定時10分前。日報を書き終えた。全てのメールに返信した。今日中にやらなければいけないタスクは全て終わった。出先から直帰すると言っていた宇佐美からは先に店で待っているとメッセージが来ていた。
定時5分前。隣に座る谷垣がブヒィと鼻を鳴らした。うるせえぞと文句を言うために横を向いたら谷垣が泣いていた。
「は? お前なんで泣いてんの?」
「お、おがたしゅにん……しごとが……終わらないです……娘の誕生日なのに……!」
「あと5分で終わらせればいいだろ」
そんなことができればコイツは泣いていないのだが。案の定「むりです……」と蚊の鳴くような声で谷垣が言った。
代わってやりたいが、今日は俺と宇佐美が付き合って3年目の記念日なのだ。記念日は有古の店で美味い飯を食うと約束している。宇佐美はもう着いていると言うし、俺も定時退勤を決めたい。
定時3分前。谷垣が泣きながらキーボードを叩いている。俺は全てのフォルダを閉じて、PCの電源を切った。宇佐美からは奇妙なウサギのスタンプが嫌がらせのように送られてくる。
「谷垣ーまた泣いてんのかよ」
「どうしたどうした?」
双子が谷垣に絡んでいる。娘の誕生日なのに仕事が終わらないと嘆く谷垣に、二階堂たちは「じゃあ代わってあげるよ」と提案した。それは申し訳ないですと断る谷垣を無視してむりやり仕事を聞き出す。
「結構あるなあ」
「明日にしちゃえば? 多少遅れても大丈夫だよ」
「えっと、これだけは……尾形主任が明日、朝イチの会議で使うものなので……」
「は?」
思わず立ち上がった。谷垣の顔が真っ青になっていた。
「お前……まだあの資料作ってなかったのか? 俺言ったよな、早めに作っておけよって。2週間前にお前にタスク振ったよな? 難しかったら相談しろって言わなかったか……?」
「あ、あの……すみません!」
キーンコーン。間抜けなチャイムが鳴った。18時だ、終業時刻だ。
「……ッチ、もういい俺がやる。お前は帰れ」
「いえ、でも……」
「2週間あって資料作れねー奴が数時間で作れる訳ねーだろ! 足手纏いだ帰れ!」
自席のPCを立ち上げ直した。2時間で終わるだろうか。明日の朝早く来て……7時に出社して終わるくらいまでは進めておこう。
「主任、やっぱり俺やりますから!」
「いい、お前の代わりなんぞいくらでもいる。けど……子どもにとっては、父親はお前しかいないんだから。誕生日なんだろ」
明日からは終電まで働けよ。そこまで言って、谷垣はやっと引き下がった。
「ありがとうございます……!」
「尾形主任、さっすがぁ」
「よっ、上司の鏡!」
「うるせえぞ二階堂兄弟、お前らは谷垣の仕事やれよ」
資料作成以外の仕事を洋平が、資料作成の半分を浩平がやってくれることになった。
宇佐美に連絡を入れておこうとスマホを触ったが、一向に画面がつかない。電源が切れた。3日充電してなかった上に宇佐美のスタンプ爆撃が致命傷になったか。
「おい谷垣」
帰る直前の部下を呼び止めた。
「モバイルバッテリー貸せ。それでチャラにしてやる」
ついに月島課長もいなくなったオフィスで屍が3つ。乾いた目でモニターを見つめながら一心不乱にキーボードを叩く。
「業務フロー図作成完了ー」
「洋平おつー」
「谷垣〜あいつどんだけ仕事溜めてたんだよー」
「なぁ、これ充電できてんのか? スマホがうんともすんとも言わねぇんだが」
洋平が手を上げてぐっと背中をそらす。ついでにちらっと俺を見て「それ、バッテリー自体がそもそも充電されてないんじゃない?」と呟いた。
「俺は充電されてないモバイルバッテリーで谷垣の愚行を許してしまったのか……?」
「ソウナリマスネー」
ムカついて谷垣の椅子を蹴り飛ばしてしまった。椅子と机がぶつかってデカい音を立てた。
「てかさー、尾形主任がスマホのバッテリー気にするとか珍しくない?」
「実は主任、今日デートだったりして」
「うわー連絡なしでデートすっぽかしたってこと? 宇佐美主任カワイソー」
「丸聞こえの噂話やめろ!」
二階堂兄弟の言う通りだった。定時を過ぎて3時間、宇佐美に残業になったことを連絡できていない。
まだ待っているだろうか。有古が朝型なせいで閉店が早いから、なんとかキリのいいところまで終えて店に滑り込みたい。
「あ!」
「どうした浩平?」
「ブルースクリーン!」
「資料は!?」
「保存してなかった!」
家に帰れたのは日付を跨いだ頃だった。今日はどうしても宇佐美の顔を見たかったから、会社に泊まるのをギリギリで回避した。
「ただいま」
「おかえり」
激怒してるかと思ったが、宇佐美はあっけらかんとしていた。
「スマホの電源が切れて連絡できなかった……残業してた、すまない」
「そんなとこだろうと思ったよ。まぁいいけど」
お茶飲む?と冷蔵庫に向かった宇佐美が普通すぎて拍子抜けした。僕、記念日は絶対祝いたいタイプなんだよね!と言っていたのに。
「あのね、今日、僕逆ナンされちゃったぁ〜♡」
はい、と麦茶の入ったグラスを差し出される。反射的に受け取ってしまったけど、そっちじゃなくて。
「逆ナン……」
「有古の店で1人寂しく飲んでたら、綺麗な女性が隣に座ってきたの。話も弾むし楽しくなっちゃってさ、連絡先交換しちゃった!」
体がずんと重くなって、手足の指先が冷たくなっていく。
俺と宇佐美は付き合っているはずで、言わば恋人同士のはずで。異性からアプローチがあった話を楽しそうに恋人に聞かせるのはどういうことだ?
「百之助、聞いてる? どう思う?」
宇佐美の丸い瞳が俺を覗き込む。こういう質問は苦手だ、俺の意見を聞いているようでいて宇佐美の中で正解が決まっているような投げかけ。俺は正しい答えを導けない。
「……良かったんじゃないか」
宇佐美はため息をついた。ほら見ろ、外れた。
「風呂入ってくる」
気まずい空気から逃げるように俺は風呂場へ駆け込んだ。
子供の頃、俺はよく答えの決まっている質問を母親に投げかけた。「テストで満点だった」と言ったら「よく頑張ったね」と言ってほしかった。「転んで怪我をした」と言ったら「大丈夫?」と言ってほしかった。母からは何も返ってこなかった。たまにうるさいと叱られた。それ以来、俺は人と話すのが怖くなった。自分の気持ちも他人の気持ちも考えないようにしたら、ますます会話が難しくなった。こんな俺に近付く人間はいなくなった、宇佐美を除いて。
谷垣には「子どもにとって父親はお前しかいない」なんて格好つけたことを言ったが、宇佐美にとって俺は代替可能な恋人だ。より良い条件の人間に出会えばそちらに乗り換えるのは自然なことだ。捨てられるのも時間の問題か。
風呂から上がると宇佐美はいなかった。もう寝たか、明日も仕事だしな。
すっかり生ぬるくなっていた麦茶を飲みながらダイニングテーブルに座った。2人掛けの小さなテーブル。広げれば大きくなるけれど広げたことはない。この家には俺と宇佐美しかいないから。
ここを出て行けと言われたらどうしよう。会社の近くのボロアパートでも探すか。荷物は極力捨てていこう。
ぼーっとしながら麦茶を啜っていたら、ダイニングキッチンのドアが開いた。宇佐美がウサギのぬいぐるみを手に持っている。宇佐美はつかつかと歩いて俺の向かいに立った。座るのかと思いきや、ウサギのぬいぐるみを机の上に座らせて自身はテーブルの下に消えた。
「え?」
つぶらな瞳が俺を見つめている。
『ヒャクノスケくん』
ぬいぐるみが喋った。正確に言えば、テーブルの下にいる宇佐美が裏声でぬいぐるみに声を当てている。
「宇佐美?」
『違うよ、ボクはウサギだよ』
なんなんだ突然。ウサギはまた喋り出した。
『トキシゲくんが今日会ったお姉さんとデートしたいって言ったら、ヒャクノスケくんはどう思う?』
だから、正解のある質問はやめてほしい。
「止めない。そんなのアイツの勝手だろ」
『違うよ、ヒャクノスケくんの気持ちを聞いてるんだよ』
ぬいぐるみのくせに難しいことを言う。
『嬉しい? 悲しい?』
「……悲しい、けど、どうにもならないだろ。宇佐美が俺よりもその女を選んだんだから」
『悲しいから俺以外とデートするのやめてってトキシゲくんに言ったら、トキシゲくんはやめてくれると思うよ』
「アイツが誰と出掛けようが、俺が口を挟んでいいことじゃないだろう」
『口出していいんだよ、ヒャクノスケくんとトキシゲくんは付き合ってるんだから』
「言ってもやめてくれなかったらどうする? アイツの中で俺と別れることは決まってて、別の女と付き合うって決めてんだったら俺が何を言っても無駄だろ」
ウサギは少し黙った。
『……ヒャクノスケくんは、臆病者だね』
「傷付きたくないって思うのは悪いことか?」
『悪くないよ、けどお前のそういう態度が僕を傷付けてんだよ』
「口調が宇佐美に戻ってんじゃねーか」
ひょっこり宇佐美が顔を出した。唇が尖ってるから何かしら拗ねているらしい。
「僕のことが好きなら簡単に諦めるなよバカノスケ」
「お前こそ俺を試すようなことをするなアホシゲ。俺がそういうのうまく答えられないって知ってるだろ」
「僕は答え合わせをするつもりはない。お前の気持ちを聞きたいだけ」
俺の気持ちなんて聞いてどうすんだ。口をつぐむと
宇佐美が向かいの椅子に座った。
「実は谷垣から連絡が来てた。お前が定時で帰る準備してたのに、娘の誕生日だって言ったら自分の仕事代わってくれたって。ほんっとお前はお人好しだよな! お人好しは僕にだけやれよ!」
お人好し、とは少し違うかもしれない。
「……こどもの頃、俺の誕生日くらいは祝ってくれるんじゃないかと思って両親の帰りを待っていたことがある。結局どちらも帰ってこなかったけどな。そのときの寂しさを覚えているから、それをアイツの娘に感じさせるのは忍びなかった。でもそのせいで宇佐美には悪いことをしたと思ってる……ごめん」
恋人より後輩の子どもを優先させるなんて、俺が宇佐美の立場なら納得できないだろう。宇佐美の顔を見られなくて、俺はウサギのぬいぐるみを手に取った。真っ黒なプラスチックの瞳に語りかける。
「本当は俺も楽しみにしてた。有古のうまいメシ食いながらうまい酒飲みたかった。ほろ酔いの宇佐美と家帰ってセックスしたかった。また来年もよろしくって言いたかった。なぁ、俺たちに『また来年』はないのか?」
自分の髪を撫でるようにウサギの頭を撫でた。ら、宇佐美がぬいぐるみをむんずと掴み、ぽいとテーブルの端に投げた。
「僕、別にお前と別れるとか言ってないけど! ヒゲ面ツーブロ嫌味ったれゴリラのくせに繊細で思いやりあるところ愛おしすぎるんですけど!?」
宇佐美の顔が真っ赤になっている。色が白いから赤くなるとすぐわかる。
「僕も、ごめん。逆ナンされたのは嘘。お前、普段素っ気ないからちょっと不安だったんだよ。記念日すっぽかすとか僕のこと軽く見過ぎじゃない? 百之助にとって僕ってそんな程度の存在だったのかな? とかいろいろ考えてさ……」
「俺が自分からケツ差し出してる時点でわかれよ。俺はお前だからあんなみっともない姿晒してんだぞ」
「はあ? よく言うよ最初は散々抵抗したくせに!」
こめかみに青筋を立てた宇佐美を宥めるつもりで唇に触れるだけのキスをした。
「今週末は二人とも休みだから、リベンジさせてほしい」
鼻と頬にも唇を押しつける。そうしたら宇佐美がようやく「わかった」と言ってくれた。
「めちゃくちゃにしてやるからな!」
「そのためには明日の会議を乗り切らないと……」
「え、本部長への月次報告? そんな大事な資料谷垣に作らせたらダメでしょ!」
宇佐美も朝から手伝ってくれることになり、ようやくふたりでベッドに潜り込んだ。といっても寝られるのは3時間くらいか。宇佐美の腕の中で目を閉じるとあっという間に眠気が襲ってきた。4年目もよろしく、と無理矢理呟いて、宇佐美の胸に顔を埋めた。