思った。シャイロック・ベネット、彼自身、その日は心臓が燃えていたのだ)。それでもそのうち東の国に帰られると、ネロは思っていた。しかし、温かいごはんを食べたことがないなんていう中央の国の子どもの魔法使い、リケがネロのオムレツを食べて目を輝かせているのを見て気持ちが揺らいだ。賢者も何だか放っておけない若者であったし、ひとまず今のところスノウとホワイトの双子以外の北の魔法使いは魔法舎にはいなかったし―――、結局ネロはその翌日も、またその翌日も、皆の食事を請け負った。
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