#2 concussion「場地さんッ!!!」
場を切り裂くような千冬の鋭い叫び声が聞こえると同時に、真っ黒の特攻服に身を包んだ男が大きく前傾する。ガッと後ろから打ちつけるような音が響き、まずいと思ったときにはもう、地面はすぐ目の前だった。
圭介が身体を起こすよりも先に、すっ飛んできた千冬の強烈な一撃によってそいつはワンパンで伸されてしまう。頭の真横で、バイクブーツが地面を擦る音が聞こえる。どうか、情けの言葉などかけてくれるな。圭介の願いに、千冬が気づくことはなかった。
「大丈夫すか、場地さん!」
「……悪ぃ」
この場で圭介は自ら、力の差を示してしまった。武器を持っていたなんて関係ない。背後を取られ、あろうことか隊長である自分が膝をつかされてしまったことが問題なのだ。壱番隊隊長の辞書に、敗北なんて文字を刻んではいけない。
もし千冬がいなければ、倒れているうちに追撃をもらってこんな傷じゃ済まなかったかもしれない。分かってはいても、己の不甲斐なさを認めたくはなかった。
差し出された手には気付かないふりをして自力で起き上がる。心臓がそこに移ってしまったかのように、後頭部で血管がどくどくと収縮を繰り返すリズムに支配される。しかし、圭介の頭はここからどう挽回するかでいっぱいだった。傷が痛むだなんて弱音を吐いている暇はない。幸い特服が黒であるから血の染みは目立ちにくく、しかもアドレナリンが出て冷静さの欠けた千冬には、圭介の異変には気づいていないようだった。
圭介は己の拳を突き合わせて気合いを入れ直し、そのまま千冬と、二人で戦線へと戻っていった。
*
歩きながら、圭介は限界を迎えていた。歩を進めるたびに視界がふらふらと揺れるような感覚に陥り、大荒れの船の上にでも乗っているような感覚だった。目の前もぼんやりと翳っているような気がするし、何より頭痛と、吐き気が酷い。
喧嘩後の興奮からか、聞いてもいない話を永遠に繰り出す千冬に気づかれるのも時間の問題だ。これ以上情けない姿を見せてしまわないよう別々に帰ってしまいたかったが、千冬がそんなことを許すはずもなく。
千冬の話は、もうほとんど頭に入っていなかった。
「んで、朝起きたらペケのやつオレのベッドで寝てんすよ。もう一生許さねえって言ってたくせに!」
ちょっともう、ダメかもしれない。ぴんと張った糸の真ん中が、ぷち、ぷちと繊維の一つ一つを断たれていく。
「寒いからしかたなく、とか強がっちゃって、意外と可愛いところあんだよなーアイツ」
全身から血が抜けていくような、寒気がした。風なんて全く吹いていないのに。目の前がちかちかと瞬いて、夢を見ている気分になる。でも、そんなに心地が良いものではない。
「場地さん?」
ふらりと、一瞬の間に意識が飛ぶ。千冬の手が掴むよりも先に、圭介の身体は地面へと叩きつけられた。
場地さん!と何度も名前を呼ぶ声がする。意識を失ったのは一瞬で、圭介は自力で起きあがろうとするが地面に膝をつくので精一杯だった。体勢を低くしていないと、今にも吐いてしまいそうだ。膝を抱えて顔を埋めて、まるで迷子のこどもが泣いているようだ。だが、そんなことを考える余裕もない。ふーっ、ふーっと深い呼吸を繰り返す。生理的な涙は、どうやっても止まることはなかった。
千冬は見たことのない圭介の姿に動揺を隠しきれなかった。ふと触れた後頭部に、血がべったりと固まって髪を絡ませていることに気づく。あの時だ、と確信して気づけなかった己の不甲斐なさを悔いる。
「場地さん、頭……」
「、るせえ……お前、さき帰っとけ」
「帰れるわけないでしょ!頭、痛いんすか?他には?」
隣にしゃがみこみ、息を荒げる圭介を落ち着かせるように背中をさすった。その瞬間背中がビクっとしなって、肺が大きく上下する。
「ッう゛、オイやめろ、それ」
「吐きてぇなら吐いちまった方が楽ですよ、誰もいないし大丈夫ですから」
「いやだ、やめ、ろ……ッ」
どんなに言葉で制止しても、千冬は引かなかった。優しく優しく、千冬の手によって吐き気が催されてくる。腹から込み上げてくるような異物感。数年ぶりとも思える嘔吐の予感に我慢できず、掌を口元に添える。メーターが上へ、上へと上昇して、とうとう、決壊してしまった。
「ぅ、え、……っぁ、はあ、ごほ、」
コンクリートの地面に、汚い色をした吐瀉物が広がる。特服につくのが嫌で、膝をついて前屈みになると少し楽になる、と同時に、吐き戻しやすくなって続けて何度も、嗚咽を溢した。その間も千冬はずっと、背中を優しく撫でてくれていた。
「ぅぐ、っ……、おぇ、……」
「ごめんなさい気づかなくて。ずっと辛かったんすね」
「ッ、ひ、……う、」
歯を食いしばっても、身体の素直な反応には抗えない。自分のことを憧れだと慕ってくれる千冬にもこんな情けない姿を見せてしまって、もう呆れられてもしかたがないのに、千冬はずっと優しい言葉で慰めようとしてくれていた。惨めで、恥ずかしくて、情けない。千冬に見せたくなかった姿を今日一日で全て曝け出してしまって、あの千冬が自分に失望してしまったら、と考えると、それだけで涙が出てきてしまうくらいには、圭介は弱っていた。
「焦んなくていいですよ。オレがずっと付いてるんで」
「も、いい……やめろよそういうの」
一回目の波は過ぎた。しかし、身体から水分が出たことで悪寒が襲いかかり身体ががくがくと震える。先ほどまでの鈍感はどこへやら、千冬はオレの細かな体調の変化に目ざとく気づいて、背中を横から抱え込むようにして体温を分けてくれた。人肌が、冷えた身体を温める。こんなに汚い自分に、躊躇なく触れてくる千冬の優しさが、怖くなった。
もし千冬が自分に絶望するときがあったら、それはどんな状況なのだろうか。もし、こんな姿を見せても失望しなかった千冬が、自分のもっと汚い過去の過ちを知ったとき、彼はどんな風に受け止めるのか。いずれ必ずやってくる未来のことを考えて不安がどんどん降り積もっていく。いつか嫌われるくらいなら、できるだけ早いほうが傷は浅い。
「離れろよ、きたない、から」
「汚くありません。オレの心配してる場合じゃないでしょ」
「嫌だ、もうやめろ、オレに優しくすんな」
顔を伏せていればバレないと思ったのに、地面にぽた、ぽたとこぼれ落ちる涙が内緒にさせてくれなかった。隣に感じる千冬の暖かさに身を委ねてしまえたら、どんなによかったことか。でも、圭介にはそれが許されなかった。重大な隠し事をしている時点で、千冬と同じ目線に立つ権利すらないのだ。
「オレは、場地さんを置いていくなんてこと絶対にできません。いくら場地さんの願いでも」
「……そういうのが、うぜぇんだよ」
口から出てくるのは、千冬を突き放し遠ざけようとする言葉ばかり。人を傷つける言葉をわざわざ選んで、自ら罪を重ねていく。
「うざいの、嫌いじゃないでしょ」
それなのに、酷いことを言われても折れずに立ち上がってくる千冬に圭介の心は掻き乱される。向日葵のようだった。何度茎を折られても、自分が目標とする太陽に向かって背を伸ばし続ける。自分には、誰かの目標である資格なんてないのに。何も知らない千冬は、ついにその目標に辿り着いたとき、初めて絶望を知るのだろう。
それ以上、返す言葉が見つからなかった。過去の経験も、生き方も何もかもが違う千冬は、きっと目に映る景色が全く違うのだと圭介は思った。きっと太陽が眩しくて、プールの水面のように全てがきらきらと輝いているような虹色の世界が、彼には映っているのだ、と。圭介が、数年前に失ってしまった色だ。
圭介は、その日初めて千冬に負けた、と思った。しかし千冬は、そんなこときっと許してはくれないのだろう。
了