カクテルパーティー効果たまには、こことは違う場所で歌ってみないか。
刺激も必要だろうという彰人の提案に対し、全員が賛同した。そこから、彰人と冬弥が歌ったことがあるという、神高やWEEKEND GARAGEがあるこの地域からかなり離れた場所にあるスタジオで歌わせてもらうことになり、何時にどこで待ち合わせよう、と決まるまでは順調だったのだが。いざ当日集まると、街は人で溢れていた。
「あー、マジか。朝より確実に人が増えてんな」
「そうだね…。日曜日のお昼だからかな」
杏と冬弥より一足先にこの街に着いていた彰人とこはねが、口を開いた。2人とも練習が始まる前に済ませておきたい用事があったようだ。わざわざ内容を聞くのは野暮だと分かっていても、ついつい気になって聞きたくなってしまう。杏はそれをグッと堪えて、今から向かうスタジオに意識を向けることにした。
「まあ、人が多いのはこの際しょうがないよ。たまたま出演枠が空いてたのがこの時間だったんだし」
「ああ。それより、少し急いだ方が良いかもしれない。あまりモタモタしていると、時間が無くなってしまう可能性がある」
杏の隣にいた冬弥が、スマホのロック画面に映し出された時間を3人に見せる。現在時刻は12時46分。4人が歌う時間はもう少し先だが、ここから割と歩く上に、スタジオに着いてからのアップの時間も必要である。あまり悠長にしている時間は無さそうだった。
「うわっ、やべえな。さっさと行こうぜ。アップの時間が減っちまう」
「確か、スタジオはあちらの方向だったな」
「あー、途中までは覚えてる。とりあえずこっから抜けねえと」
彰人は3人に背を向け、冬弥が指さした方向に一歩踏み出すが、何を思ったのかくるっと振り返り、こはねと杏に対して釘を刺すような視線を向ける。
「お前ら、はぐれんじゃねえぞ。特にこはね。ちっせえんだから気をつけろ」
「う、うん!」
「もー、これくらいじゃはぐれないってば!」
杏は心配しすぎだと軽く笑う。万が一はぐれたとしても、連絡を取り合いつつスマホのマップを見れば合流できそうなものだが、心配する必要があるのだろうか?
「冬弥も別に後ろ歩かなくていいよ!大丈夫、私がこはねを守るから!」
「そういうことではないのだが…」
仲間である彼を、まるでSPのように後ろに付かせるのはさすがに気が引ける。彰人の隣に行くよう、彼の背中をぐいぐいと押す。
「じゃ、私たちは2人についてくから!道案内よろしくね」
「ったく、しゃーねえな。行くか、冬弥」
「…ああ」
歩き出した2人に、杏とこはねはついて行く。
…。
歩き出して何分経っただろう。やはり、人が多いと歩きにくい。前の2人がゆっくり歩いてくれているのは分かるのだが、人を避けながらだと、気づけば間隔が空いてしまう。確かにこれは、気を抜くとはぐれてしまいそうだ。
「…ちゃん、杏ちゃん、大丈夫?」
こはねの呼びかけに気づく。隣にいるこはねの声すらも聞こえづらいほどの騒がしさに、杏は少し疲れを感じていた。大きな音には慣れていても、騒音は別である。
「あ、ごめん!大丈夫だよ!こはねは?」
「私も大丈夫!もうちょっと歩けば抜けられるって、東雲くんが言ってたよ」
…なんとなく、こはねが彰人の名前を口にすることが多くなったような気がする。それも、普通に呼ぶのではなくて、少しだけ嬉しそうに呼ぶようになった。
彰人もそうだ。彰人のこはねを見る目が、杏には、前とは少し違ったものに見えた。やはり、この2人は何か隠しているのではないのだろうか。冬弥なら何か知っているのだろうか。2人、ないしは3人に隠し事をされていたとなると、ショックだろうなと杏はぼんやり考える。
「…ねえ、こは………あれ?」
隣にいたはずのこはねの姿が見当たらない。焦りを感じて前に視線を移すと、見慣れたはずの冬弥と彰人の後ろ姿が無かった。
(…やば、はぐれた!?)
慌ててスマホを取り出し、タップしたものの、画面に光は灯らなかった。
「あ、」
…スマホの充電が切れている。昨晩スマホの充電をし忘れたまま、持ってきてしまっていたようだ。
「やば…」
どうしよう、と杏は棒立ちになる。スタジオに向かうにも、道が分からないし、人に道を聞くにも、肝心のスタジオの名前を覚えていない。昨日の夕方ごろだったか、彰人がグループラインに、スタジオの場所と共にウェブサイトのURLを送ってきてくれていたような気がするが、スマホの充電が切れている今、確認する術は無かった。駅に戻ろうにも、このあたりのことが詳しく書かれた地図なんて無かった気がするし、そもそも小さなスタジオだと言っていたから、地図にちゃんと載っているかどうかも怪しい。
このまま帰るしかないのだろうか?せっかくグループとして歌わせてもらえるチャンスなのに、自分のせいでそれを無駄にするのか?
例え杏がいなくともあの3人ならばやり切るだろうが、当日になって1人が来られなくなったなんて印象が悪すぎる。何にせよ、どこかしらに迷惑がかかってしまうのは間違いない。
「…こはねー!彰人ー!冬弥ー!」
そんなのダメだと自分を奮い立たせた杏は、人に見られて恥ずかしい気持ちを抑えつつ、仲間の名前を呼ぶことにした。はぐれたのがいつのタイミングかすらも分からないが、このまま棒立ちになっているよりはマシだと声を張り上げる。
「っ、こはね!」
足を引っ張りたくない。
「彰人!」
迷惑をかけたくない。
「…冬弥!」
置いていかれたく…ない。
「…っ、」
何度名前を呼んでも返事は来ず、口を閉ざしかけたその時だった。
「……白石!!」
冬弥が、人をかき分けながらこちらに向かって来ていた。真っ直ぐな瞳も、綺麗な声も、間違いなく彼のものだった。杏は安堵と喜びと驚きでいっぱいになった。
「冬弥!なんで…!」
「白石…良かった」
彼の目が安堵に変わったかと思うと、杏は冬弥にぎゅっと抱きしめられた。
「!?えっ、え、と、とう…」
杏は目を白黒させる。冬弥に抱きしめられたと頭が理解する前に、杏の心臓は破裂しそうなほど高鳴っていた。誰かにこんなに強く抱きしめられたのは初めてだ。ましてや、異性になどもってのほかである。隣にいる時、たまにふわっと香ってくる冬弥のいい匂いに包まれ、いよいよ杏はまともな応答が出来そうになかった。
「心配した。ラインは既読がつかないし、電話は繋がらないし…何かあったのかと」
「…ごめん…探しに来てくれた、んだよね」
「…そうだ。無事で良かった」
私たち付き合ってないよねとか、ここめちゃくちゃ人がいるのにとか、杏は言いたいことがたくさんあったが、自分を見つけてくれた彼に一番に言わなければいけないことがあった。
「冬弥、ありがとう…見つけてくれて」
「…ああ…」
冬弥は絞り出すように返事をするが、次第に冷静になってきたのか、パッと杏を抱きしめていた手を離した。顔に出ないと言われている割には、やってしまったと分かりやすく顔に書いてあった。
「す、すまない!俺は、女性になんてことを…」
まるで取り返しのつかないことをしたと言わんばかりに青ざめる冬弥の表情に、杏はつい笑いそうになるが、ハッと気付いたように冬弥の両肩を掴んだ。
「そうだ、イベント!私のせいで…!ねえ、まだ間に合う!?」
「あ、ああ、それは心配しなくていい。機材トラブルがあったようで、スケジュールが押した結果、俺たちの出番は夕方になった」
「な、なんだ……良かったあ……」
へにゃりと杏の身体から力が抜ける。そんな杏の様子を見てか、冬弥はスマホを取り出した。
「…とりあえず、彰人と小豆沢に連絡する。それから、近くに公園があるようだし、そちらに移動して休憩しよう」
「あ、うん。ありがとね」
休憩と言われても、自分が勝手にはぐれて一方的に迷惑をかけただけなので、休むべきは冬弥なのだが。公園に着いたらジュースを奢ろう。簡単に受け取ってはくれなさそうだが。
…
「彰人と小豆沢から返信が来た。合流できて良かったと」
予想通り、それは白石が飲むべきだ、と杏が買ったジュースを受け取ろうとしない冬弥に対して、杏は半ば強引にジュースを押し付けた。冬弥は一口それを飲んだ後、トーク画面を杏に見せた。
「あー、彰人絶対怒ってるだろうなー。こはねも絶対心配してただろうし。後で謝んなきゃ」
眉間に皺を寄せている彰人と、心配そうに眉を下げるこはねの姿が容易に思い浮かぶ。
「いや。白石がはぐれたことに気づかなかった俺たちにも非はあるし、彰人もそれを分かっていると思う」
「いやいや、悪いのは私だって!そもそも、スマホの充電をちゃんとしてたらこんなことにはならなかっただろうし…それに、今考えたらコンビニで充電器を借りたら良かったなって。お金はあったんだし」
杏はベンチの背にもたれかかりながら、空を見てぼやく。やはりあの状況では頭が回らなかった。落ち着いて考えれば思いつきそうなことなのに、よほど動揺していたんだなと杏は他人事のように思う。
「ああ、確かに…その方法があったか」
「はぐれる前、色々考え事とかしてたし…なんかぼーっとしちゃってたのかも」
「考え事?」
しまった。まだ彰人とこはねのことについては自分の中で整理できていない。こんなあやふやな状態で、あの2人は何か隠しているのかと正面から聞く勇気はさすがに無いので、慌てて誤魔化す。
「あ、…な、なんでもない!それよりさ、よく私がいる場所分かったね?」
「ああ。白石の声が聞こえたからな」
普通に誤魔化されてくれた(多分突っ込まないでおこうと決めたのだろう)冬弥に安心していた杏は、冬弥の一言に驚いた。
「え、あんな騒がしいところで!?凄いね、冬弥!耳が良い人ってそこまで聞き分けられるんだ!」
「……耳が良いだけで、人の声が聞き分けられると思うか」
「え、」
冬弥の声が低くなった。黙ったあと、真っ直ぐに瞳を見つめてくる冬弥に、杏はドキッとした。そのグレーの瞳に見つめられていると、こっちの考えや気持ちが全部見透かされているようで、ちょっとだけ杏は冬弥の瞳が苦手で、でも、好きだった。
「…白石…お前に、二つ伝えたいことがある」
「…え、どうしたの、冬弥?そんな真剣な顔して……」
改まってそういう顔をされると、こっちも身構えてしまう。空気が張り詰めているような感じがする。杏はこういう空気があまり得意ではない。冬弥が何を言い出すのかと、彼の出方を伺ってしまう。
「…先程はすまなかった。交際してもいないのに、抱きしめてしまって…。本当に悪かった」
「あ…あ〜、そのこと!別にいいよ、気にしてないし!」
気にしていないというのは全くの嘘で、実の所さっきから抱きしめられた感覚が離れず、冬弥との会話にいまいち集中出来ていない。冬弥は杏の答えを聞いて何を思ったのか、杏の瞳をじっと見つめて、重い口を開いた。
「…俺は、お前のことが好きなんだ。お前の声が聞き分けられたのも、お前の声が好きで…特別だからだと、気づいた」
「……え?」
杏の大きな瞳がさらに大きく見開かれる。聞こえなかったのかと思ったのだろう、冬弥はもう一度言い直した。
「俺は、白石のことが好きだ。お前の声が…」
「ち、ちが、聞こえてないわけじゃなくて、…えーっと、どういうこと?」
「…人は、多くの音の中から、自分が必要としている情報だけを無意識に選択することができるらしい。それを、カクテルパーティー効果と呼ぶらしいんだが…俺にとっての必要な情報が、白石の声だったということだ」
「ことだ、って…」
目を泳がせて狼狽える杏の視線を逃さないと言わんばかりに、冬弥の瞳が杏をしっかりと捉えている。突然の告白と、向けられたことのない熱い視線を向けられて、杏の思考はぐちゃぐちゃになる。確かに、抱きしめられた時から、彼から自分に向けられている感情は、仲間としての感情だけではないのではないかと思っていた。思っていた、が、こんなにすぐ答えを出されるなんて、杏は思ってもみなかった。
(冬弥が、私のことを好き?私の声が好き?私のことが特別??)
杏の中に喜びの感情と、幸せな気持ちがじわりじわりと広がっていく。あの冬弥が自分のことを好きだと言ってくれている。その事実が、杏をどうしようもなく嬉しい気持ちにさせた。
「…白石…1人の異性として…お前を好いているんだ」
「わ…わかった!わかったから、ちょっと静かにして!あと、ちょっと離れて!」
更に追加攻撃を仕掛けてくる彼に、杏は頭と心臓がおかしくなりそうになったので、一旦黙ってもらうように嘆願した。杏は今日、冬弥にたくさんの初めてを奪われている。抱きしめられたのも、真っ直ぐに、あれほど熱く見つめられたのも、真剣に好きだと告白されたのも初めてだったというのに。それが数十分の間で全部彼に掻っ攫われてしまった。さすがにキャパオーバーが近かった。杏の頭は今、冬弥のことでいっぱいだった。
「突然ですまない。…お前を見失ってしまった時、俺が側にいるべきだったと酷く後悔した。それと同時に、白石のことを大切に思う気持ちが溢れてしまって」
「…」
冬弥が目を伏せる。その表情を見て、杏は自分からも何か話さないと、と震える唇で、必死に言葉を紡ぎ出す。
「…私は…私は、好きとか恋とかよく分かんなくて…今は音楽が私にとっての一番だから、全然、そういうのは考えてなかったっていうか…」
「…ああ」
好き、という言葉一つでこんなに恥ずかしいとは。顔から火が出そうだ。冬弥が静かに、落ち着いて話を聞いてくれていることを感じて、杏の強ばった身体から少しずつ力が抜けていく。
「でも、冬弥が、私のこと好きって言ってくれて、すごく嬉しかった。すっごく幸せな気持ちになったんだ…。」
「…!」
杏の言葉に嬉しさを隠せない冬弥が、杏の次の言葉を待っている。
「…ね。冬弥のこと、好きになってみてもいいかな」
杏がようやっと冬弥を真っ直ぐ見つめ返し、問いかけると、冬弥は若干だが顔を赤くしながら、微笑み、頷いた。
「ああ…!」
冬弥が、右手を杏の左手に重ねる。先程の力強い抱きしめ方とは打って変わって、まるで壊れ物でも扱うかのように、そっと。
「白石。お前が俺を好きになってくれるその日まで…いや。それからも、俺はお前のことを幸せにできる、誇れる男であってみせる。俺のことを、見ていてくれるか」
「…うん、見てるよ。ずっと」
…
「んで、冬弥。お前に聞きたいことあんだけど」
イベントの翌日。平日なので、冬弥たちはいつも通り学校に行く。今は昼休憩の途中である。彰人は菓子パンを食べ終わると、目の前でパンを咀嚼している冬弥に質問を投げかけた。
「昨日の本番、お前はやけに調子が良いし、こはね曰く杏は妙に艶やかだったらしいが、お前、なんかしたか」
「…」
彰人とこはねが変化に気づかないわけがないとは思っていたが、こんなに早く指摘されるとは思っていなかった。冬弥は、何と答えるべきか考えながら缶コーヒーを手に取った。
「…まあ深くは聞かねえけど。あんま杏のこと刺激してやんなよ。あいつああ見えて防御力低いんだし」
「ああ、分かっている。とても可愛かった」
冬弥の表情は、無表情からやってしまったと言う表情に変わるが、一方で彰人はやっぱりなと面白そうに口角を上げた。
「やっぱ何かしたな?おい、詳しく聞かせろよ」
「…彰人、ニヤニヤするな」
事の顛末を聞き出されるまであと数分。