歳日は沈み、あたりは静まりかえる中、一心不乱に獲物を振る。夜闇に慣れ、視界は非常に明瞭。槌を振り下ろしている瞬間が、最も五感が冴えわたっている。背後に何者かの気配を感じる。視線。コルバンを握る。足を踏み込む。重心移動。呼吸。肺に酸素が満ちる。その瞬間に最も高い打点に到達する。あとは鉄塊を落とすしかない。血流が張る。そして――耳に届く、鉄の擦れる音。視界の端に捉える、鉄の肩に息が詰まる。
温度のない、金の瞳。
「熱心だな」
男は鈍器を当てられそうになったにも関わらず、眉一つ動かさない。
コルバンを引き、地面に突き立てる。汗が額を伝った。
「……殴られたいのか」
気が昂ぶったまま、殺意を隠そうともしないまま、言葉が滑り落ちる。
「お前は殴らない」
男の眼が俺を射抜く。瞬きひとつせず、身動ぎひとつせず、平静に射抜いた。
俺はバレットを見返し、視線を外す。槌を持ち直し、置いておいた布を手に取った。
「………なにか、用事だったか」
まだ、呼吸が荒い。戦闘の余韻が残る脳が茹だる。
「いや。これと言って用事は無い。ただ、見かけたから立ち寄った、そんなもんだ」
あとはこれだな、と言い、男は水袋を渡す。タプ、と水の音がした。
がしがし、と乱雑に布で頭部を拭い、渡されたものを見る。
「なんで」
困惑した声がやけに響いた。
「ただの差し入れだ。必要ないなら持って帰る」
そう、まるでなんでもないことように彼は答える。
「いや……助かる」
俺は水袋を受け取ってその蓋を外した。
「よくやるのか」
彼は俺の獲物を指さす。夜一人でこんなことをしているのか、と。
「そうだ。体が忘れないうちに」
喉を鳴らしながら水を流し込んだ。口に含んだ液体は、ほのかに酸味と甘さがあり、爽やかな風味が口の中に残る。
「それは殊勝な心がけだな。……今更なんだが邪魔だっただろうか」
「………いや、別に……」
こく、と喉が鳴った。
「一人でやっているときに話しかけられることは何度かある」
「そうだったのか。それは…パーティメンバーにか?」
前に来たのは……。
「そうだな………過去に」
――眠れない日、とか、ありますか。
あれは一体いつだったか。
「お前はこの時間日記を書いてるんじゃないのか?」
「書ける時に書く。今日の分は既に書き終えた。決まった時間に書く訳ではないよ」
それで、と彼は続ける。
「今日はどのくらい続けたんだ。鍛錬は」
若干、バツの悪いような。
今日は特に長く槌を振るっていた気がする。
「覚えてない。飽きるまでやる」
自分が気が付かないうちに相当な時間が経過したように思う。星の位置が回っている。
二…三…?
「………だが、体感で一時間程度、だと思う」
正直に言うのはやめた。
「おおよそ一時間振り続けていた。そうだな?」
バレットが念を押して確認する。
「…………そうだけど。悪いか」
黄金の目から逃げるように視線が宙を泳ぐ。
多分、一時間だった。覚えてないが。布を首元に当てて呼吸を整える。
「いいや。努力を重ねることは良きことだ。咎めているわけではない。ただ、そろそろまとまった休憩を推奨する」
彼は俺の腕を指さす。
「体感しにくいだろうが、今、お前の腕には疲労が溜まっている。このまま振り続たら腕を壊してしまう」
「………そう、なのか。…………」
そうだろうな、と。
呼吸が落ち着くとともに、徐々に普段の落ち着きを取り戻していく。夜風がひんやりと身体を冷やした。
「それと、汗を拭き取り終えたらストレッチをしよう。放っておけば最悪翌日に響く」
「それは……そうだな。やっておく」
水袋のレモン水をまた口に含んだ。
「口煩くてすまないな。ただ、腕を壊して欲しくないという老婆心だ」
「いや、そんなことは。…………前も気になったんだが、老婆心って………。お前、俺と変わらないだろう」
なんの気なしに触れたことだった。
「別に、意味は通るんだが。………使われると困惑する………」
彼の言う”親切”を、同年代からそんな風に言われるのは、いい気がしなかった。
「年上が用いるものとして限定された言葉ではない。あくまで余計なお世話ながら用いたんだ。実際指示ばかりだったからな」
男は銀の手を口元に当てる。
「俺とお前は……そうだな。年齢は近いのだろうが。お前はいくつだ」
「十六……間違ってなければ」
奴隷商に売り飛ばされたときに、若い男が俺を五つと言っていた朧げな記憶しかない。
男は目を見開き挙動を止める。
「……なんだよ」
「………年上、だったとは」
「は……?」
こちらが?
「大変無礼を…」
と、バレットが目を逸らす。
「……は?」
無礼?
「私は………一応、十三、です。一応」
十三。
「そうだったか」
寿命もそうだが、成熟速度にも種族差が出るな、と思った。
「………それで。お前、俺と対等じゃなくなるのか?」
お前が”友”と言ったんだろ。
無礼って一体なんだ。
「そう、そうですね、そうなんだが………少し待ってくれ、良くない、よくないぞこれは」
男は口元を手で覆い、焦りが見える面持ちで俯く。
「それで態度を変えるなら………。そもそも、短命種のメリアはパーティ最年少だろ今更なんなんだ」
手元にコルバンがあるのが非常にまずい。がつ、がつ、と地面を抉る。
「うん、うん、そうだな、そう」
男は最終的にしゃがみ込み、挙句の果てには銀の腕で側頭部を叩いた。
ガンッと硬い音が鳴り、一瞬の沈黙の後立ち上がる。
「すまない。取り乱した。お前の言う通り、対等であるべきだ」
その眼はいつもの温度のない瞳に戻っていた。
それで戻るのか、お前。ルーンフォークの構造はよくわからない。
「年功序列で態度を変えることはしないと決めたのに…」
そう、小声で苦々しくつぶやいた。
「分かったなら、それでいい。お前も早く休めば」
「ああ、有難う。しかし、俺はお前に押し付けたことを反射的に反故にしてしまった。この非礼を詫びねばならない。なにか、出来ることはないだろうか」
「……は?」
真剣な顔付きから、至極真面目に話していることは分かる、のだが。
「気にしてない。お前も気にするな」
面倒くさい。
お前、自分で叩いて直したんだろ。よく分からないが。
「………今日はお前を不快にさせてばかりだな」
と、目線を下げる。
「気にしてないって言ってる。今までのことも、お前の指摘は正しかった」
なんだ、この、言いようのない、違和感。
言葉にすらならないが、何かを見落としているという予感がする。
「………そう、なのか」
目線を僅かに向ける。
「…俺が今までお前に押し付けてきたことは…今は、まだ、正しいものとして在るのか」
再び目線を落とす独り言ちる。
「俺は押し付けられたと思ってない。俺は、そう思ったら、そう言ってる」
俯き、沈黙したのち、
「そうか、そう、なのか。それは……よかっ、た」
その声は弱々しく、動揺しているように聞こえた。
それが何に起因するものなのか分からなかった。ただでさえ、言語化できないもどかしさが俺の中で燻っているというのに。
「――俺は話すのが得意じゃない。それに、言われないと分からない。ちゃんと言え。お前、俺に言いたいことがあるのか」
「言いたいこと…」
語気が自然と強くなった。
一陣の風が吹き抜けていく。
「主体的に話したい事柄があるか、という意味だろうか。だとしたら、主体的には…」
再びの沈黙の後、男は口を開く。
「迷惑じゃなかったかを知りたい。 俺は、お前とそれなりに話してきた。“言えそうであれば言って欲しい” 、“死んでしまったら悲しい”、 “色んなものを見ろ”などと… 煩わしいと思ったことがあるのであれば修正したい」
――?
男が一体何を恐れているのかが分からなかった。恐れている、とはまた違うかもしれないが。
「煩わしい……とは、違うと思う。だが、お前からもらった言葉は、自分でも考えるようになった。きっかけ、という意味では煩わしいと思ったことはない」
誰かと話すということは、少なくともそういう側面があるのだとようやく分かるようになってきた。
「――お前も言えないことがあるんだろう。俺も死んだら、悲しいと思うだろうし、いろんなものを見る必要があると思う。これは俺が、どうやってそれと向き合うのかという問題だ。お前はきっかけに過ぎない」
俺がお前の言葉をそう考えたのと同じように、お前もまた、そうであればいいと思う。
「向き合う…きっかけ……」
男は俺の言葉を反芻し、やがて沈黙する。
暫くした後、面を上げた。
「やっぱりキースは強いな」
眉尻が下がり、口元は緩み――困ったように微笑んでいた。
「人の言葉を選択肢として取り込める行為は、人を受け入れる余裕がある者にしか出来ないんだぜ」
そう、続けた。
余裕、という言葉は、一体。
俺に本当にあるものか?
「まるでお前自身は違うというように聞こえるな。………お前が言った『余裕』は、おそらく俺の中身が空だからだ」
お前の感じた余裕とやらはきっと違う。
俺に何も入れるものが無いだけだ。
「空…」
噛み締めるように俺の言葉を繰り返す。
「お前が空だから、他人の意見を受け取る余裕があった……それは、否定も肯定も出来ない」
言葉を選んでいる静寂ののち、彼はゆっくりと続きを連ねる。
「しかし、お前は何も無い空っぽな存在である、というのは違うと思う」
俺を映す眼――苦渋と真っ直ぐな意思が綯交ぜとなり、男の中の葛藤がありありと沸き立つ。
その言葉の真意を掴みかねていた。葛藤の奥に揺れるものがあるような気がした。刹那に瞬いたそれを正確に捉えることはできない。言葉を接ぐことはしない。急かすこともない。ただ、言葉の続きを待っている。
「お前は…歳を十六と言ったな。ならば少なくとも十五年間弱のキースが“在る”。苦しみも、怒りも、喜びも、忘れたいことも、消したいことも、それら全てがキースだ。かつての己を亡きものとして…否定してやるな。それもまたお前なんだ」
「俺はまだ、お前のことを僅かにしか知らない。故に俺の言葉はあまりにも軽い……ただ、ただ……今は受け入れなくてもいい。否定しないでくれ、と……言いたいんだ」
金の双眸が俺を穿つ。
「今のお前を構築しているのはかつての君だ。いつかきっと、過去の重み必要になってくる」
そこには、確固たる意思と重みある悔恨が見えた。まるで、その身で経験してきたように。
揺れる。
”過去の重みが必要になってくる”。
俺の過去も、必要になる日が来ると?
あの日々。途轍もない嫌悪感が脳裏に蘇る。多くの理不尽、罵倒、暴力、差別、不当、貧困、飢餓。社会から隔絶され、たった一人を頂点とした絶対法の下に形成された異常空間。
あれの下に蠢いているのは死体だ。
「………俺は、ようやく息を始めたんだと思っていた」
考え続けなければならない。それが、苦痛だった時もあった。
「名を、与えられて生まれた、というような話を前にしなかったか? 俺も、それと同じじゃないか、と」
多くのことを考える。何が正解で、何が最優の答えなのか。
「息を始めた瞬間はお前が自分で物事を考え始めたきっかけであって、お前という存在はそこに在る、と俺は考えている。お前の問いに答えられているかわからないが。もし違うのならば言ってくれ」
男は”在る”という事実を否定しない。
俺が持て余しているものを、お前は拾おうとするのか。それがなんであるのか知らないまま。
「否定………したいというのは確かにある。俺はずっと死んでいて、ようやく一年前に自分で生き始めた」
コルバンを握りなおす。
誰が何と言おうと、これだけは自分のものだ。
「たくさんのものを得た。多くを学んでいる。今は、それしか、言えない」
彼は頷く。
「それでいい。十分だ。俺の話を聞いてくれてありがとう」
「………答えにはなっていないな」
身体と頭脳を両方動かした感じがする。
いつもより、数倍の疲労感。
「今すぐ答えを定める必要は無いんだよ」
彼は俺を一瞥し。
「時間をとらせて悪かった。俺はそろそろ戻る」
彼はまた温度を悟らせない瞳を瞬かせる。
「……声をかけられなければ、何も考えずに振るっていた。明日に支障がでれば元も子もない。……だから、気にするな」
夜風が髪を撫でる。長い前髪が宙に浮いた。
「俺も少ししたら戻る」
「ストレッチ忘れるなよ」
男はまた肩を軽く叩き、去っていった。