少年よ我に帰れ 俺には山田一郎の幽霊が見える。
初めにこの幽霊が見えたのはTDDが解散して暫くした頃だった。群がる雑魚を蹴散らしながら路地裏を歩いていると、足を突然何かに掴まれるような感覚にあった。驚いて足下を見てみると、本当に足を掴まれていた。17歳の山田一郎らしきものに。
山田一郎である、と断言できないのはこの山田一郎にはあの特徴的な赤と緑の眼球がなかったからだ。本来目がある辺りに丸いふたつの穴がぽっかりと空いており、眼球の代わりに吸い込まれそうな黒い闇が広がっている。それ以外はほぼあの時の一郎。
なんだ、アイツ死んだのか。
それがはじめの感想。しかし部下に調べさせたら山田一郎は今日も朝から迷い猫を探してイケブクロを駆け回り、主婦に混ざってスーパーの特売争奪戦に参加して1パック30円の激安卵をゲットしていたらしい。元気いっぱいじゃねーか!
じゃあコレはなんだ?試しに振り払おうと足を振り回してみたが、全く離れる気配がなかった。ならば、と足を掴んでいる腕を無理やり外そうと屈んだ時、俺の耳にかすかに『なんで、どうして、』と呟く声が聞こえてきた。それを聞いて理解した。あぁ、これは自分の未練だと。俺が一郎に対して抱いている様々な感情が未練となり、一郎の姿になって現れたのだ。ならばこいつに眼球がないのも頷ける。俺はアイツの偽善に満ちた目が大嫌いだから。大方喋っている内容は『なんであんなに目を掛けてやった俺を裏切った』とか『どうして合歓にあんなことした』といったとこだろうか。
なんでもどうしてもない。理由なんて知ったことか、あいつは俺を裏切った。それが全てだ。俺は自分の未練を振り払うように大股で歩いた。
1stディビジョンラップバトルの会場で一郎と久しぶりに再会した。俺を睨む一郎には赤と緑のヘテロクロミアがきちんと嵌っていた。その瞳の輝きは今も足を掴んで離さない死人のような顔色の未練にはなく、目の前のエネルギーの塊のような山田一郎とは大違いだ。一郎の瞳に映っている俺の口角が自然とあがるのが見える。そうだ、こうでなければ。お前は俺と同じくらいの激情を俺に向けるべきだ。俺は凶悪な笑みを浮かべて一郎に立ち塞がった。
「会いたかったぜぇ」
MAD TRIGGER CREW vs Buster Brosのバトルは俺たちの勝利で終わった。晴れ晴れとした気分だった。遂に一郎を倒し自分の未練とケリを付けたのだ。これでコイツとおさらばできる。そんな俺の期待は足元を見た瞬間呆気なく崩れ去った。足元には変わらず俺の未練がしがみついていた。
俺がまだアイツに執着しているっていうのか。そんなことあってたまるか。
「なんなんだよ」
衝動に任せて掴まれている方とは逆の足で一郎を蹴り飛ばそうと足をあげたその時、俺に縋り付く一郎のからっぽの眼孔と目が合った。瞬間、あの事件の事が脳裏に蘇った。大事なものを守るために別の大事なものと天秤にかけて片方を切り捨てたあの時を。俺様は間違えてない。合歓が何よりも大事なんだ。けれど、もし叶うなら、俺だってあの時、どっちも救いたかったんだ……。
「……なんなんだよ」
振り上げた脚が力なく地面に落ちた。
それからまたしばらく時が経ち、 2ndディビジョンラップバトルの少し前、俺は乱数からあの時の真相を聞いた。
一郎は、裏切ってなかった。全ては中王区の策略と俺があいつを信じきれなかったことが原因だった。
足元を見ると俺の未練の形をした一郎は相変わらず俺の足を掴んでいる。俺はしゃがみこみ、初めて己の未練を自分から触った。足に縋る腕を掴み、足からゆっくり外そうとすると、それはあっけなく俺の足から離れた。その腕を自分の首に腕をまわして一郎を、自分の未練を背負いあげる。両目がぽっかり空いた一郎をおぶった俺はゆっくりとヨコハマの街を歩き出す。もうどうしても、この一郎を引きずって歩く気にはなれなかった。
あの日以来俺は自分の未練をおぶって生活をしている。流石に両手がふさがってしまうのはヤのつく職業的には致命的だと危惧していたが、試しに手を離してみたら一郎は足を俺の腹に回して背中から俺にしがみついているような体勢になった。後に俺はこの格好の名前がだいしゅきホールドだという事を知った。そんな訳で、俺は両手が使える。今まさに祭壇の前で合掌が出来るように。俺は今ヘマをしてあの世に行っちまった兄弟の葬式に来ていた。
コイツが周りに見えなくてよかったと思う。はたから見たら俺は高校生の幽霊に抱きつかれながら葬式に来るヤバいやつだ。しかし、いくら見えないからといって気にならないというわけでわない。早々にこの場を離れようと会場に礼をして帰路につこうとした時だった。俺は僧侶に呼び止められた。
「あなた、生霊に取り憑かれていますね」
「あ?」
「あなたにしがみついているものです」
「生霊……?」
「はい」
「……俺の未練じゃないんか……?」
「いえ、それは生霊です。あなたに強い思いを抱く者がいて、それが形になったものです。……もしよろしければお祓いして差し上げましょうか?」
「このままにしておくと俺は死ぬのか……?」
「いえ、その生霊はあなたの体調に悪影響を与える類ではないので。ただ、あなたが気にするのであれば祓った方がよいでしょう」
「……いや、いいわ」
「そうですか、ではそのままに」
「こいつは祓わない限りずっとこのままか?」
「いいえ。相手の未練がなくなればじきに消えるでしょう」
僧侶と別れた後の帰路、自分の肩あたりを見る。相変わらず俺の未練が、否、一郎の未練が俺にしがみついている。目がないため感情は読めないが、僧侶が言うには一郎の強い思いがコレを産み出したらしい。つまり、こいつが見える限り、一郎は俺にまだ執着している。それがどんな感情であれ、だ。そう思うと口がニヤけるのが抑えられなくて、俺はそっと口元を手で覆った。
だいたい2ndディビジョンラップバトルの後あたりからだろうか。今までかろうじて聞こえていた一郎の未練のなんで、とかどうして、という語録に変化が訪れた。前はこいつが呟いていた内容は俺があいつに問いただしてやりたかった疑問や恨み言だと思っていた。しかしこいつが山田一郎の生霊だというなら、こいつが呟いているのはあいつが俺に対して抱いている恨み言ということになる。だとすると、今までの言葉の続きは『なんで俺を切り捨てたんですか』『どうして信じてくれなかったんですか』あたりだったのだろうか。弁解も謝罪も、生霊のコイツに言ったところで本人に伝わる訳でもない。俺は生霊がなにか呟く度、ただコイツの頭を撫でてやることしかできなかった。
その呟きに変化が現れたのだ。例えば、MTCのメンバーと飯を食っている時には『俺も……』とか『ず…い…』と呟いたり、俺が用事があって先生を訪ねた時には『みんな……』とか『また……』など人や場所によって違った内容のことを呟くようになったのだ。生霊の発言に変化があったということは本物の山田一郎が俺に対して持っている感情に変化があったということ。しかし問題はその内容が全く聞き取れないということだ。ホンモノは相変わらず腹の底からでけぇ声出してラップしてる癖に、コイツの声量は耳元で喋ってるにも関わらず絶妙に聞き取れなくてもどかしい。昔のように頻繁に会うことがなくなった俺にはあいつにどんな心境の変化があったかが分からない。結局、俺はやはり生霊の頭を撫でてやることくらいしかできなかった。
壁が崩壊して半年が経った。あらゆる思惑や企みが表沙汰にされ、中王区の壁は崩れ去った。生霊じゃない方の一郎とは、壁の崩壊後なんとか和解を果たした。あれだけの事をしたから正直もう口も聞いてくれなくなることを半ば覚悟していたが、一郎はどこか虚空を見つめた後、なんとも言えないような顔で「しょうがないな……」といって俺を一発フルスイングで殴った後
「これでチャラ。左馬刻さん、俺、アンタと話したい事が沢山あるんだ」
そう言って泣きそうな顔で笑った。それを見ていた周りの証言によると、一郎に殴られた俺は見事な放物線を描きながら吹き飛び、理鶯が「あれはいい軍人になれるパンチだ」と感心したらしい。もちろん俺の頬は後日腫れた。けれどその時の俺は直後に抱きついてきて鼻をすすり始めた一郎の頭を撫でてやるのに忙しくて、頬の痛みなんて忘れてしまっていた。
その後、本人にはチャラだと言われてもそれでもはじめはどこか気まずさがあり、TDDやMCDのメンツを巻き込んで複数人で会って距離を縮めた。その甲斐あってか最近ではふたりで飯にも行けるようになったし、萬屋に俺が依頼をしても弟たちによる居留守は使われなくなった。なにより一郎からなんでもない事で連絡が来たり、遊びに誘われたり、よく笑ってくれるようになった。俺たちの関係は着実に改善していった。けれど、
「左馬刻はさ〜一郎の1番になりたいんじゃないの?」
それほど広くない店内の声が響く。これは乱数に半ば無理矢理連れ出されたシブヤのバーで言われた言葉だ。
山田一郎は誰にだって優しい。
だが俺様だけは知っている。今も背中にしがみつく一郎の生霊が、アイツの無意識の本音を語っている。絶対に許さない、と。
あの時喜んだはずの執着が、今はどうしても埋まらない溝となって俺の前に立ちはだかる。どうにもこの溝を飛び越えられる気がしない。ならば昔ほど近くなれなくても決して遠くもないこの関係になれただけでも御の字じゃないか。それで、十分だ。しかし乱数はそれが不満なようだ。
「じゃあサマトキサマはそのうち一郎に突然恋人とか紹介されてもいいんだね?」
「それは……」
いいわけない。本当にそのうちいきなり恋人とか紹介されたらそいつを俺の生霊とかが殺してしまうかもしれない。いや、俺が殺すわ。
そう即答した俺に乱数が吹き出した。
「なら早く奪っちゃいなよ!」
笑い事じゃないと乱数を睨むと
「大丈夫、邪魔する奴は今度こそ僕と寂雷で集中砲火しちゃうからさ」
そう言って笑う乱数は齢を重ねたからこそ出せる慈しむような表情をしていた。
なんだか歳上に諭された様な気分になりテーブルに突っ伏す。冷えたテーブルでアルコールにより上がった体温を冷ましながら、そういえばさっきみたいな言葉を前にも言われた事を思い出した。そう、あれはいつだったかMTCのメンツで飲んでいる時に言われたんだ。
「世間に後ろ指さされたなら、一切合切奪って逃げてしまえばいいんですよ」
そう言ったのは銃兎だった。あの時俺は理鶯と銃兎に一郎との関係について相談という名の愚痴を零していたのだった。
俺は立派な反社というやつで、ディビジョンラップバトルが終わった今、表舞台に立つ必要もなくなり大衆の前に姿を出す機会はほとんど無くなった。対して一郎は老若男女に好まれイベントのゲストや取材などに引っ張りだこ。街に出れば一度は山田一郎の名前を何かしらの媒体で見るような人気っぷりだった。そんなアイツが俺と一緒にいるとどうなるか。その時間が長ければ長い程、反比例して山田一郎が表の世界にいる時間が減っていってしまうのだ。あるいは俺といる事で世間から批判を受けるかもしれない。一郎にはなるべく明るい所で笑っていて欲しい、しかしその反面名前も知らない奴らなんかになんで一郎をやらなきゃいけないんだとも思う。そんな相反した心境を仲間に漏らした時に、バッサリ切り捨てる様に言われたのが冒頭の台詞だった。
「心配するな。小官からみても山田一郎は左馬刻のことを好ましく思っていると思う」
理鶯は知らない方が幸せかもしれない生き物を焼きながら言った。
「傍から見ててじれったいんですよ、貴方達」
銃兎は手に持ってるなにかの串焼きに対してか俺に対してか苦い顔をしていた。
「大体、山田一郎という子にとっては不特定多数に好かれる事より、弟や友達やお前みたいな奴が傍にいてくれる事の方が幸福でしょう?」
世間にどう思われようといいじゃないですか。
「大丈夫、一郎君ならあなたに遅れをとることなくきっと何処までも一緒に走って逃げてくれますよ」
でもまぁ、それでも心配だっていうなら、時間稼ぎくらいはしてやるよ。
銃兎も理鶯も、そして乱数も、恐らく他のディビジョンメンバーも俺と一郎の事を応援してくれている。けれど一度失ったものだからか、俺は柄にもなく臆病風に吹かれていた。しかしいつまでも足を踏み出せずにいた俺を、事態は待ってくれなかった。
それはある朝の事だった。場所は俺の部屋で、目の前には山田一郎、の生霊。しかし目に映る一郎の体は透けていて、その体越しに向こうの壁が透けて見える。山田一郎の生霊が段々消えかけているのだ。いつだったかに会った僧侶は言っていた。『未練がなくなればじきに消える』と。つまり、これは一郎が俺に対しての未練を無くしてしまった、ということではないだろうか。好きの反対は嫌いではなく無関心。こいつが完全に消えたら、俺は山田一郎の中でそこらのヤツらと変わらない存在になってしまうのか。
弟はしょうがない。だがそれ以外はダメだ。あのヘテロクロミアに俺以外の奴がうつるなんて許さない。生霊の肩を掴んでこちらを向かせる。しかし瞳が欠落した顔は俺を捉えない。かつて死ぬ程可愛がって死ぬ程憎んだ顔。一郎を抱きしめ胸に額を押し付け祈るように呟く。
「なぁ、お前はもう俺のことなんてなんとも思っていないのか……?」
『……左馬刻さん』
俺は勢いよく顔を上げる。相変わらず小さい声だが確かに名前を呼ばれた。
『左馬刻さん……また、隣に……』
それだけ言って山田一郎の生霊は忽然と消えた。
俺は車の鍵を引っ掴み家から飛び出す。
目指すはイケブクロ。
消える瞬間に見た生霊には焦がれ続けたヘテロクロミアがあった気がした。
◇◆◇
「左馬刻って幽霊見たことあるか?」
外は雨がしとしとと降っていて、外の音は聞こえない。外界と遮断されたこの部屋で、山田一郎はナイショ話をするように呟いた。俺は恋人にカフェオレがはいったマグカップを渡して横に腰掛ける。
「……ホラーが苦手なくせにどうしたんだよ」
「俺は、あるよ」
あの時も、雨が降ってた。一郎はそう言ってマグカップに口をつける。
「TDDが解散したイケブクロってさ、今までいた強えー奴らが一気にいなくなったからすっげー治安悪かったんだわ。それで、唯一残った俺に突っかかって来る奴がけっこー多くてさ。何回かホントに死ぬかもって思った時があったんだ。そんな時に、俺会ったんだ、あんたの幽霊」
「……」
「見た目はTDDの左馬刻そっくりで、でもそいつ、口がなかった。初めから何も無かったみたいに」
「俺、はじめアンタが死んじゃったのかと思って、すげー数の奴らに追われてるのも忘れてそいつの元に駆け寄ったんだ。そしたらそいつがちょっと離れた所を指さすんだ。さされた所を見たら人ひとりが何とか隠れられそうな物陰があって、俺はそこに朝が来るまで隠れてた。追われてたからあんまり外は見えなかったけど、幽霊の左馬刻の足はずっと見えてた。朝までずっと一緒にいてくれた」
「怖くなかったのか……?」
「全然。口がないからちょっと不気味だったけど、でも、目が優しかったから」
「その後も俺が危ない目に遭いそうになるといつの間にかそいつは現れた。三郎が不良に絡まれてた時も場所を案内してくれたし、二郎が怪我して救急車で運ばれた時もそばに居てくれた。俺がストーカーに付き纏われてた時も、家に強盗が入った時も助けてくれた」
「ストーカーと強盗ってなんだ聞いてねーぞ」
「昔のことだしなんもなかったんだって!」
「その頃お世話になった依頼人の人が亡くなって、お葬式に行った時にお坊さんに呼び止められてさ、言われたんだ。あなた生霊が憑いてますよって。除霊して貰わなきゃだめですか?って聞いたらその生霊はあなたを危険から護っている様なので気にならないならそのままにしとけ、だってさ」
ストーカーや強盗もそうだが一郎の前にも生霊が現れていたなんて初耳だった。けれど考えてみればあんなに執着していたんだ、一郎の前に俺の生霊が現れても不思議じゃない。しかし生霊の俺は相当お節介だったらしい。
「俺、決別したあの時からアンタは俺を嫌ってると思ってた。でも振り返ると相変わらずアンタの生霊は俺にかまうし、俺を護ろうとしてくる。それで思った、多分俺が思うほどアンタ俺の事嫌いじゃない。だからちゃんと話し合うことが出来れば、また隣に立てる。まぁ、そう思えるようになるまで、だいぶかかったけど……」
一郎にも様々な葛藤があっただろうに、壁が崩壊した後俺たちがすぐに和解することができたのはもしかしたら俺の生霊のお陰かもしれない。しかし、
「それにさ、ふふっ……」
「なんだよ……」
一郎がくふくふと笑っている。なんだか嫌な予感がする。
「それにさ、あんたの生霊、2ndディビジョンラップバトル辺りからどんどん出てくる頻度増えてきて……ふふっ。壁をぶっ壊したあとなんて俺が台所で包丁持っただけで心配そうに俺の周りをうろうろして……あんたってほんと過保護!」
お節介すぎる!
「そんなことされたら、もう認めるしかないですよ、パイセン。俺アンタに愛されてる」
「……俺の生霊はどうなった」
「……消えた。ある日突然名前を呼ばれて、驚いて振り向いたら、アンタ笑ってた。無かったはずの口があってさ。それで頭を撫でてきて、最後にひとこと呟いて、消えた」
『いまいく』
「あんまり突然だったからびっくりしたけど、その後すぐ、馬鹿みたいに玄関の扉が叩かれて、それで、汗だくのアンタが真っ赤な薔薇の花束を持って御登場、ってわけ」
アンタ、なんで消えたんだ?そう問い掛ける一郎のヘテロクロミアには俺だけがうつっている。
「さあ、もう頭を撫でるしか出来ないのは嫌だったから、かな」
変わっちまったアンタが見たくなかった一郎ともう一郎を傷つけたくなかった左馬刻の話。