山田一郎、引きこもる 夕焼け小焼けの音で瞼を持ち上げる。窓の外は鮮やかなオレンジ色で今が夕刻であることを教えてくれた。
壁が崩壊してから数年。目まぐるしく日々は過ぎていき二郎と三郎が進学のため、イケブクロを離れることが決まった。兄弟で過ごす最後の夕飯に「遠くにいても耳に入るぐらい萬屋として頑張るからな」と意気込む俺に弟たちは困ったように首を振り、どうか『やりたいことをやって欲しい』といった。
やりたいことってなんだろう。弟たちの願いならば当然それは叶えてやりたいけれど、一郎にはそれがよく分からなかった。
はじめは昔外国の友達に話したように世界を見に行こうかと思った。けれど行きたい国や場所を見つけようにもどうにもやる気が起きない。パスポートの取得も面倒だった。結局一郎はとりあえず始めたはいいものの一向に進んでいなかった荷造りさえも諦めて、トランクの中身を床にひっくり返した。
次に考えたのは元ディビジョンメンバーとの交流だった。壁が崩壊した今、彼らとの蟠りは何も無い。特に昔仲がよかった空却やお世話になっていた簓などに連絡を取って彼らの地元に遊びに行くなんてどうだろうか。そう思い立ち、勇んで開いたメッセージアプリに文字を打ち込み始める。けれど、何故か送信ボタンが押せない。文章はもう完成しているのにそのボタンをタップすることが何故か果てしなく大変なことに思える。
それどころか乱数からタイミングよく来た飲み会のお誘いへの返信すらも何故かとても億劫で一郎は結局スマホの電源を落としてしまった。
その後もなにか思いついては気が乗らなかったり、なかなか行動に移せなかったりという日々が続いた。
そうして山田一郎は理解した。
俺、なにもしたくないんだ
それから一郎は萬屋ヤマダは休業した。一時的に住居も移した。場所はイケブクロから1本で行けるサイタマのターミナル駅にした。この場所を選んだのはここからなら電車の乗り入れでイケブクロ、シンジュク、シブヤ、そしてヨコハマに1本で行くことが出来るからだった。繋がりを完全に切りたくないという小さな意地だったのかもしれない。
そこに小さな部屋を借りて一郎は引きこもった。買い物は通販で事足りるので外にも出なかった。食事も定期便で頼んだ冷凍食品やパン、カップ麺で済ませるため調理器具は最低限しか置かなかった。昼夜を問わずに電子書籍やサブスクリプションでアニメや映画を消化し疲れたらそのまま寝落ちした。そうして夕焼け小焼けが聞こえる頃に目を覚ます。そんな生活が何ヶ月か続いた頃だった。
インターホンの音で一郎は目を覚ました。
「あれ……今日なんか来る予定あったか……?」
回らない頭で「はーい、いまいきます」と言い、ふらふらと玄関に近づき鍵を開けると
「よぉ」
見覚えのある白い男が立っていた。
「え……? 左馬刻?」
「他に誰だってんだ」
「なんでここに……?」
「たまたま?」
「……そんなわけないだろ」
ここはイケブクロじゃないんだぞ。
「まぁいいじゃねぇか。とりあえず入れてくれや」
そういって遠慮なしに部屋に侵入してきた男は暫く見ない間に少し髪が伸びただろうか。
最後にディビジョンメンバーで集まった時は半袖を着ていたな、と思い時間の流れを感じた。
「何もお構いなんてしないからな。茶も出してやんねぇから」
「別になんもいらねぇよ」
そこまで言うなら仕方ない、と一郎は左馬刻に構わずベットまで戻って寝転がり一時停止されていたアニメを再生する。
左馬刻はというと俺の行動に特に腹を立てるでもなくドカっとベッドの横に腰掛けると特に何をするでもなく一郎が見ているアニメを一緒に眺め始めた。変なやつ、構わないと宣言した手前話しかけるのも戸惑われ、一郎は気にしないふりをして画面に視線を向けた。
一郎はここに移り住んでからわざとニュースやSNSなどを見ないようにしていた。だから一郎は左馬刻の近況を知らないが、こんなとこで一郎と一緒にアニメを見ていられるほど暇ではないことは分かる。もしかしたら一郎に何か用があってわざわざ来たのかもしれない。例えば何かの頼み事とか。……それはとても面倒だな、今は何もしたくない。
何か言われる前になるべく早くお帰りいただこう、と左馬刻を追い返す作戦を考えるのに熱中し始めた頃、突然左馬刻に声をかけられた。
「なぁ、ここ爪切りねぇの?」
振り返ると左馬刻の視線の先には俺の両足があった。よく見ると、足の爪がだいぶ伸びていた。
「……ない。邪魔だったらハサミで切ってる」
「……ほぉん」
それだけ言って左馬刻はまた画面に視線を戻した。
そしてまた暫くたった頃、本日2回目のインターホンが鳴った。今度こそ配達だろうか、と一郎が考えている間にヤクザが立ち上がり玄関に向かい、しばらくして芳ばしい香りを連れて戻ってきた。
「もしかして、ピザ?」
先程訪れたのはピザの配達人だったらしい。左馬刻は持ってきた箱の蓋を開け、俺の寝転がっているすぐ側にピザを置いた。恐らくテリヤキだろうそれからは空腹を刺激する香りが絶えず漂ってくる。
「さっき冷蔵庫覗いたらお前ん家なんもねぇからな」
「冷凍食品がたくさん入ってただろ」
「冷凍ばっかじゃ体に悪ぃだろうが」
いいから食え、と左馬刻が言うのでならば遠慮なくと思い湯気がまだ立ちのぼるピザを頬張る。一切れ、二切れ、そして三切れ目に手を伸ばしたところで違和感を感じた。なんか、胃にくる。気持ち悪いかもしれない。
「……ごちそーさん、俺はもういいから、あとはアンタが食べてくれよ」
「お前もっと食えんだろ」
「あんたのだしこれで十分だよ」
「変な遠慮してねぇで食えよ」
「いや、もう無理……」
一郎の言葉を聞いた左馬刻は訝しげな表情をした後
「帰るわ」
と左馬刻はそれだけ言い残し、挨拶もする間もなく家を出ていってしまった。怒ったのだろうか、けどこれ以上食べれそうになかったからしょうがねぇじゃねえか。だいたい左馬刻が勝手に頼んだだけなのになぜあんな態度を取られなきゃいけないのか。モヤモヤしながら一郎はまだ暖かいピザをチラッと眺め、やはりもう食べれそうにないとピザの蓋を閉じた。
「なんなんだよ……」
◇ ◆ ◇
そんなことがあったためもう来ないと思っていた左馬刻は次の日になんでもないような顔をして俺の元に現れたのだった。
「ん」
ん、ってなんだよ、お前はカンタか。ドアを開けた一郎に左馬刻は対面早々そう言って紙袋を押し付けた。咄嗟に受けとった紙袋の中にはいくつかのタッパーが入っていた。
「なにこれ」
「肉じゃが、さば味噌、ぶり大根、白米、豚汁あとは何種類か魚焼いてきた」
「まさかアンタが作ったのか……?」
「俺の料理の腕はお前も知ってんだろ」
左馬刻には昔弟たちと暮らし始めた位に料理を教わったことが何度かあった。それのことを言ってるのだろう。
「お前不摂生してるから重てぇもん食えなくなってんだろ」
きっと昨日のピザで左馬刻は一郎の体調が悪いと思ったのだろう。わざわざ一郎が好きそうな料理を作って持って来てくれるなんて相変わらず面倒みのいい男だ。そんな左馬刻に一郎は呆れつつも昨日は怒って帰ったわけではなかったことがわかりどこか安心した。
「なんか悪かったな、ありがとう。後で食べる」
「あとこれ」
冷蔵庫に丁寧にタッパーを仕舞っていた一郎が左馬刻の手に乗っているものを見るとそれは爪切りだった。
「要らないのに……」
「お前んじゃねえよ。俺が使うんだよ」
そう言って左馬刻は一郎を軽くベットの方へ蹴飛ばした。不意をつかれた一郎はベットに尻もちをつく。
「なにすんだよ!」
「いいから大人しくしてろ」
左馬刻はそう言いながら一郎の足を掴み自分の膝の上に乗せて高さを固定した。そして爪切りを持ち直し一郎の爪を切り始めた。パチン、パチン、という音が響く。
「別に長くても気にしねぇ」
「うるせぇ、俺様がやりたいからやってるだけだ」
「……ふーん」
なら、いいか。
◇ ◆ ◇
それから左馬刻は頻繁に一郎の家を訪れるようになった。一郎は相変わらず左馬刻にあまり構わなかったが左馬刻は全く気にする様子はなく、毎回タッパーを持参して一郎に食事をとらせた後、ある時は爪を保護するためのトップコートを持ってきたり、保湿クリームを一郎に塗ったりと何かしら一郎に対して手入れを施した。それが済んだ後は、もはや定位置となったベットの傍に腰掛け一郎が読んでいる本や漫画を覗き込んだり、一緒にアニメを眺めたりしていた。
一郎は毎回左馬刻に「なんでこんなことするのか」と問うた。それに対しての左馬刻の答えはいつも「やりたいからやってる」だった。
その質問を一郎が毎回聞くのに飽きた頃、一郎は左馬刻にこの家の合鍵を渡した。鍵を受けとった左馬刻はびっくりしたような顔をしていたが、いちいちインターホンの音に起こされるのが癪だから、と言うと「へぇ……」といって鍵をポケットに閉まった。
◇ ◆ ◇
インターホンの音で目が覚める。毎週水曜日のこの時間帯に定期便がやって来る。一郎は玄関の扉を開け配達人が持ってきた定期便のダンボールの箱を受け取りリビングに戻る。定期便の箱を開くとカップ麺やコーラなどお決まりの食品が入っている。そしてその隣には
「定期便から抜くのまた忘れた……」
そこには5個入りひと袋のドリップコーヒーが入っていた。これは2ヶ月前くらいに左馬刻があまりにも頻繁に訪れるから一郎が「これは仕方なく、しょうがないから、次来たら、コーヒーくらいは入れてやる」と言い訳をしながらいつも頼んでいる定期便に追加したコーヒーだった。
けれど左馬刻はそれから一度もここを訪れなかった。一郎はあまりカフェインに強くないため好んでコーヒーを飲まない。そのため消費されることなく増え続けたコーヒーは部屋の隅に小さな山を作っていた。
「別に、俺が勝手に頼んだだけだし」
一郎はそう呟き新しく届いたドリップコーヒーを山の上に置いた。
夕焼け小焼けの音が聞こえる。いつの間にか眠っていた一郎はゆっくり上体を起こすと手元には寝落ちする直前まで読んでいた小説が入ったタブレット。そのままゆっくり視線をあげると机の上には昨日届いた定期便のダンボール。そして椅子に座ってコーヒーを飲む
「左馬刻……」
「よぉ、相変わらずだな」
一郎が起きたことに気づいた左馬刻は一郎に笑いかけた後部屋の隅に積まれたコーヒーを見ながら「お前、コーヒー飲むようになったんだな」と言った。
「アンタにいれようと思って買ったんだよ……」
「もてなさないんじゃなかったのか?」
「別に、コーヒーくらいなら出してやってもいいかなって思ったんだよ。……けどアンタ最近全然来ねぇから」
「それは悪かったな」
別に予定を立てていたわけでもないので左馬刻が謝るのはお門違いである。
むしろこれではまるで一郎が左馬刻が来ないことに拗ねてそれを左馬刻が宥めているみたいじゃないか!
「い、忙しかったのか?」
急に恥ずかしくなった一郎は話題をずらそうと左馬刻に近況を尋ねた。
「あぁ、ちょっと組の方がごたついててな」
「そ、そか、大変だったんだな。けど今日来たってことはそのごたごたは終わったのか?」
「いや、まだもう少し続きそうだわ」
「そうなのか……」
「……それでよぉ、今まで頻繁に来れてたが、仕事終わりにふらっと寄るにはヨコハマからサイタマは流石にちっと遠いんだわ」
「まぁ、そうだよな」
ヨコハマからならなかなかの距離だよな。むしろ今までよくここまで頻繁に来たくれたものだ。
「だから、お前ヨコハマに来いよ」
「え?」
「今の生活を続けるなら別にここじゃなくてもいいだろ」
「それは、そうだけど」
「俺の家部屋が余ってるんだよ。そこ使えばいいだろ」
そうすれば自分家の家事をやるついでにお前の飯の面倒くらいならみてやるよ。左馬刻はなんでもないようにそう言ってマグカップに口をつける。
「……なんでそこまでするんだ?」
左馬刻は幼い子に言い聞かせるように頭を撫でながら言った。
「何度も言ってるだろ。やりたいことをやってるだけだ」
結局一郎は住居をヨコハマに移した。左馬刻の住んでいるマンションの、左馬刻の隣の部屋が一郎の家になった。私物をほとんど置いてなかったため引越しは簡単だった。少しの私物とカバンいっぱいのドリップコーヒーを持って左馬刻の車に乗り込んだ一郎を見て左馬刻は「それ持ってくのかよ」と可笑しそうに笑っていた。
左馬刻が言った通り、一郎が住居を移してもやることは変わらなかった。好きな時間に起きて、ラノベやアニメを見て寝る。お腹が空いたら左馬刻が作っておいてくれた料理を温めて食べた。そして左馬刻が帰ってきたら左馬刻の手入れを受ける。最近は伸びすぎた前髪を切ってもらった。
そんな至れり尽くせりの日々が続いた時に一郎はふととんでもない事に気づいてしまった。
これはもしかして、ヒモというやつではないか?
左馬刻は家賃は変わらないし食事もついでだからという理由で一郎が渡した通帳を受け取らなかった。つまり一郎は今左馬刻に養ってもらっているということだ。
それどころか一郎は仕事から疲れて帰ってきた左馬刻に食事の世話や掃除までしてもらっていた。いつの間にかギリギリ自活できていたひきこもりから降格してしまっている!これはいけない!一郎はいつ以来かぶりにキッチンに立った。冷蔵庫を開け中身を確認し、とりあえず1番自信があるカレーを作った。
帰宅した左馬刻はまず普段自室から出てこない一郎がリビングにいることに驚き、次に用意されていた食事に驚いた。
「一郎、どうしたんだ?」
「これからは、ご飯は俺が作る!」
一郎の宣言に左馬刻は呆気に取られた後、
「いや、無理すんなよ」
「無理じゃねぇって」
「気ぃつかって作ったんだろうけど、別に俺も料理は嫌いじゃないから平気だ」
「そうじゃない!俺がやりたいんだって!」
一郎がそう叫ぶと左馬刻は暫く考えた後
「……お前のやりたいことなんだな?」
と確認をしてきた。
「う、うん……」
「そうか……、なら頼むわ」
「! わかった!」
「冷蔵庫には常に食材があるようにしとくからそれで作ってくれや」
「まかせろ!」
それから一郎は朝ご飯に夕ご飯、それに加えてお弁当を作るのが日課になった。左馬刻に合わせて食事を作るようになったため一郎の生活リズムは改善された。また、せっかく作ったならと、一緒に食卓を囲むようになり左馬刻と会話をすることが増えた。左馬刻とはいろんな話をした。昔の事や最近の事。少し歳をとって落ち着いたのか左馬刻の表情は終始穏やかで一郎はなんだか落ち着かなかった。
◇ ◆ ◇
夕焼け小焼けの音楽を聞いて一郎は慌ててベランダに出る。最近の一郎は食事の時間以外にも左馬刻が家にいる時にはリビングにいるようになった。隣合ってソファに座り一緒に映画を見たり、一郎が読んでる漫画を左馬刻が横から覗き込んだりした。
そして変わったことがもうひとつ。一郎は料理に続き掃除や洗濯も任せて貰えるようになった。ベランダに干していた洗濯物を回収する。日が落ちる前に気がついてよかった。左馬刻の服は高いから特に気を遣わないと……。そう思いながら左馬刻の服を畳んでいるとドアの鍵が回る音がして家主の帰宅を知らせた。
「おかえり! 風呂わいてるぜ!」
「ただいま、洗濯も手馴れてきたな」
「あんたの服オシャレなのばっかだから初めはビビっちまったけど、もう立派な家政婦って感じだろ!」
もうヒモだなんて誰にも言わせねぇぞ!
「はは、お前はここに住んでるんだから家政婦っていうより専業主婦だろ」
左馬刻はそう言ってそのまま風呂場に向かっていった。
「…………え」
専業主婦、その言葉を頭が認識した瞬間体温が一気に上昇するのを感じた。
それからというものの一郎は何をしていても左馬刻の言葉が頭から離れなくなってしまった。
「専業主婦……?家政婦じゃなくて??」
つまり左馬刻は俺のことそういう風に思ってるってことか?いや、ただの言い間違いかもしれないし、だって全然気にした風じゃなかったし! そうだ同居も同棲も意味合い的にはあんまかわらいやそれはぜんぜちが
「一郎」
「ふぎゃ!?」
「……大丈夫か?声掛けてもずっとうわの空だったぞ」
「お、おかえり左馬刻! 飯と風呂どっち先に……飯だな!!」
危ない、自分で墓穴を掘る所だった。一郎は誤魔化すように不思議そうな左馬刻の手を引いてダイニングに向かった。今日の献立はサバの味噌煮をメインに副菜や汁物を添えた和食だ。頭を冷やすために無心で杓文字で白米を盛っていたら凄い量になってしまい左馬刻に「お前それ全部食うのか?」と心配された。食えるし!たぶん……。
「「いただきます」」
ふたりで手を合わせて挨拶をし食事を始める。
一緒に暮らすようになってわかった事だが、左馬刻は口を大きく開いて頬張るように飯を食べる。一郎は逆に小さくもそもそ食べるのでなんだかそれが新鮮で、なんだか可愛くて、左馬刻が豪快に食事にするのを眺めるのが一郎の密かな楽しみだった。
「食わねえのか?」
「いや、食う。あ、そうだ左馬刻食った後に話があるんだけど」
「ん、わかった。コーヒーでも飲みながら話そうぜ」
白米をなんとか全部平らげたあと、左馬刻がいれてくれたコーヒーを受け取ってふたたび机に向かい合って座る。コーヒーをひとくち飲んで一郎は口を開いた。
「それで、話っていうのは買い出しについてで。これからは買い物も俺がしようと思うんだけど、どうかな?」
今までは食料や日用品の調達は宅配と左馬刻におつかいをしてもらっていた。けれど自分で作るならやはりスーパーに直接行っていいものを自分で選びたい。それに、一郎が日中に買い物もするようになったら左馬刻がもっとはやく家に帰って来れるかもしれない。
けれどその提案を聞いた左馬刻は渋い顔をした後「いや、それはやめといた方がいい」と首を振った。
「え、なんで……?」
てっきり左馬刻は承諾してくれるとばかり思っていたため一郎は動揺した。
「暫くは今まで通り宅配か俺が買ってくるから」
「俺買い物だってちゃんとこなせるぜ?」
「それはわかってる。でもダメだ、どうしてもって言うなら俺が帰ってきてからにしろ」
「な、なんで……?」
「なんでもだ」
「やりたいことやれっていつも言う癖に……」
一郎がそう言うと困ったように眉を下げた。あ、ちがう。困らせたいわけじゃないんだ。一郎が慌てて謝ろうとしたが、それよりも早く左馬刻が口を開いた。
「あんまお前には言いたくなかったんだが……」
「うん……」
「今家の周りにはパパラッチが彷徨いてる」
「……へ?」
パパラッチってあのスキャンダルとかを狙うあの??
「なんでパパラッチが?」
「俺が最近まっすぐ家に帰るようになったからなぁ」
特定の奴が出来たと思ったんだろうな。
「そんでもってこれだ」
そう言って左馬刻が机に広げたのは1冊のゴシップ誌。開かれたページにはデカデカと『ハマの王様!女性と同棲!?』という見出しと一緒に左馬刻と知らない女性が歩く写真が写っていた。
「ついでにコイツはウチのナワバリで働いてる嬢で実は将来を誓っている彼氏がいる」
つまり左馬刻は勘違いをされている訳だ。
「なんていうか、大変だったんだな……」
「まぁ、そんな訳で今俺の家の周りにはカメラ持ったヤツらがわんさかいんだよ。だからこういうヤツらの対処に慣れてる俺と一緒ならともかく、一人で行くのはだめだ」
お前がやりたいことなら勿論やらせてやりてぇけどもう少しお預けな、そう言って左馬刻は一郎の頭に手をおいて以前よりもずっと髪質が良くなった髪をかき混ぜた。
「ん、わかった。ごめんな左馬刻、俺自分の都合しか考えてなかった」
「いや、こっちこそ巻き込んで悪いな」
せっかく左馬刻が一郎が今回の件に巻き込まれないように気遣ってくれていたのに結果的になんだか駄々を捏ねたみたいで少し恥ずかしい。
「俺、もっとアンタのためになる事がしたかったんだけど、結局あんたに迷惑ばっかかけてるな」
声に出して、いや、ちがうなと思った。
コーヒーを買っていたのだって本当は左馬刻にもう少し長く一緒にいたかったからだし、料理をはじめとした家事も左馬刻迷惑をかけて嫌われるのが嫌だったからだ。左馬刻のためじゃない。全部自分のためだ。
かつて弟たちが願って一郎が果たせてやれなかった『やりたいこと』を、いつの間にか一郎は、出来るようになっていた。
一郎は左馬刻と一緒にいたかった。
そして多分、左馬刻も同じことを願ってくれてる。
「何回も言ってんだろ。俺様がやりたいからやってんだ」
思えば左馬刻はいつもそう言って一郎のそばにいてくれた。
「なんで?」
いつもはそこで引き下がっていた。
「なんで俺のために色々したいって思うんだ?」
一郎の問いに左馬刻は押し黙る。けれど一郎は、なんとなく答えを知っているような気がした。
「なぁ、アンタなんかして欲しいことないか?」
「ねぇよ、お前がしたいことだけすればいい」
「俺あんたがして欲しいことがしたい」
「……なんでもいいのか」
「なんでもいい」
「なら、……俺を愛して欲しいっていったら?」
「…….それはもうしてるからダメ」
◇ ◆ ◇
夕焼け小焼けで目が覚める。久しぶりにこの音楽で目を覚ました。最近は規則的な生活をしていたが、昨日は朝日が昇るまで寝室でイチャイチャしていたため日中を寝て過ごしてしまった。
のそのそと起き上がり、リビングに向かうと机の上に置いてあるあのゴシップ誌が目に入った。見れば見るほど胃の奥の方がムカムカする見出しである。これを読んだヤツらみんなこの女の人が左馬刻の彼女だって勘違いすると思うと耐えられない。左馬刻はもう俺のなのに。なんとかならないかな……。一郎がゴシップ誌を見ながらうんうんと唸っていると
「起きたのか」
「左馬刻」
俺の代わりに食事を作ってくれていたらしい左馬刻が皿を持ってこちらにやってきた。
「あんま気にすんなよ」
「わかってるけど……」
落ち込む一郎を励ますように左馬刻は一郎の頭を撫でる。そうは言っても気になるものは気になる。
「そういや、久しぶりに元リーダーで飲み会をするらしい「俺も行く!」」
左馬刻はいきなり大声を出した一郎に驚いたように目を瞬かせた。そうだ簡単な事だった。左馬刻がゴシップ誌で騒がれたのは左馬刻に特定の人がいるかもしれないという疑惑があったからだ。ならば名乗り出ればいい。
だって本当の事だから。
「……いいのか?」
「行く!」
「無理してねぇか?」
「行きたい!」
「そうか、久しぶりの外出ならめいいっぱいおめかししてかねぇといけねえな」
「おう!!」
左馬刻は今たくさんのパパラッチにつけられている。ならそこに左馬刻と仲睦まじい姿の一郎が現れたらどうだろうか。くだらない疑惑なんて一瞬で消えるだろう。一郎は玄関で左馬刻の腕を両手で掴む。これならどこからどう見ても付き合ってます!って感じに見えるはずだ。そんな一郎の企みなど知らない左馬刻はそんなに引っ付いたら変な写真撮られちまうぞ?っと困ったように笑う。この笑顔をずっと1番近くで見ていたい。
引きこもってる場合じゃない!!
おまけ
腕の中の暖かい温もりが僅かに動くのを感じて目を覚ます。瞼を開くと腕の中には愛しい存在。カーテンの隙間から覗く太陽の光はオレンジ色に輝いていて、時刻がもう夕方であることを示している。まだ夢の中にいる一郎の髪を撫でる。可愛そうな山田一郎。悪い大人に捕まっちまって、もう一生離してなんかやんねぇ。ひとしきり一郎の寝顔を眺めた後、
ゆっくり身を起こして一郎を腕の中から解放する。寒くないように掛け布団をかけ直してやってから俺は1人キッチンに向かう。昨日は無理をさせてしまったし、最近食欲が戻ってきた一郎が起きた時に何か食べれるよう何か軽く作っておこう。
出来合いのもので簡単な料理を作り、一郎を起しに行こうとすると、一郎はいつの間にか起きてきていてリビングで昨日見たゴシップ誌を前に何かを考え込んでいる様子だった。
それを見て、ふと、悪い考えが閃いてしまった。
「あんま気にすんなよ」
一郎に声をかけると「わかってるけど……」とやや不満げな返答が帰ってくる。大丈夫だ一郎。お前がこの問いに上手に答えてくれさえすれば。俺は一郎に自分が望んだ答えに辿り着り着きやすそうな話題をわざと振った。
「そういや、久しぶりに元リーダーで飲み会をするらしい「俺も行く!」」
一郎が間髪入れずに返事をする。上出来、俺は満足気に笑う。俺の家は今パパラッチに囲まれている。そんな中、1年近く失踪していた筈の山田一郎が、突然俺の家から現れたら?もしかしたら、人によっては俺が軟禁していたと思うかもしれない。けれどその山田一郎が俺によって磨きあげられたおかげで以前よりずっといい男になっていたとしたら?そしてその山田一郎が俺様と仲睦まじくしていたとしたら?きっとどのゴシップ誌も俺と一郎のことを報じるだろう。そしたらもう、名実共に山田一郎は俺のものだ。
そんな俺の企みなんて知らない一郎は元チームメイトに久しぶりに会えるのが楽しみで仕方ないといった様子で俺の腕をとって嬉しそうに笑っている。俺はそんな一郎を愛おしく思いながら隠れているであろうパパラッチにだけ見える様中指を立ててやった。
せいぜい盛大に騒いでくれや